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2015年3月23日のブックマーク (8件)

  • 【チュニジア襲撃テロ】結城さんが手記 朝日記者の怒声に「ショック…」 国際報道部長が謝罪「重く受け止めおわびします」(1/6ページ) - 産経ニュース

    チュニジアの博物館襲撃テロで負傷し、首都チュニスのシャルル・ニコル病院に入院中で陸上自衛隊3等陸佐の結城法子さん(35)=東京都豊島区=は20日、共同通信など一部メディアに手記を寄せ、「現実のこととは思えませんでした」と事件当時の恐怖を振り返った。 また、結城さんは手記で、朝日新聞記者と日大使館員の取材をめぐるやりとりについて「『取材をさせてください。あなたに断る権利はない』と日語で怒鳴っている声が聞こえ、ショックでした」と記した。 これを受け、朝日新聞の石合力・国際報道部長は朝日新聞デジタルのホームページ(HP)に「取材の経緯、説明します」と題した見解を掲載し、「記者には大声を出したつもりはありませんでしたが、手記で記されていることを重く受け止め、結城さんにおわびします」と謝罪した。 HPによると、朝日新聞記者は取材のため、発生翌日の19日午後(日時間同日夜)、チュニス市内の病院を

    【チュニジア襲撃テロ】結城さんが手記 朝日記者の怒声に「ショック…」 国際報道部長が謝罪「重く受け止めおわびします」(1/6ページ) - 産経ニュース
    iR3
    iR3 2015/03/23
    また朝日か
  • 【歴史戦】稲田朋美・自民党政調会長 「慰安婦の次はぜひ『百人斬り報道』の訂正を」「首相70年談話は何も心配ない」(1/5ページ) - 産経ニュース

    かつて弁護士として「百人斬り」名誉毀損訴訟などを手がけ、保守派の論客として知られる自民党の稲田朋美政調会長が、産経新聞のインタビューに応じた。詳報は次の通り。 昨年は朝日新聞が慰安婦問題に関する一部記事を取り消して謝罪した。でも、朝日新聞も毎日新聞も、昭和12年の南京攻略戦で旧日軍の将校2人が、日刀で「百人斬り」競争を行ったと書いた記事は取り消していません。慰安婦問題の次はこの問題をぜひ訂正してほしい。 百人斬りは東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海一男記者の創作記事であり、日刀を持った将校2人の写真を撮った元同紙カメラマン、佐藤振壽(しんじゅ)さんも「あれは戦意高揚のための記事で、あり得ない話」だと言い続けていた話です。 百人斬りが嘘であることはもう決着がついたと思っていましたが、いまだに中国の抗日記念館で展示されたり、日の学校で先生がプリントを配って教えたりという状況がある。

    【歴史戦】稲田朋美・自民党政調会長 「慰安婦の次はぜひ『百人斬り報道』の訂正を」「首相70年談話は何も心配ない」(1/5ページ) - 産経ニュース
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    iR3 2015/03/23
    毎日は反省できるのかな? “百人斬りは東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海一男記者の創作記事”
  • 【経済インサイド】「造船大国・日本」復活恐れる韓国 台湾から世界最大級コンテナ船受注に焦燥「韓国造船業の牙城崩れる」  (1/4ページ)

    の造船業が復活に向けて動き始めた。1月末、国内造船大手の今治造船が16年ぶりに超大型ドックの新設を発表。さらに1月の船舶受注量で日韓国中国を抜き1位に返り咲いた。日が月間ベースの受注量で1位になったのは2008年3月以来6年10カ月ぶりのことだ。「アベノミクス」による円安や造船各社の構造改革によって、受注・コスト競争力が高まり、ここにきて息を吹き返しつつある格好だ。これに警戒しているのが、日に代わり造船大国になった韓国勢。韓国経済新聞によると、韓国の業界関係者は「円安技術力、安倍晋三政権の支援を背に、日企業が中国よりも速いスピードで韓国を追撃している」と述べ、高い技術を誇る日勢の復活に戦々恐々としている。 16年ぶりの超大型ドック新設 今年1月29日、国内外の造船関係者は驚きの声を上げた。 今治造船が台湾の海運会社から世界最大級となる約2万個積みの超大型コンテナ船11隻

