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精神医療に関するhystericgrammarのブックマーク (100)

  • 感情と精神療法 推敲 3

    転移感情は自然発生的なものだろうか? フロイトの話から稿のテーマに移っていこう。治療において感情はどのような意味や役割を持っているのか。フロイトはこの件について明白な見解を持っていたようである。患者は精神分析的な枠組みの中では治療者にある種の要請の感情、すなわち転移感情を有する。しかもこれは印象だが、患者は全員、デフォルトで持っているかのような書き方である。もちろん治療を求める際には、治療者への理想化はあるかもしれない。でもフロイトはそれをあたかも恋愛感情のような形で患者の中にすでにあると思っているところがある。そもそも患者は治療者に関心を持っていないことだってあるのではないか、と尋ねたくなる。しかしフロイトはこう言いそうである。「もちろん意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そうして付け加えるだろう。「治療者が自分の姿を現さず、患者の愛の希求を満たさない

  • 感情と精神療法 7

    昨日書いた件についてもう少し言葉を加えたい。 人が他者に興味を持ち、その考えを知りたくなったり、会話をしたくなるような場合を考えよう。そこには様々なきっかけがあるだろう。その人の書いたり行ったりしたことを知り、共感を覚えるという場合もあるし、その人の話に大きな興味をそそられ、もう少しその考えを知りたいということもあるだろう。あるいはその人の考えや行動に感動し、もう少し深くその人を知りたいと思うこともある。場合によってはその人の言動に違和感を覚え、会って意見を戦わせたいと思うこともあるかもしれない。 いずれにせよその人との言語的な交流により自分が変わるという予感を持つのだ。そしてそれはその人の考えや行動を知るということによって生まれるとすれば、その人をより深く知るということが大きな前提となる。 このことを治療関係について考えよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、これ

  • 感情と精神療法 5

    治療関係における偶発性の要素 治療関係における情緒的な要素については、ここまで情緒的な関りについて述べたが、では情緒的なファクターだけを注目するべきであろうか。私は必ずしもそう思わない。たとえばターニングポイントという村岡の概念がある。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。 もう少し具体的に考えよう。それ

  • 感情と精神療法 4

    転移感情は自然発生的なものだろうか? ここで私はもう少し臨床の現実に照らした考えを示したい。治療関係においてある種の情緒的な交流が起きることはしばしばある。それは間違いのないことである。ただし情緒的な交流がそのまま治療の進展につながるとは限らない。ある種の情緒的な交流が治療の進展や行き詰まりを生むことは確かなことである。 現在のSNSの社会では、利用者が特定の医師や治療者に対するかなり率直なコメントを残し、それを不特定多数の利用者が目にすることが出来る。いわゆる「口コミ」というものだ。それはある意味では深刻なプライバシーの侵害を招きかねないという懸念を私は持つが、少なくともそこから散見されることは、利用者は治療者に助けられ、支持されることでの尊大な、あるいは上から目線の態度に憤慨し、傷ついているということである。時には同じ治療者がある利用者からは感謝の気持ちを表現され、別の患者からは傷つけ

  • 交代人格を無視? 5

    解離症状は封じるべきか? 「交代人格を無視する」という立場にとってはある強固な支えとなる理屈がある。それは「○○(症状名)はそれを放置しておくとどんどん癖になり悪化する」という考えである。古くはマスターベーションがそうであった。「放っておくとますます性欲が増し、性的に放縦になってしまう。だから禁止しなくてはならない。」(この種の対応を親から受けたことがある人は、きっと読者の中にもいらっしゃるだろう。)あるいはリストカット。禁止しないと癖になってしまうと考える。過も嘔吐も、ある種の強迫行為も、親や保護者は見つけたら「芽のうちに摘んで」おこうとする。 どうやらこれは解離についても言えるらしい。放っておくと癖になるから、見て見ぬふりをする。解離を認めてしまうと歯止めが効かなくなってしまう。これはかなり説得力のあるナラティブで、明らかに嗜癖を形成するような症状や行動ならば、概ねこの考えのとおりで

  • Multiplicity of therapeutic actions 6.

