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  • 中村真一郎 - Wikipedia

    『死の影の下に』5部作(1947年 - 1952年) 『雲のゆき来』(1966年) 『頼山陽とその時代』(1971年) 『四季』4部作(1975年 - 1984年) 『蠣崎波響の生涯』(1989年) 中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日[1] - 1997年(平成9年)12月25日)は、日小説家・文芸評論家・詩人。旧字体の「眞一郎」名義での出版もある[注釈 1]。 加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。 生涯[編集] 東京府東京市日橋区箱崎町(現:東京都中央区)にて生まれる[2][1]。幼くして母を失い、幼少期は静岡県森町の母方の祖父母の元で育った。東京開成中学校に入学し、終生の文学的盟友

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    inmymemory 2024/01/19
    ネルヴァル等の翻訳
  • ジャック・ルーボー - Wikipedia

    ジャック・ルーボー ジャック・ルーボー(Jacques Roubaud, 1932年12月5日 - )は、フランスの詩人、エッセイスト、小説家、数学者である。 来歴[編集] 1932年、フランス、ローヌ県に生まれる。デビュー当時から詩の言語と構成の探求に取り組み、遊戯的であると同時に創意と工夫を凝らした詩を提唱してきた。最初の書物『 ∈ 』(1967年)は、囲碁のモデルに基づいて組み立てられていて、レーモン・クノーと黎明期のウリポ(潜在的文学工房)の運動に歓迎された。そして、それに続く数々の詩集で彼の企ては追求される。例えば、短歌と俳句の試みである。『もののあはれ』(1970年)、『31の3乗』(1973年)、『自伝第十章』(1977年)に続き、の死から着想を得た詩集『なにか くろい もの』(1986年)ではすべてが9という数に支配されるという形式上の制約が虚無体験と密接に符合して展開さ

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  • シャルル・ジュリエ - Wikipedia

    シャルル・ジュリエ(Charles Juliet, 1934年9月30日 - )は、フランスの詩人、小説家。 来歴[編集] 1934年、アン県(ローヌ=アルプ地域圏)のジュジュリウで生まれる。これまでの彼の作品はどれも自伝的なものであり、その長く、辛い内面の冒険を綴った作品には自分を明晰にしようとする努力の一方で他者への傾聴や世界に向けての柔軟な態度も覗かせている。その多数の作品の中でも代表的な著作は『日記』(4巻)、詩集『捜索』、『自分を探る目』、『待ち伏せ場所』、『この静寂の国』、『低音』、物語『めざめの時』、『不慮の出来事』、『ぼろ切れ』など。 2013年ゴンクール詩人賞、2017年アカデミー・フランセーズ文学大賞受賞。 著作及び出典[編集] 日語の訳書[編集] 『ベケットとヴァン・ヴェルデ』吉田加南子訳、鈴木理江子訳(みすず書房、1996)ISBN 978-4622042532

  • クロード・ロワ - Wikipedia

    『要するに』 『旅人の驚き』 『毛沢東 ― 新中国の鍵』 『シュペルヴィエル』 『評伝 バルテュス』 『時の縁りで』 『暁の暗闇』 『忍び跫の詩篇』 クロード・ロワ[1](Claude Roy、1915年8月28日 - 1997年12月13日)はフランスの作家であり、詩、小説、文学・美術評論、児童文学、演劇、紀行、ルポルタージュなど幅広い分野で活躍した。学生時代に右派の思想に傾倒したが、アラゴン、ジッド、エリュアールらとの出会いを機に共産党に入党。共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線(フランス語版)の一派として南仏の自由地域(フランス語版)で結成された全国作家委員会(フランス語版) (CNE) に参加して地下出版物を編纂・配布し、詩を発表し始めた。1944年8月のパリ解放に参加してルポルタージュを発表し、大きな反響を呼んだ。主な著書にシュペルヴィエル、アラゴン、スタンダールなどの文学

