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精神医療に関するhystericgrammarのブックマーク (100)

  • PD(パーソナリティ障害)概論 1

    English (1) English entry (1) win-win (3) いじめ、自殺 (1) うつ病 (16) オタクについて (11) チビの後ずさり (2) ニューラルネットワーク (1) パリ留学 (27) 愛他性 (1) 解離 (18) 解離、挿絵 (2) 快楽原則 (26) 閑話休題 (1) 関係性のストレス (5) 気弱さ (1) 現実、 (1) 治療論 (28) 治療論(改訂版) (10) 自己開示 (2) 失敗学 (19) 女性性 (1) 小沢さん (1) 上から目線 (2) 心得23 (1) 心得7 (1) 心得8 (1) 真面目さ (1) 親子の関係 (16) 生きがい (1) 精神科医 (1) 精神科面接 (11) 精神分析 (3) 精神分析と言葉 (3) 対人恐怖 (21) 怠け病 (11) 男はどうしようもない (1) 恥と自己愛 (11) 怒らないこ

  • 精神科医にとっての精神分析 9

    このような精神分析の治療目標として Gabbard  先生が提唱するのが以下の通りです。 「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard, 2003), Rethinking therapeutic action, p825. そしてFonagy 達の言葉を引用します。 [精神分析のプロセスは]メンタライジングにより、ないしは反省的な機能により心的現実を拡張していくことである。」(Fonagy, Target 1996)。UANやフロイトの言う「反復」を扱っていく上で、例えば自由連想や解釈などよりも、なぜこのメンタライジングのプロセスが強調されるのでしょうか? APA (American Psychological Association) の辞書ではそれを次のように定義していま

  • 治療者の脆弱性 5

    この問題はとても重要なテーマとかかわっている。それは私たちは自分たちをどの程度反省することが出来るかということだ。これについてはある種の常識的な考え方が成り立つであろう。それは私たちがそれに直面することが出来る分だけである。別言すれば私たちはあるレベルまでの反省はできても、それ以上は原理的に無理があるということである。ある分析家の提言を思い出そう(以前何度か引用したことがあるが失念した)。私たちの思考はそれより上位のものに対する防衛となると同時に、それ以下のものにとっては衝動であるということだ。例えば私たちがある日仕事が終わってからとてもアルコール飲料を取りたくなるとしよう。あるいはとても甘いものをべたくなる、でもいい。そしてそれはふとその日職場で体験した不快な出来事に関係していることに気が付く。同僚に言われた何気ない一言により自分の能力に疑問を投げかけられたような気がして、一瞬それを忘

  • 【インタビュー】ポケットにぬいぐるみを潜ませて——元ひきこもりが作る「外に出ることを助ける服」ができるまで

    服がきっかけでひきこもりを脱したことから、支援機関と連携しながら外出時の不安を軽減する「外に出ることを助ける服」を製作している「ひなしゅしゅ」デザイナーの松崎雛乃。大学在学中に同アイテムを考案し、現在に至るまで売上は全てひきこもりを対象にしたNPO法人に寄付しているという。松崎はなぜ"ひきこもりを助ける服"ではなく「外に出ることを助ける服」を製作するに至ったのか。松崎人に話を聞いた。 松崎雛乃 1995年生まれ、滋賀県在住。17歳で人間関係に悩みひきこもり、高校を中退。3年間ひきこもったのち高校卒業程度認定試験を受け、京都芸術大学に進学。在学時から自身の経験を活かした「外に出ることを助ける服」を製作している。 公式ツイッター/公式インスタグラム ー「ひなしゅしゅ」というブランド名の由来は? 一つは精神的にも物理的にも柔らかくて優しい服を作りたいなという考えがあったので、五感と見た目が固く

    【インタビュー】ポケットにぬいぐるみを潜ませて——元ひきこもりが作る「外に出ることを助ける服」ができるまで
  • わたしの心のうぶ毛

    どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛は?Wohin kam die Thräne meinem Auge und der Flaum meinem Herzen? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「夜の歌」1883年) わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。Nach dem Verwundbarsten, das ich besass, schoss man den Pfeil: das waret ihr, denen die Haut einem Flaume gleich ist und mehr noch dem Lächeln, das an einem Blick erstirbt!  (