    12. the conclusion of Gabbard’s paper (p.837) Here, I quote some of his statements. “There is no single path to, or target of, therapeutic change”. “Any time we are tempted to propose a single formula for change, we should take this as a clue that we are trying to reduce our anxiety about uncertainty by reducing something very complex to something very simple”. “Various goals of treatment and tech

  • 神経哲学の教え 5

    解離新時代(岩崎学術出版社, 2015)に書いたショアについての記載、今でもとても役立つ。以下に抜粋。 ショアの主張は、愛着トラウマは具体的な生理学的機序を有しているということだ。母親に感情の調節をしてもらえないことで交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。そして心臓の鼓動や血圧が高進し、発汗が生じる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に鼓動は低下し、血圧も低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時特に興奮しているのが背側迷走神経の方だ。ちなみに迷走神経を腹側、背側の二つに分けて考えるのは最近のスティーブン・ポージスの理論(Porges, 2001)である。解離は生理学的には後者が興奮した状態として理解できるというのである。 ショアはこの状態と、いわゆるタイプ D の愛着との関連に転じる。タイプDの愛着とは、メアリー・エインスウォース

  • 不安 推敲の推敲の推敲 4

    過剰なD不安はまた、CSTCループ自身の過活動も関与している可能性がある。強迫観念はそのような機序として近年研究が進められている。 ところで「不安システム」の変調としてもう一つ述べておかなくてはならないのが解離の機制である。恐怖体験は時にはT不安以外の反応を引き起こす可能性がある。それが最トラウマに対する解離反応であり、PTSDの「解離タイプ」という存在である。 以上不安の精神病理について、フロイトの見解の後に付け加えられた生物学的な所見によりそれを拡張した形で論述を行った。不安という私たちになじみの体験は、私達生命体が破局的な体験を乗り越えて心身ともに生き残るための極めて基的かつ必須のものである。「不安システム」は私達の心がトラウマ的な状況に際して症状として現われた強烈な不安(T不安)に対してそれを意識的、無意識的レベルで常に予測し、いわばD不安に変換することで準備するという、脳科学的

  • 不安 推敲の推敲の推敲 3

    不安の精神病理学とは「不安システム」の失調ないしは機能不全を意味するが、それは具体的にはT不安、D不安が病的に高まる状態として理解される。まずT不安が異常に高まる状況としては、トラウマ的な状況そのものが深刻で心に深い傷跡を残す場合である。トラウマ的な状況により生じるトラウマ記憶(より専門的には「恐怖関連記憶 Fear-Related Memoryと呼ばれる」が通常の記憶といかに異なる性質を有するかについては近年さまざまな研究がなされている。トラウマ的な状況で分泌が促進されるストレスホルモンは、扁桃体における情動的な出来事の刻印付けを促進すると同時に海馬の機能を抑制し、それが通常のエピソード記憶とは異なるトラウマ記憶の形成を促す。 トラウマ記憶はフラッシュバックの形で蘇る頻度も非常に高く、またそれに対する心の準備を行うまでには時間がかかる。そのために必然的にD不安も高まり、継続的に体験される

  • 不安 推敲の推敲の推敲 2

    以上フロイトの至った不安の精神病理学的な考察と現代の脳科学的、精神薬理学的な理論を示したが、その趣旨はほぼ一致した方向性を示していることがお分かりであろう。臨床的にも生物学的に見ても、不安はいわば二層構造を有している。過去に現実の、あるいは想像上の恐怖体験ないしは強烈な不安があり、それを想起したり予期したりすることにともなう、より緩徐な不安がある。これらをフロイトの呼び方に準じてそれぞれT不安とD不安と呼ぶことにしたのだった。そして前者はちょうどそのまま Stahl の恐れ体験 fear experienceに、後者は心配worry に相当するのである。 T不安は恐怖であり、自分がどの様な境遇に晒されるかわからず、また一瞬先も予測することが出来ず、体験に受け身に翻弄される事態である。そこでは自らの精神的、ないしは身体的な存亡が危機に瀕し、あるいはその様に感じる状態であり、まさにフロイトが表

  • 交代人格を無視? 4

    English (1) English entry (1) win-win (3) いじめ、自殺 (1) うつ病 (16) オタクについて (11) チビの後ずさり (2) ニューラルネットワーク (1) パリ留学 (27) 愛他性 (1) 解離 (18) 解離、挿絵 (2) 快楽原則 (26) 閑話休題 (1) 関係性のストレス (5) 気弱さ (1) 現実、 (1) 治療論 (28) 治療論(改訂版) (10) 自己開示 (2) 失敗学 (19) 女性性 (1) 小沢さん (1) 上から目線 (2) 心得23 (1) 心得7 (1) 心得8 (1) 真面目さ (1) 親子の関係 (16) 生きがい (1) 精神科医 (1) 精神科面接 (11) 精神分析 (3) 精神分析と言葉 (3) 対人恐怖 (21) 怠け病 (11) 男はどうしようもない (1) 恥と自己愛 (11) 怒らないこ