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  • ラーマーヤナ - Wikipedia

    ラーマ王子とハヌマーン ラーマとシーター(ミャンマーの演劇) ダンダカの森のラーマと弟ラクシュマナとシーター(ジャワ舞踊) ラーマがシーターを勝ち取るため弓を折るシーン 『ラーマーヤナ』(サンスクリット語: रामायणम्, ラテン文字転写: Rāmāyaṇam, 英語: Ramayana)は、古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド2大叙事詩の一つである。サンスクリットで書かれ、全7巻、総行数は聖書にも並ぶ48,000行に及ぶ。成立は紀元3世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる。 この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐されたシーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」。 現代でも、ラーマーヤナは、

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  • マハーバーラタ - Wikipedia

    『マハーバーラタ』(サンスクリット: महाभारतम् Mahābhāratam) バラタ族にまつわる大叙事詩。バラタ族とは物語の中心となるクル族の別称である。『ラーマーヤナ』とともにインドの二大叙事詩と称され、ギリシャの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』としばしば比較される。第6巻にヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』を含む。インドの古典語であるサンスクリットで著され、その94%がシュローカ(8音節×4韻脚)と呼ばれる韻律によって構成されている[1]。 Fitzgeraldによれば、ナンダ朝とマウリヤ朝の勃興(紀元前4世紀頃)、とくにアショーカ王(在位は紀元前3世紀頃)によるダルマの宣布により『マハーバーラタ』のテキスト化が開始され、紀元前2世紀中葉〜紀元後1世紀末頃に完成されたとみられる。このテキストは紀元後4世紀(グプタ朝期)にさらに拡張され、後代に伝えられるサ

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  • ギルガメシュ叙事詩 - Wikipedia

    楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板 『ギルガメシュ叙事詩』(ギルガメシュじょじし)は、古代メソポタミアの文学作品。実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語。人間の知られている歴史の中で、最も古い作品[1]。 ギルガメシュを主人公とする物語は古くから存在するが、現在『ギルガメシュ叙事詩』として知られているのは前1300〜1200年頃にまとめられた「標準版」(「標準バビロニア語」で記されているため)と呼ばれるもので、新アッシリア時代のアッシュルバニパルの図書館から出土した。12枚の書版から成る。『ギルガメシュ叙事詩』というタイトルは近代学者により付けられたもので、古来は作品の出だしの言葉を取って題名とする習わしがあったことから、原題は『深淵を覗き見た人』[2]もしくは『すべてを見たるひと』[1]となる。 概要[編集] 『ギルガメシュ叙事詩』は古

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  • 雪舟えま - Wikipedia

    雪舟 えま(ゆきふね えま、1974年10月7日 - )は、日小説家、歌人。北海道札幌市生まれ。 経歴[編集] 藤女子大学文学部国文学科卒。大学在学中に小林恭二『短歌パラダイス』を読んで作歌を始め、北海道新聞の松川洋子選歌欄に投稿する[1]。 1997年10月号から2013年9月号まで歌誌「かばん」に所属[2]。 2001年刊行の穂村弘の歌集 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の「まみ」のモデルとなる[1]。 2011年歌集『たんぽるぽる』刊行。同年よりバンド、スリリングサーティー(声:雪舟えま ギター:フジワラサトシ キーボード:ホソマリ)で活動。 2012年小説『タラチネ・ドリーム・マイン』刊行。 作品[編集] 歌集[編集] 『たんぽるぽる』(2011年・短歌研究社)(2022年・短歌研究文庫) 『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』(2018年・書肆侃侃房) 『緑と楯

  • 二条良基 - Wikipedia

    二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、南北朝時代の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。二条家5代当主。最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度[注釈 1])にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。 生涯[編集] 関白就任まで[編集] 嘉暦2年(1327年)、8歳で元服して正五位下侍従となり、わずか2年で従三位権中納言に昇進する。ところが13歳の時、元弘の乱が発生して後醍醐天皇は隠岐島に配流され、内覧であった父・道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼左近衛中将の地位を追われた。このため、二条家は鎌倉幕府より断絶を命じられる[1]状況に追い込まれたが、翌年に鎌倉幕府が滅亡、京都に復帰して

