ブックマーク / sunakago.hateblo.jp (13)

  • 梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について - 鳥籠ノ砂

    ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は「語りうるものについては明晰に語りうるし、語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べている。これは思考可能なものと思考不可能なもの、というより表現可能な思考と表現不可能な思考の間に境界線を引いた上で、前者については明晰に語ると同時に後者については沈黙する営みである。そこで確認すべきは、言語を世界の像として捉えるウィトゲンシュタインの思考である。 ウィトゲンシュタインにとっての世界とは事実の総体であり、事実とは成立している事態のことである。これは、事態には成立しているものもあれば成立していないものもあるということだ。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。このうち成立している事態、すなわち事実の総体が世界と

    梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2014/04/08
    恩師に対する礼儀とは恩師をぶすりと刺すこと、と言われたことを思い出した
  • ヘーゲル的ノマドロジー、カント的ノマドロジー ――柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について - 鳥籠ノ砂

    柄谷行人『遊動論 ――柳田国男と山人』(2014)は、私たちの遊動性(=ノマドロジー)を大きく二種類に区別している。ひとつ目は定住革命以後の遊牧民のそれであり、ふたつ目は定住革命以前の遊動的狩猟採集民のそれである。柄谷行人によれば、前者は80年代の日型ポストモダニストが唱えていた遊動性、後者は戦前の柳田国男が唱えていた遊動性になるだろう。書において重要なのは、遊牧民のノマドロジーが交換様式AとBとCに回収されてしまうのに対して、遊動的狩猟採集民のノマドロジーが交換様式Dに当てはまるということである。 初めに、柄谷行人の交換様式論を確認しておこう。交換様式A「互酬」はミニ世界システムの段階において支配的な交換様式であり、近代世界システムにおけるネーションとして友愛の理念を志向するものである。交換様式B「略取=再分配」は世界=帝国の段階において支配的な交換様式であり、近代世界システムにおけ

    ヘーゲル的ノマドロジー、カント的ノマドロジー ――柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』について - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2014/03/20
    スナヲさんのエントリでこの本の発売を知って僕もいま読んでます
  • これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂

    東浩紀『セカイからもっと近くに』(2013)は「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」として書かれた。このことは翻って、エッセイ集などを除く東浩紀の著作には「文芸評論」が存在しなかったこと、すなわち文学的作品それ自体を対象にした批評がなかったことを意味するだろう。あの『動物化するポストモダン』にせよ『ゲーム的リアリズム』にせよ、その論で扱われているのは作品の位相を下支えする環境の位相であって、作品そのものではない。かつて出版された「東浩紀コレクションLSD」の副題が明確に示しているとおり、彼の評論は「文学環境」と「情報環境」についてのものだったというわけだ。 東浩紀は『セカイからもっと近くに』のなかで「セカイ系」の問題を取り上げ、現実と虚構の再縫合を試みようとしている。セカイ系の問題とは、政治的な想像力と文学的な想像力が乖離してしまったこと、要するに共同的な幻想と個人的な幻想が切

    これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2014/02/19
    生殖ってのがメタファーなんだけどそうじゃない部分が含まれてるのがややこしいのかな
  • 超現実性のゼロ年代、超虚構性のテン年代 ――藤田直哉『虚構内存在』について - 鳥籠ノ砂

    藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(2013)は、筒井康隆の必要性を証明しながら二つの理論「超虚構理論」「虚構内存在」を描画し、2010年代における新たなる生の次元を開拓している。教育と進歩がもたらした破壊と、メディアが作る「現実」によって現実認識が相対化される現在、敗戦とともに出発した筒井康隆の問題意識は再び注目に値するというのだ。先に結論を言えば、それは現実と虚構を統合するにあたって想定される二つの態度、すなわち「超現実性」と「超虚構性」の微妙だが決定的な差異である。 まず重要なのは、戦後史のなかで筒井康隆が「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」を峻別したことである。第二次世界大戦を経験した日SF第一世代である彼は、40~50年代における廃墟のなかでの「笑い」を、卒業論文「シュール・リアリズム芸術の創作心理学的立場よりの判断」で追究していた。60年代における