  • 治療機序の多元性について 2

    私は精神分析は出来るだけサイエンスであり続けるべきだと思います。ですから精神分析はどのような機序で患者に変化を与えていくかという厳密な議論は必要だと考えています。そしてフロイトが、それは無意識の意識化であり、そのために最も決定的な介入は無意識内容の解釈であると唱えたこと、そしてそれが精神分析において長い間半ば常識とされてきたということは歴史的に見て極めて大きな意味を持っていると思います。そしてそれに対するアンチテーゼとして支持的、ないしは関係性という考え方が生まれたわけですが、従来考えられてきた「洞察的か、支持的か」や「解釈か、関係性か」という対立軸はもはや意味がないということです。 ところでMPRP(メニンガー精神療法研究プロジェクト)は解釈的な要素と支持的な要素は常に入り混じっていた(Wallerstein, 1986)という結論が出ました。それからは解釈による洞察」と「新しい関係性を

  • 交代人格を無視? 3

    解離症状は封じるべきか? 解離を無視するという立場にとってある種の支えとなるような理論がある。それは「○○(症状名)はそれを放置しておくとどんどん悪化する」という考えである。古くはマスターベーションがそうであった。「放っておくとますます性欲が増し、性的に放縦になってしまう。だから禁止しなくてはならない。」(この種の対応を親から受けたことがある人はきっと読者の中にもいるだろう。)あるいはリストカット。禁止しないと癖になってしまうと考える。過も、強迫行為も、親や保護者は見つけたら「芽のうちに摘んで」おこうとする。 どうやらこれは解離についても言えるらしい。ほっておくと癖になるから、見て見ぬふりをする。解離を認めてしまうと歯止めが効かなくなってしまう。これはかなり強烈で説得力のあるナラティブで、明らかに嗜癖を形成するようなものならまさにこの考えのとおりである。シンナーを吸って陶酔している若者に

  • 高機能のサイコパスと治療

    昨日とある学会で発表した内容の結論部分である 仮説を含めた結論 高機能のサイコパスの治療的なアプローチは可能か。 まずここでサイコパスの治療の目標としては、彼らの向社会性を少しでも高める関りと考えることが出来るであろう。それは彼らの共感力を高めるという類の治療目標とは異なる。 サイコパス自体がある種のheterogenous 異種性の、異成分からなる一種の症候群である以上、そこには反社会性の部分を含まないサイコパスも存在し得るであろう。これはある意味では異なるネットワークからなり、それぞれのネットワークの性質から第4成分を含まないものも出て来て、その上に高知能性を有する場合にHFPとなるであろう。だからHFPはサイコパスの中の一定の割合を占めるであろう。そしてそこで高知能と幸運に恵まれた彼らが社会で成功する可能性はより高くなる。 ただしニューマンの研究が示すとおり、ここにはスイッチング効果

  • 交代人格を無視? 2

    治療者の人見知り? 遠慮? 私は依然は交代人格を無視する態度を治療者の側の経験不足や不見識と考える傾向が少なからずあったが、少し最近は考えが変わってきている。そこには治療者の側のある種の人見知りのような傾向が絡んでいるのではないかとさえ思うのだ。 私たちは初対面の人と会う時、少なからず緊張し、身構えるものだ。それは例えば医療現場で初診で患者と会う時でさえ起きる。こちらは初診を一日にいくつも受けることがあり、それこそ何人もと「初めて会う」ことになる。しかもこちらが専門家として話を聞くという、ある意味では優位性を保ったままでの初対面である。優位性、と言うと語弊があるかもしれないが、面接時間、料金の提示、今後の処遇などについて、ほとんどがこちらに裁量権がある。こちらの条件を一方的に示して受け入れてもらうことになる。主導権を最初から握っているのだ。それでも初めての人には若干の緊張や一種の人見知りの

  • 感情と精神療法 1

    感情と精神療法、というテーマで書くことになった。何で急にそのテーマで?と聞かれそうだが、これも「執筆依頼」関連である。 私は精神療法のセッションで情緒的なコミュニケーションが欠如しているものはあまり考えられない。記憶のメカニズムを考えてもわかるとおり、記憶内容はそこに情緒が伴うことで扁桃核が刺激され、海馬により深く印象づけられて固定されていく。いかなる体験もそうである。ある深い洞察を得たとしても、そこに情緒が必然的に伴わない限りはそれは記憶にあまり残って行かない。情緒体験以外に記憶に深く残るものとしては、知覚印象である。しかしそれは美しい、醜い、恐ろしい、などの感情を伴うものであって初めて記憶に残ることになる。つまり情緒を結局は動かしているのだ。 もちろん単なるデータとしての記憶もある。私達が年号を記憶するとき、例えば鎌倉幕府の開かれた1192年についてイイクニツクロウなどとゴロで覚えると