    わたしの心のうぶ毛
  • 治療者の脆弱性 3

    恥と自己愛トラウマ 私は2014年に「恥と自己愛トラウマ」というを書いた。その前書きでも言ったことだが、私は恥こそが最も人間にとって威力を持つ感情であるという立場を述べている。「恥を恐れ、恥をかきたくないという思いが人を強力に突き動かす。恥をかかされたという思いが相手への深い憎しみとなるのである。」とし、恥をかかされた体験を「自己愛トラウマ」と呼んだ。そしてこのトラウマの特徴として、加害者が曖昧であるということを強調した。ツイッターでつぶやいたことに対して、誰も反応をしてくれないとしよう。ブログを更新しても誰も読んでくれないとしよう。それを書いた人は深く傷つき、自己愛トラウマを体験する。しかしいったいどこに加害者がいるのか。誰もいないのである。あえて言うならば理想的な自己像、ツイッターに沢山反応が来て、購読者数が万を超えるようなユウチューバーであるという理想像を描いた自分こそが加害者なの

    治療者の脆弱性 3
  • 治療者の脆弱性 2

    脆弱性については色々な種類があると考えるが、私が特に考えたいのが自己愛的な脆弱性ということだ。それは私たちが最も陥りやすい、と言うか自己愛を有するということはほぼ自動的にその脆弱性を備えるという意味では、私たちの存在にとって最も身近なものの一つだからだ。 自己愛と恥は表裏一体である 私が自己愛という言葉に特別なものをさすつもりはない。きわめて単純な事実がある。それは人は常に自分のことを理解し、評価して欲しいということである。人にこれほど切実な欲求はあるだろうか? しかし人は同時に誤解されたり、理解されなかったりすることになれている。だから期待しないようにしている。しかしそれでもつい願望を持ってしまうのだ。そしてこの願望が常にある以上、それは脆弱性の存在を意味する。人から無視されたり、誤解されたりすることの苦しみ。治療者のそれは患者にさえ向かうのである。自分の解釈を誤解されたのではないか。「

  • 治療者の脆弱性 1

    このテーマに関しては、私が優れた治療者として思い浮かべる人たちを考えることにしよう。私は治療者の持つ特徴として重要なのは十分に敏感であること、そしてレジリエントであるということだと考える。治療者が自分の心の中に起きていることと患者の心の中に起きているであろうこと、あるいは患者が時には暗黙の裡に、または微妙な形で送ってきているシグナルに敏感でないならば、治療者として十分に機能できるかは疑わしいであろう。もちろん受け取った信号にどのように反応するか、あるいはしないかはもう一つの重要な点であろうが。しかしここにもう一つの重要な条件があり、それがレジリエンスである。つまりストレスに反応しつつ、自分自身が安定していること、一時的に大きく揺れてもたちなおれることである。もし敏感な心がそれゆえに大きく揺れて、崩れてしまっては治療者はその役目を果たすことはできない。たとえて言うならば繊細だがしなやかな木の

  • 精神科医にとっての精神分析 6

    このUAN(unconscious associative network)という概念は何を意味するのか? 人間の頭悩が結局は神経細胞の作るネットワークの産物であり、フロイトもあれから何十年も研究するとしたら同様の結論に至った筈である.フロイトもそれ以上はプラックボックスであると考えたし、それは私たちが Neural network と呼んでいるものとかわらないのだ。意識+無意識=NNとすると、無意識はUANとなる。つまりUANを考えることは私達の心に作られたパターン,ネットワークを考えることになる.つまり脳科学的に心を促えるということは、UANと同じことになる。そしてそれでは私達の自由意志の問題はどうなるのか、ということになるが、NNモデルによればそれはUANに多くの蓋然性が加わり、析出されたものであり、それは自由意志が実は脳により作られているということを示しているのだ。 さてこの考えに