    超現実性のゼロ年代、超虚構性のテン年代 ――藤田直哉『虚構内存在』について - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2014/01/10
    合意を急ぐのではなく、あいだ、に耐えることも大事なんだろな
  • 日本近代文学の起源の起源 ――柄谷行人『柳田国男論』について - 鳥籠ノ砂

    柄谷行人『柳田国男論』(2013)には、1974年と1986年に発表された三の柳田国男論が収録されており、その作家論的位置付けについては初出の「序文」(2013)で詳細に語られている。特に「柳田国男試論」(1974)に関しては、かの『マルクスその可能性の中心』(1978)と並行して執筆されていたこと、あの『日近代文学の起源』(1980)に先駆した問題を扱っていたことが判る。私たちは『日近代文学の起源』において繰り返し言及される柳田国男の重要性、柳田国男と関係していた国木田独歩や田山花袋の重要性に改めて注目できよう。また「柳田国男論」(1986)の問題意識は『世界史の構造』(2010)を経て、来年『遊動論――山人と柳田国男』として文藝春秋より出版される予定だという。 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』と『日近代文学の起源』は、たしかに専門家の視点から言えば細かい部分に瑕疵があるのか

    日本近代文学の起源の起源 ――柄谷行人『柳田国男論』について - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/12/23
    やばいこれめっちゃ好きなやつや/絶対読む
  • 接続と切断、その中間 ――千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読んだ - 鳥籠ノ砂

    千葉雅也は『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)のなかで、ジル・ドゥルーズを「接続的ドゥルーズ」と「切断的ドゥルーズ」に分けている。フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などが受容されるにあたって、前者に対して後者は、すなわち非意味的切断の原理はあまり注目されてこなかったようだ。しかし、私たちが「器官なき身体」を接続中毒の世界から守りたければ(=生成変化を乱したくなければ)、むしろ切断もしなければならない(=動きすぎてはいけない)だろう。書は、このことを主張するためにドゥルーズ哲学の幼年期へと遡る方法を採用し、最終的にセルフエンジョイメント self-enjoyment の謳歌を見出そうとするものである。 ドゥルーズ&ガタリが語った「生成変化」の原理は、荘子が述べたような「物化」や万物斉同の原理とは異なり、区別のある匿名性を

    接続と切断、その中間 ――千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読んだ - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/12/02
    切断を恐れない態度ってこれから逆に必要だと思う
  • 虚実の解体、ゴーストの代償 ――川原礫『ソードアート・オンライン』論 - 鳥籠ノ砂

    「……遠すぎるよ、お兄ちゃんの……みんなのいる所。あたしじゃそこまで、行けないよ」――リーファ 川原礫『ソードアート・オンライン』は2002年からネット上で発表されていたオンラインノベルであり、同時に、2009年から電撃文庫で刊行されているライトノベルである。作を手短に紹介するなら、VRMMORPG、言わば仮想現実の大規模多人数同時参加型オンラインRPGの姿を描いた小説ということになるだろう。まさに同タイトルは作中に登場するオンラインゲームの名称から採用されており、その設定や描写には、実際に『ウルティマオンライン』『ラグナロクオンライン』をプレイした作者の経験が存分に発揮されている。 とはいえ興味深いのは、その「ソードアート・オンライン」が第1巻の時点でクリアされてしまうことである。第2巻で外伝を執筆したのち、川原は「アルヴヘイム・オンライン」「ガンゲイル・オンライン」「アンダーワールド

    虚実の解体、ゴーストの代償 ――川原礫『ソードアート・オンライン』論 - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/10/29
    虚実のバランスが今後は大事になってくる気がする
  • スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』について ――現代フェミニズムの地平 - 鳥籠ノ砂