    二条良基 - Wikipedia
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    inmymemory 2023/05/11
    連歌・歌論は、夢窓疎石の禅庭・枯山水、世阿弥の猿楽と共に、日本における美の基準(わび・さび・幽玄)を形成
  • 河野裕子 - Wikipedia

    角川短歌賞(1969) 現代歌人協会賞(1976) 現代短歌女流賞(1980) コスモス賞(1987) 短歌研究賞(1997) 河野愛子賞(1998) 京都府文化賞・功労賞(2001) 若山牧水賞(2002) 紫式部文学賞(2002) 斎藤茂吉短歌文学賞(2009) 迢空賞(2009) 小野市詩歌文学賞(2010) 日一行詩大賞(2012) 河野 裕子(かわの ゆうこ、1946年7月24日 - 2010年8月12日[1])は、日の歌人。「塔」選者。夫は歌人の永田和宏。長男永田淳、長女永田紅も歌人。 宮柊二に師事。瑞々しい言葉で心情をのびやかに表現した。晩年は乳がんに苦しみ、生と死に対峙する歌を詠んだ。歌集に『ひるがほ』(1976年)、『桜森』(1981年)、『母系』(2008年)などがある。 人物[編集] 熊県上益城郡御船町に生まれ、滋賀県石部町(現湖南市)に育つ。京都女子高等学校を

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    inmymemory 2022/10/30
    夫永田和宏が、死後、押し入れから日記を発見。二人の男性の間で揺れ動く切ない恋心が短歌と共に瑞々しい筆致で綴られていた。夫は日記を頼りに青春の日々を追想する旅に出る
  • 鈴木漠 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "鈴木漠" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年2月) 徳島県徳島市に生まれ、戦時疎開により剣山の麓、かずら橋と落人伝説で知られる祖谷郷に幼少年時を過ごす。1957年(昭和32年)に神戸市に移り海運会社に奉職した。1959年(昭和34年)に岡田兆功、平岡史郎、藤村壮と共に詩誌「海」を創刊。 1980年(昭和55年)に詩集『投影風雅』で第14回日詩人クラブ賞を受賞し、1989年(平成元年)に連句集『海市帖』で第2回連句協会推薦図書表彰、1994年(平成6年)に第18回井植文化賞受賞、2002年(平成14年)に第28回徳島県

  • ジョン・ベリーマン (詩人) - Wikipedia

    ジョン・ベリーマン(John Berryman、1914年10月25日 - 1972年1月7日)はアメリカ合衆国の詩人。 経歴[編集] オクラホマ州マッカリスターに生まれる。父親をピストル自殺で亡くす。コロンビア大学を経て、1936年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学。デトロイトのウェイン州立大学で教えた後に、ハーバード大学とプリンストン大学でポストを得る。1955年から1972年の死去までミネソタ大学の教授を務めた[1]。 1965年に「77 Dream Songs」でピューリッツァー賞 詩部門を、1969年に「His Toy, His Dream, His Rest」で全米図書賞を受賞。ロバート・ローウェルやW・D・スノッドグラス、シルヴィア・プラス、アン・セクストンなどとともに「告白派」と称された[2]。アルコール中毒を患い[3]、父親をなぞるようにミネアポリスで飛び降り自殺により

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    inmymemory 2022/07/09
    ヌーラ・ニー・ゴーノル『狐』
  • ゴットフリート・ベン - Wikipedia

    ゴットフリート・ベンのスケッチ ゴットフリート・ベン(Gottfried Benn, 1886年5月2日 - 1956年7月7日)は、ドイツ・表現主義文学の代表的な詩人。 ブランデンブルク州ヴェストプリーグニッツ郡(ドイツ語版)マンスフェルト(現プートリッツ(ドイツ語版)の一部)の牧師の息子として生まれる。母はフランス系スイス人。当初は父の意向に随って、神学・文献学をマールブルク大学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)で学んだが、その後志望を変更し、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム大学軍医養成大学で医学、生物学を学んだ。 1912年に卒業して軍医となり、同年に最初の詩集『モルグ』を発表。医学・生物的知識を活用したグロテスクな表現でセンセーションを起こした。第一次大戦中、1915年から17年まで軍医としてブリュッセルに滞在、ここで格的に詩作を開始し、小説集『医師レンネ』(19