  • 2022-06-08から1日間の記事一覧 - 自分を好きになろう

    自由にたのしく書いております。 岡がほしいものリスト ※おことわり※ の紹介をする際に、Amazonのアソシエイトリンクを活用しています。 また、グーグルアドセンスを記事中、記事周りに貼り付けています。 占い鑑定のご依頼は okaimhome あっとまーく gmail.com まで、「鑑定希望」を明記のうえ、フルネームを添えてメールをお送りください。

    2022-06-08から1日間の記事一覧 - 自分を好きになろう
  • 他者性の問題 115 差別の問題、かなり補足した

    「障害」の概念とその表記の仕方 この問題について検討する前に、そもそも障害や疾患とは何をさすのかについて少し論じよう。最近ではわが国では「精神疾患」の代わりに「精神障害」の表現が用いられるようになったようであるが、その一つの理由は欧米の診断基準である DSM や ICD が標準的に用いている “disorder”(通常は「 障害」と訳される)という呼び方に対応するためのものだったと考えられる。しかし「精神障害 」の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとうということから、最近では代わりに「障碍」ないしは「障がい」という表記をすることが多くなってきた。(ただし「碍」という文字の語源を調べると、これにも同様にマイナスな意味が含まれるようであり、果たして「障碍」への置き換えには意味があるのかという疑問も生じる。) そして最近はこの disorder がさらに「症」と訳されるようになって来て

  • 他者性の問題 114

    私が章で示したいのは、DIDの交代人格を他者として捉えるという立場は、治療の最終ゴールは統合であるという考え方とは齟齬が生じるということである。それは現代的な言い方をするならば、共存という姿勢にとって代わられるべきものである。 そこで臨床家がどの様に交代人格と会うべきかという事について改めて論じたい。まず大事なことは、言うまでもなく個々の交代人格を尊重する姿勢を保つという事である。DIDの患者さんとの臨床で、異なる複数の人格と出会うという事は実際に、それも頻繁に起きる。患者さんは通常はAさんの人格で来院するとしても、時々Bさんとして表れることもあり、また状況によっては途中からさらにCさんに変わることもある。そしてそのような人格のスイッチングは治療者がどの人格に対しても温かく迎えるという姿勢があればあるほど促進される可能性が高くなるのだ。 一つ重要な点は、DIDの患者さんは常に人の気持ちを

  • 松沢病院 アウトリーチ /光平 有希

    公開講演会「精神医療と音楽歴史」(2017年9月16日)当日の様子をご覧いただけます。 <クリックで動画再生> 江戸期以降、日の医学分野では、予防医学や各種疾病に対する治療の一環として、体系的に音楽を用いることが模索されてきました。その長きに亘る模索が、「理論」だけではなく、格的な「実践」にまで推し進められたのは明治期であり、この時期の音楽療法実践の中核をなしていたのが、東京都立松沢病院の前身、東京府巣鴨病院です。巣鴨病院では、明治32(1905)年から精神療法の一環として音楽療法に着手。同時代、この音楽を用いた治療法につけられた名称は、正に「音楽療法」でした。 巣鴨病院における音楽療法は、明治期より病院組織全体での認識が図られ、病院の移転後、名称が松沢病院となった後も継承されていきます。今回の講演では、明治期から昭和戦前期を対象としましたが、その間、音楽療法実践の治療原理や楽曲には

    松沢病院 アウトリーチ /光平 有希
  • 他者性の問題 109

    結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか 以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になるために、それについて論じることから始めた。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、この問題が、被告人が責任能力を有するか、という論点となるのだ。 私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになると考える。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者としての別人格がその罪を犯したと言わざるを得ない場合がある。私はその様な事態、つまり主人格Aさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格

  • 大学のニュースレターに依頼された文章

    私は年3月末日で京都大学教育学研究科の教授の任期を終えたが、やはり8年間過ごした京大との関係がこれで切れてしまうのかと思うととても残念である。しかし幸いなことに退職と同時に京大の名誉教授の称号をいただくことになった。まことにありがたいことである。しかし同時に改めて名誉教授とはどのような立場なのかを考えてもさっぱりわからなかった。そうした折、大学から名誉教授の証というカードを交付された。磁気ストライプがついていて何かを読み取ってくれるようである。ただしこれによりどのような「得点」があるのかについてはよく分からない。このカードで京大の図書館に入館できるのであれば有り難いことではあるが、あいにく東京在住となる身では、京都までそのために出向くということはあまり考えられないのだ。 しかしそれでも私は一生京都大学と縁を持てることになった。京大「所属」とは言えないかも知れない。しかし私は「京大の名誉教

  • 他者性の問題 98

    統合が最終目標か? このようにDIDにおいて出会う交代人格のそれぞれを人として尊重しつつ会うという姿勢は、治療論にどのように反映されるべきなのだろうか。そこで検証されなくてはならないのが、DIDの治療として統合を目指すという姿勢である。といっても統合を目指すという方向性とは異なる治療を考えなくてはならないというのが私の主張となる。 解離の治療には様々なものが考えられるが、おおむね統合を目指すという立場が依然として優勢なように思われる。それはF.Putnam やR.Kluft  といった解離のエキスパートたちによって掲げられて以来、いわば既定路線として受け継がれ、今でも多くの臨床家が治療の最終的な目標として考えているようである。第●●章でも示したように、司法の立場からは、精神科医の文献を引用し、「治療的な観点では、通常は人格の統合を最終ゴールとしていることを考えれば・・・」とされ、あたかもそ

  • 他者性の問題 97 治療論の部分

    私が章で述べたいのは、交代人格を他者として捉えるという立場は、おそらくDIDの治療の最終ゴールは統合であるという考え方とは齟齬が生じるということである。それは現代的な言い方をするならば、共存という姿勢にとって代わられるべきものである。 そこで臨床家がどの様に交代人格と会うべきかという事について改めて論じたい。まず大事なことは、言うまでもなく個々の交代人格を尊重するようなかかわりを持つという事である。DIDの患者さんとの臨床で、異なる複数の人格と出会うという事は実際に、それも頻繁に起きる。患者さんは通常はAの人格で来院するとしても、時々Bさんとして表れることもあり、また状況によっては途中からさらにCさんに変わることもある。そしてそれは治療者がどの人格に対しても温かく迎えるという姿勢があればあるほど生じる可能性が高くなるのだ。 一つ重要な点は、DIDの患者さんは常に人の気持ちを敏感に感じ続け

  • 他者性の問題 96 攻撃者の内在化の図の説明の追加部分

    こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(図2)としてあらわされる。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになる。この図2に示したように、攻撃者の方は攻撃者との同一化のプロセスで入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージ(薄緑の小さなマル)も同様に入り込む。 図2 この図示でのポイントは、子供の心(S)と取り入れられた攻撃者、およびその攻撃者が持っていた子供の内的イメージが、子供の脳内で交流ないしはやり取りを行うことである。このように考えると、例えば子供が行う自傷行為なども比較的説明がしやすい。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性を持っているのだ。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっ

    他者性の問題 96 攻撃者の内在化の図の説明の追加部分
  • https://www.tatsumakai.jp/about/publication/kouhou_04.pdf

    hystericgrammar
    hystericgrammar 2022/05/09
    私は 1979 年 10 月から 1 年間パリのサルペトリエール病院(パリ第 6 大学)神経病理部および 院外の国立医学研究所に留学しました。その時お世話になったのがミッシェル・ファルドー先生で した。そのファルドー先生が
  • 他者性の問題 92 謙虚でなくては・・・

    私は最近とても良い体験をした。私が非常にリスペクトを感じるある精神科医とゆっくり話す機会があった。その先生は解離性障害の患者さんとの出会いについてご自分の体験を話してくれたが、それはとても参考になった。その先生は生物学的な素養が極めて深い、しかもとても良心的な臨床家であるが、彼の臨床の対象が双極性障害統合失調症であることとも関係し、解離性の患者さんになかなか出会わない。それでも時々それらしき症状について触れる患者さんもいるという。そしてその時の対応を聞いてみた。するとその時の彼の心には「これは解離かも知れない。しかしそれについて不案内な自分が軽々しく扱ってはいけない。」という気持ちが浮かぶという。そしてその後同様の症状の訴えがないことから、そのエピソードは忘れられる運命にあるのだ。そしてそのような臨床家にとって解離を無視するとか軽視するというニュアンスはないのである。これは私たちの持つ専