    【経済インサイド】「造船大国・日本」復活恐れる韓国 台湾から世界最大級コンテナ船受注に焦燥「韓国造船業の牙城崩れる」  (1/4ページ)
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    iR3 2015/03/23
    いろいろ復活なのね “1月の船舶受注量で日本が韓国と中国を抜き1位に返り咲いた。”
  • 古代中国三国時代でも767万人「倭国は人口にして100万人規模の東アジアの大国だった」新羅は4代目王も総理大臣も日本人だった。 : まとめ安倍速報

    blogは、ChromeとFirefoxプラウザで最適になる作りです。IEだと崩れや色変化します。IE以外で見て下さいね。 濊(わい)灰色部分、が見える 国際派日人養成講座のメルマガで、「倭国は東アジアの大国だった」という記事が配信されました。 このことは、当ブログでも何度か書かせていただいたことですが、たいへんよくまとまっていますので、転載したいと思います。 ========== 倭国は東アジアの大国だった http://blog.jog-net.jp/201102/article_1.html No.685 倭国は東アジアの大国だった << 作成日時 : 2011/02/06 04:23 >> 中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。 ■1.古代中国の見た朝鮮半島 古代史の研究にはかならず出てくる「魏志倭人伝」は、西暦280年から290年頃に

    古代中国三国時代でも767万人「倭国は人口にして100万人規模の東アジアの大国だった」新羅は4代目王も総理大臣も日本人だった。 : まとめ安倍速報
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    iR3 2015/03/23
    ふむふむ “歴史学がイデオロギー的制約から解放され、真の学問的研究成果によって国民が先人たちの歩みに想いを馳せる、そんな「建国記念の日」が待ち遠しい。”
  • DNAから導き出せる日本人の起源4・世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡(中国新石器時代)からわずか600年で渡来した日本の縄文稲作 : まとめ安倍速報

    DNAから導き出せる日人の起源 海面は今より低く南・東シナ海は陸地つづき・大陸棚は移動できた4 世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡(中国新石器時代) からわずか600年で渡来した日の縄文稲作 岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、 イネのプラントオパールが大量に見つかった。 写真から判別すると、イチョウの葉状の形からジャポニカ米の系統と見られる。

    DNAから導き出せる日本人の起源4・世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡(中国新石器時代)からわずか600年で渡来した日本の縄文稲作 : まとめ安倍速報
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    iR3 2015/03/23
    ふむふむ “一般に稲作が始まったとされる弥生時代は、いまから約3000年前から2000年前頃までの時代とされていますが、実はそれより5千年も古くから、日本では稲作が行われていた”
  • 河姆渡文化 - Wikipedia

    河姆渡文化の範囲 河姆渡文化時期の黒陶 河姆渡遺跡の発掘現場 河姆渡文化(かぼとぶんか[1]、拼音: Hémŭdù wénhuà、Hemudu Culture)は、中国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚県の河姆渡鎮(中国語版)の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。 河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サル

    河姆渡文化 - Wikipedia
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    iR3 2015/03/23
    ふむふむ “中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。”
  • 第2回 豊かな縄文時代

    第2回 豊かな縄文時代 ○そりゃ糧不足の時もあっただろうけど ▲縄文人のイメージ(国立科学博物館) 歴史と言うのは、必ずしも進歩すると言うわけではありません。 また、何を理由に進歩と定義するのか・・・というのは非常に難しい。その例を示してくれるのが、日の縄文時代かもしれません。縄文時代は安定した料の供給が出来ずに、生活も貧しかったと教えられた人も多いでしょうが、とんでもない間違いです。歯のエナメル質減形成を調査したレポートの中には、江戸時代の人骨ほうが、縄文時代の人骨よりも歯のエナメル質が減っていた・・・なんてものもあります。 ちなみに縄文時代と言いますけど、もちろんある日突然縄文時代が始まったわけでもなければ、ある日突然終了したわけではありません。乱暴な言い方ですが、あくまで縄文土器を使っていた時代を基準とした大まかな区分であることを承知して下さい。また、この縄文時代は土器の形の

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    iR3 2015/03/23
    “長崎県の福井洞穴遺跡から出土したものが、鑑定の結果1万2700年前の物らしい。..同時代のものは日本各地や中国の黒竜江省などから発見されていることから、土器というものは東アジアで始まったのではないか?
  • 扶余豊璋 - Wikipedia

    扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日書紀』での表記は余豊璋、余豊もしくは名のみの豊璋、豊章であるが、『三国史記』では扶余豊もしくは名のみの豊、『旧唐書』では扶余豊もしくは余豊である。また、『日書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある[1][2]。 倭国滞在中、百済国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国したが、復興は果たせなかった。 生涯[編集] 豊璋の渡来時期は、『日書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、『三国史記』百済紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃ではないだろうかとする説もある。また、皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使とし

    iR3
    iR3 2015/03/23
    現代なら、中共と北朝鮮が韓国を滅ぼしたということか “660年、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼした”