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俳句に関するinmymemoryのブックマーク (7)

  • 村上鬼城 - Wikipedia

    村上 鬼城(むらかみ きじょう、1865年6月10日(慶応元年5月17日) - 1938年(昭和13年)9月17日)は日の俳人、司法代書人。名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。 明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。 略歴[編集] 鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸小石川に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。 明治17年(1884年)に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となった。父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる。以後、鬼城は亡く

  • 高浜虚子 - Wikipedia

    虚子の句碑(山名湖村・文学の森) 『撰集を 選みしよりの 山の秋』 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日の俳人・小説家。名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。旧姓は池内。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 経歴[編集] 愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。 1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介

    高浜虚子 - Wikipedia
  • 水原秋桜子 - Wikipedia

    水原 秋桜子(旧字表記:水厡 龝櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日の俳人・医師。学位は医学博士。 名は水原豊(みずはら ゆたか)。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図った。これに呼応して新興俳句運動が起き、無季俳句容認の道

    水原秋桜子 - Wikipedia
  • 加藤楸邨 - Wikipedia

    加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日の俳人。名は健雄(たけお)。位階は従四位。 水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 生涯[編集] 現在の東京都大田区北千束に生まれる。父・健吉、母・千佳の長男。当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された[1]。翌年、鉄道国有法の成立に伴って甲武鉄道が国有化され、健吉も鉄道官吏となる。以後は父の転勤に伴い、楸邨は少年

  • 永田耕衣 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年11月) 永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日[1] - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。名は軍二(ぐんじ)[1]。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。 生涯[編集] 形成期[編集] 兵庫県加古郡尾上村今福(現・加古川市尾上町今福)に生まれる。父は農業兼村役場吏員。父は岩崎姓だが、6歳のとき母の妹永田てい子の養子となり、父母と同居したまま名義のみ母系永田姓を継いだ。尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科、同高等科を経て、1917年、兵庫県立工業学校(現・兵

  • 齋藤愼爾 - Wikipedia

    齋藤 愼爾(さいとう しんじ、1939年8月25日 - 2023年3月28日[1])は、日の俳人、編集者、文芸評論家。 来歴[編集] 朝鮮京城府(現・韓国ソウル市)生まれ。1946年、山形県の飛島に移住。 高校時代より句作を開始。1955年、秋沢猛、秋元不死男に師事し、秋元不死男主宰の「氷海」に投句。1959年氷海賞受賞。「孤島の寺山修司」と称されたが、翌年より20年以上の間句作を中断した。 山形大学文理学部国文科を中退後、1963年に深夜叢書社を設立。1973年、堀井春一郎らと『季刊俳句』創刊。1983年、寺山修司らと「雷帝」創刊のために句作を再開。さらに50歳の頃から文筆活動に入る。2010年、『ひばり伝 蒼穹流謫』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2013年、『周五郎伝 虚空巡礼』でやまなし文学賞受賞。法政大学文学部講師。芝不器男俳句新人賞選考委員。 2004年に車谷長吉の私小説「刑務

  • 富澤赤黄男 - Wikipedia

    富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 生涯[編集] 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日通運)東京社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。 同年、同郷の菊池清と結婚大阪市東成区生野町(現大阪市生野区)に新居を構える。1930年、父が眼疾により医師を廃業して材木会社の経営に携わることになったため帰郷し父を助け

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