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    inmymemory 2022/07/09
    ヌーラ・ニー・ゴーノル『狐』
  • 村上鬼城 - Wikipedia

    村上 鬼城(むらかみ きじょう、1865年6月10日(慶応元年5月17日) - 1938年(昭和13年)9月17日)は日の俳人、司法代書人。名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。 明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。 略歴[編集] 鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸小石川に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。 明治17年(1884年)に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となった。父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる。以後、鬼城は亡く

  • 高浜虚子 - Wikipedia

    虚子の句碑(山名湖村・文学の森) 『撰集を 選みしよりの 山の秋』 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日の俳人・小説家。名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。旧姓は池内。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 経歴[編集] 愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。 1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介

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  • 水原秋桜子 - Wikipedia

    水原 秋桜子(旧字表記:水厡 龝櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日の俳人・医師。学位は医学博士。 名は水原豊(みずはら ゆたか)。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図った。これに呼応して新興俳句運動が起き、無季俳句容認の道

    水原秋桜子 - Wikipedia
  • 加藤楸邨 - Wikipedia

    加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日の俳人。名は健雄(たけお)。位階は従四位。 水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 生涯[編集] 現在の東京都大田区北千束に生まれる。父・健吉、母・千佳の長男。当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された[1]。翌年、鉄道国有法の成立に伴って甲武鉄道が国有化され、健吉も鉄道官吏となる。以後は父の転勤に伴い、楸邨は少年

  • 岡井隆 - Wikipedia

    愛知県芸術文化選奨文化賞(1980年) 迢空賞(1983年) 斎藤茂吉短歌文学賞(1990年) 現代短歌大賞(1995年) 紫綬褒章(1996年) 詩歌文学館賞(1999年) 毎日芸術賞(2000年) 旭日小綬章(2004年) 読売文学賞詩歌俳句賞(2005年) 藤村記念歴程賞(2007年) 小野市詩歌文学賞(2009年) 高見順賞(2010年) 短歌新聞社賞(2011年) 文化功労者(2016年) 旭日中綬章(2020年) 岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - 2020年(令和2年)7月10日[1])は、日の歌人・詩人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日藝術院会員。塚邦雄、寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人。2016年文化功労者選出。従四位叙位、旭日中綬章追贈。 17歳から歌作を始め、「アララギ」に参加。慶大医学部卒業後、内科医のかたわら、歌人として活躍する

    岡井隆 - Wikipedia
  • 永田耕衣 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年11月) 永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日[1] - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。名は軍二(ぐんじ)[1]。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。 生涯[編集] 形成期[編集] 兵庫県加古郡尾上村今福(現・加古川市尾上町今福)に生まれる。父は農業兼村役場吏員。父は岩崎姓だが、6歳のとき母の妹永田てい子の養子となり、父母と同居したまま名義のみ母系永田姓を継いだ。尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科、同高等科を経て、1917年、兵庫県立工業学校(現・兵

  • 葛原妙子 - Wikipedia

    葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、日の歌人。潮音社友、日歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。 こういう人物[編集] 東京市出身。東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)卒業。父は外科医の山村正雄、母は俳人のつね。夫の葛原輝は外科医。長女は児童文学者の猪熊葉子。 超現実主義短歌を推進し、戦後の歌壇に大きな影響を与えた代表的歌人の一人である。日常のうちに「見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし」(菱川善夫)、その景色を自ら「表現の我儘についてゆるし得る限界」とする破調の歌に詠むその歌風から、「現代の魔女」「球体の幻視者」(中井英夫)、「幻視の女王」(塚邦雄)と称される。 略歴[編集] 1907年(明治40年) - 東京市郷区(現文京区