    ここまで『デリダ論』『文化としての他者』『サバルタンは語ることができるか』を概観しながら、ガヤトリ・C・スピヴァクの思想がどのようなものかを追ってきた。彼女はジャック・デリダから受け取った「抹消の下に置く」身振りを、言説の暴力性や偏向性を暴き立てるギリギリの綱渡りとして、またはサバルタンと呼ばれる弱者に語りかけるコミュニケーションの術として、高度に理論化=実践化していることが分かる。今回はインタビュー集『ポスト植民地主義の思想』(1990)を読むことで、彼女が置かれていた状況にも迫ってみよう。 ここで注意すべきは、当時の批評界を席巻していたポストモダン論あるいはポストモダニズムである。リオタールが述べるように大きな物語が終焉を告げ、フーコーが説くような新歴史主義が受け入れられるなか、批評家はどのような政治的コミットメントを目指せばよいのか……ごく簡単に言えば、そうした課題がアカデミズムには

    スピヴァク『ポスト植民地主義の思想』について ――現代フェミニズムの地平 - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/10/21
    乱暴だけど、脱構築の連続っていうの、すごく東洋的な気がしてる
  • 対話の欠乏、内省の肥大。 ――大澤信亮『新世紀神曲』感想 - 鳥籠ノ砂

    「そういう話がしたいなら評論を書けばいいんじゃないかしら?」――菖蒲みずき 大澤信亮『新世紀神曲』(新潮社、2013)の表題作は、批評としては少し型破りなスタイルを採用している。最近の現代日小説の主要登場人物を使って、ある種の対話篇を書こうとしているのだ。平野啓一郎『決壊』の沢野崇、鹿嶋田真希『ゼロの王国』の吉田カズヤ、阿部和重『ピストルズ』の菖蒲みずき、古川日出男『聖家族』の狗塚カナリア、町田康『宿屋めぐり』の鋤名彦名、舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』のディスコ・ウェンズデイ……以上の人物が謎めいた空間に集められ議論を交わすというアイデアはたしかに魅力的である。こうした文章を書くこと自体、「これは批評なのか?」「そもそも批評とはなにか?」という問いを読者に投げかける効果がある。現在の狭く息苦しい批評観に風穴を空ける試みだけでも、著者の大澤信亮は賞賛されてしかるべきだろう。 しかし「新世

    対話の欠乏、内省の肥大。 ――大澤信亮『新世紀神曲』感想 - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/10/18
    厳しい。笑/ここまでボコボコだと逆に読みたくなる
  • ネット社会に「闇」はあるか? ――平野啓一郎『決壊』について - 鳥籠ノ砂

    「しかし、彼がそこからどうしても逃れられないのは、彼の知る他者が、現実の他者と少しも矛盾しないように感ぜられることだった」 平野啓一郎『決壊』(2008)の主眼は、その紹介文によれば「絶望的な事件を描いて読む者に〈幸福〉と〈哀しみ〉の意味を問う」ことにあるらしい。なるほど、作の主人公である沢野崇は、幸福や悲哀の意味を問うに相応しい造形がなされている。彼は、そうした感情の意味が分かっていない――より正確に言えば、幸福や悲哀をリアルに感じることができない人間として描かれているのだ。「自分の活動が引き起こす現実を、つまりは、こんなものかと感じてしまうなら?」「俺の活動が、ある人間の中に、一種の快楽を引き起こす。そしてその喜びを、俺に向けて表現し、俺を価値ある人間として承認してくれる。いいかい、それは一体、何なんだろう?」 そのように彼が考えてしまうのは、結局のところ、彼が状況に合わせて自分を使

    ネット社会に「闇」はあるか? ――平野啓一郎『決壊』について - 鳥籠ノ砂
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    inujin 2013/09/24
    インターネットにもなんらかの人格ができた時点で人はそれに合わせた振る舞いをする/結局、本当の自分なんてものはプロセスの中にしか存在しないんだと僕は思う
  • 文化と政治の植民地 ――エドワード・サイード『オリエンタリズム』感想(上) - 鳥籠ノ砂

    エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(1978)は、オリエンタリズムの理論とポストコロニアル理論を確立した書物である。簡単に言えば……オリエンタリズムとは、アジアや中東への誤解とロマンティシズムに満ちたイメージの領域であり、ポストコロニアル理論とは、植民地主義や帝国主義の文化ないし歴史を取り扱う文芸批評の理論である。サイードは書において、オリエンタリズムがアメリカおよびヨーロッパの人種主義を正当化してきたことを主張し、オリエント(東洋)とオクシデント(西洋)のイメージ双方を批判している。 オリエンタリズムの領域は、どのようにして開始されたのか。それはまず西洋人が東洋人を知ることによってであり、そして、東洋という地理的イメージを形成し表出することによってである。オリエントは、文化的な営みによって初めてオリエントとして生産される……言わば「オリエント化される」わけだ。それらの言説が、

    文化と政治の植民地 ――エドワード・サイード『オリエンタリズム』感想(上) - 鳥籠ノ砂
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    inujin 2013/09/18
    東洋は「発見される」立ち位置がいまだに続いてる気もする/自分でクールジャパンなんて言っちゃう国もあるし/しかし差別にせよ他者から意味づけされて初めて存在が認識されるのも事実
  • 美しい飛翔の夢想、醜い戦争の現実 ――宮崎駿『風立ちぬ』について - 鳥籠ノ砂

    宮崎駿『風立ちぬ』が描く「飛行機」の表象は、美しい夢想と醜い現実の二律背反に置かれている。たとえば、カプローニとカストルプの対比を見てみよう。カプローニは世界的に著名な飛行機製作者のイタリア人であり、しばしば堀越二郎の夢のなかに現れる。そこで彼が語るのは、飛行機がもたらす美しい飛翔の夢想である。他方のカストルプは軽井沢に滞在するドイツ人であり、たまたま同宿の堀越二郎と里見菜穂子が交際するにあたって立会人となった。軽井沢で彼が語るのは、その飛行機がもたらすだろう醜い戦争の現実である。作における飛行機というモチーフは、カプローニ的夢想(美しい飛翔)とカストルプ的現実(醜い戦争)に引き裂かれているのだ。 この分裂を引き受けるのが、作の主人公・堀越二郎である。子供の頃から飛行機に憧れていた彼は、大学で航空工学を学びドイツへ留学したのち、航空技術者として数々の戦闘機を設計することとなる。説明的な

    美しい飛翔の夢想、醜い戦争の現実 ――宮崎駿『風立ちぬ』について - 鳥籠ノ砂
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    inujin 2013/09/07
    観る人に作者自身の矛盾を提示する・・・これ読んで、なんか、彼は自分のファンタジーの世界に本当に引導を渡したんだなって思った
  • 抵抗としての生、救済としての死 ――TVアニメ『Angel Beats!』論 - 鳥籠ノ砂

    TVアニメ『Angel Beats!』(以下『AB』)は、2010年に放送されたオリジナル作品である。小説漫画、4コマ漫画などの関連作品がつくられ、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の審査委員会推薦作品に選ばれている。その主題は、原作・脚を務めた麻枝准によれば人生賛歌、ときに理不尽でも尊いものとして人生を肯定することにあるらしい。では、作は人生をどのように捉えた上で肯定しているのか。先に結論を言っておけば、それは「生きること」と「死ぬこと」、あるいは「抵抗すること」と「救済されること」の葛藤ないし相克である。 まず物語を押さえておこう。主人公の音無弓弦が死後の世界「天上学園」で仲村ゆりと出会い、彼女の組織「死んだ世界戦線」と「天使」こと立華かなでとの戦いに巻き込まれる。死後の世界「天上学園」とは、青春に未練を残して逝った者たちをエキストラたちとの学生生活に溶け込ませ、その魂を消滅

    抵抗としての生、救済としての死 ――TVアニメ『Angel Beats!』論 - 鳥籠ノ砂
    inujin
    inujin 2013/08/31
    生きることは、みじめでかっこ悪いこと。そして、それ自体を愛してあげること。
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