  • 私の気持ちは、誰のもの?(熊代亨:精神科医)#もやもやする気持ちへの処方箋|「こころ」のための専門メディア 金子書房

    近年の精神医療や精神療法の進歩には目覚ましいものがあります。 その進歩がもたらした恩恵の一方で、もやもやする気持ちまでもが「治療」の対象になる社会がすぐそこにあるのかもしれません。私たちはどんな社会を望んでいるのでしょうか? 精神科医の立場から現代社会を分析する、熊代亨先生にお書きいただきました。 精神科医として精神医療に従事しながら、「現代人にとって社会に適応するとは何か」をテーマにブログやを書き続けている、熊代亨といいます。今回のお題、「もやもやする気持ちへの処方箋」に関連して、いつも考えていることを述べさせていただきます。 白衣を着て仕事をしている時、さまざまな「もやもやする気持ち」を患者さんから聴きます。うつ病の患者さんの悲観的なお話や、社交不安障害の患者さんの悩みなどは「もやもやする気持ち」という言葉がよく似合い、聞いているこちらまで気持ちがモヤモヤしてくることもあります。 で

    私の気持ちは、誰のもの?(熊代亨:精神科医)#もやもやする気持ちへの処方箋|「こころ」のための専門メディア 金子書房
  • 交代人格を無視? 1

    「交代人格は無視する」ではうまく行かない という題でしばらく書くことになるが、実は私のこのテーマをここ一年間何度も扱っている。でも今度は依頼原稿なので、同じテーマでこれまでと違うことを書くことになる。 「解離性障害と他者性の病理」(近刊)での対談で、柴山先生、野間先生と話をした内容を収めることになっている。そのとき3人の間で、交代人格さんへのアプローチがかなり違うということが話題になった。DIDの方と話をしている時に、しばしば別人格さんは「見え隠れ」する。というか彼らは「見え隠れ」することに慣れている。そしれそれはBさんにとっては最初から起きていることなのだ。どういうことなのだろうか。 大抵はAさん(主人格)に変わってBさん(交代人格)が最初に出る場合、彼は「どうしよう、バレないかな?」とソワソワしているのが普通だ。何しろなぜ自分がここに今出されているのかが分からないことが多い。たいていの

  • 追悼・中井久夫さん<ケアの時代を予見したひと> 斎藤環さん寄稿 | 毎日新聞

    統合失調症研究や阪神大震災時の「こころのケア」の取り組み、随筆や翻訳など幅広い業績を残した精神科医、中井久夫さんが8月8日、肺炎のため88歳で死去した。「唯一の師」として敬慕してきたという精神科医の斎藤環さんが毎日新聞に追悼文を寄せた。 ◇ 血肉化された読書体験 中井久夫先生が亡くなられた。私は著書を通じて私淑してきた一ファンに過ぎないが、中井先生を唯一の師として敬慕してきた。 臨床1年目で手に取ったのが、今は絶版となった『中井久夫著作集』(岩崎学術出版社)の一冊『分裂病』だった。一読して圧倒された。とてつもない教養と繊細極まりない臨床眼、どんな作家にも似ていない、みずみずしくも重厚な文体。ただちに著作集全巻を買い求め、貪(むさぼ)るように読んだ。

    追悼・中井久夫さん<ケアの時代を予見したひと> 斎藤環さん寄稿 | 毎日新聞
  • パーソナリティ障害 推敲 13

    自己愛性PD 自己愛性PDに対する精神療法的アプローチはBPDの治療理論と共に発展したという経緯がある。それは1970年代よりHeinz Kohut (1971) とKernberg (1975)がそれぞれ提出したかなり異なるパラダイムの間の論争に触発された。Kohut は患者が幼少時に十分な共感を得られなかったことによる自己の断片化に注目し、共感的なアプローチの重要さを強調した。それに対してKernberg は自己愛PDが有する貪欲さと要求がましさを問題とし、それらが直面化を駆使して検討されるアプローチを目指した。前者は患者の体験の肯定的な側面により多くの注意を払い、後者はむしろ否定的な側面への直面化を重視することになる。しかし現実の治療ではこれらの治療論のいずれかに偏ることなく、患者の言葉に耳を傾け、転移と逆転移の発展を観察し、試みの介入による患者の反応に注目しながら治療を進めていくべ