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図書館史と古典籍に関するivory_reneのブックマーク (3)

  • 学びて時にこれを習う(5) 藩校文庫とその行方 - みちくさのみち(旧)

    前回まで (1)、(2)、(3)、(4) 文庫とは何かを考える 江戸時代の学問観と文庫の関係を辿ってきて、ようやく文庫設立の動機のようなところまで書くことが出来た。しかし国学者が作った文庫以外にも、江戸時代には多数の文庫が存在した。幕府の昌平坂学問所の文庫はもとより、各藩の藩校にも文庫があったはずである。そこでどのようなものがあったのか、小野則秋の『日文庫史研究』をもとに、ごくごく簡単な一覧表を作ってみた。小野のは、九州のものが多かったり、神社が多かったりして、全国的な動向を網羅しているわけではないようだが、一応の目安になるだろう。 藩校については、近年、基資料となってきた『日教育史資料』の批判的な検証が進められつつあり、また読書論・読者論の観点から庶民の読書傾向を探る試みも出て来ているという。 近世藩制・藩校大事典 作者: 大石学出版社/メーカー: 吉川弘文館発売日: 2006/

    学びて時にこれを習う(5) 藩校文庫とその行方 - みちくさのみち(旧)
  • 京都府立総合資料館|デジタル展覧会「先人達の京都研究」

    京都研究に尽力した人々について、それぞれの功績を著作等とともに紹介します。今では人名事典にも記載がないような忘れられた人物にも光を当てます。 1.平安遷都千百年紀念祭に関わった人々 明治28(1895)年は、平安京に都が遷されてから1100年目にあたり、これを記念して平安遷都千百年紀念祭が10月22日から24日にかけて行われました。 考証家としての博識を乞われてこの祭典に関わった人々の中から、田中教忠(勘兵衛)、碓井小三郎を取り上げます。また同じく考証家としてこの時代に活躍した高橋正意も併せて紹介します。 田中教忠(天保9(1838)年~昭和9(1934)年) 田中教忠(名、勘兵衛)は、呉服太物商の家に生まれました。明治維新後に家業を廃して以後は、名の勘兵衛よりも号の教忠を好んで使用しました。 商家に生まれながらも読書を好み、19歳の時に国学者の谷森善臣に入門し、国学、和歌、歴史等の教

  • 田中教忠 - Wikipedia

    田中 教忠(たなか のりただ、天保9年(1838年)-昭和9年(1934年))は、幕末から昭和にかけての商人・考証家。諱は勘兵衛、号は教忠。人はもっぱら号を用いた。 経歴[編集] 京都の呉服屋に生まれたが、子供の頃より学問を好み、国学者の谷森善臣に学ぶ。若い頃から家業よりも古文書・古典籍の蒐集と文献考察を好み、明治維新を機に家業の呉服屋を廃して学問に専念する。特に京都の歴史に関して精通しており、平安遷都千百年紀念祭にあたって『平安通志』編纂に参加した。 更に平安京遷都を行った桓武天皇を祀る神社の構想を唱え、後の平安神宮創建につながった。明治30年(1897年)、京都帝室博物館の開設時に学芸委員として招聘される。 没後、教忠の蒐集した古文書・古典籍は遺族によって保管されていたが、孫穣が国立歴史民俗博物館に寄贈し、田中教忠氏旧蔵典籍古文書あるいは田中穣氏旧蔵典籍古文書として公開されている(一

    ivory_rene
    ivory_rene 2012/04/28
    鹿島則泰との親交 via:日本における書籍蒐蔵の歴史/川瀬一馬 p189
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