アスファルトに横たわる、ホンドギツネの死がい。 ついさっきまで、いのちの宿っていた体は、まだやわらかかった 頭から車にぶつかったようで、口から血を流していた 10月30日、アスファルトの上から、土の上にうつしたキツネの死がい 3日後、さっそくハエたちが飛んできた、卵をうみつけているのだ 2週間後、キツネの体が少しふくらんできた 2週間と3日がたった、雨の日。 ウジが毛皮をくいやぶって、キツネの死がいからあふれだした キツネの体は、バラバラになり、骨がみえるようになった 半年後、雪どけのころにもういちどようすを見にいった。 キツネの体は、土にかえろうとしていた 動物写真家の宮崎学の本「死を食べる」より、仏教画の九相図を思わせる車に轢かれて死亡したキツネの定点写真。 「死を食べる」は偕成社の「Animals' Eys」シリーズの一冊で、「動物の目で環境を見る」とテーマに子供向けに写真を多用した
竹熊健太郎のインタビュー集「篦棒な人々」という本の中で、石原豪人がその半生を語っていて興味深いのだけれど、石原豪人が子供時分に体験したというエピソードが何だか凄い。竹熊:幼い頃の思い出はありますか。 石原:幼稚園時代の話なんですが、母に連れられて、「乃木大将と納豆売り」という芝居を観たんです。 竹熊:「乃木大将と納豆売り」? 石原:知らない? ものすごく流行った芝居なんですよ。日露戦争の後日談を浪曲芝居にしたもので、日本中がこれを唸ったものです。乃木さんは自分が殺した部下の霊を慰めるため金沢に旅をする。そこで雪降る晩に犀川の橋のたもとで納豆売りの少年に出会うんです。「こんな晩に納豆を売り歩いてどうしたんだ」と乃木さんが尋ねる。実はそれが戦死した部下の息子だったわけですね。乃木さんはインパネスを着て、帽子をかぶった金持ちの紳士という風体です。少年は絣の着物を着て膝小僧まる出しで、草履履き。女
昭和の初め、東京深川に「二笑亭」なる奇怪な建物が存在した。渡辺金蔵(式場隆三郎の「二笑亭綺譚」ではプライバシーに配慮して赤木城吉なる変名が用いられている)なる資産家の手によるこの建物は十数年にわたり改築・増築が繰り返されてきたが、やがて度の過ぎた奇行により家族の手により精神病院に入院させられてしまい、二笑亭の建築はその時点で中絶することになった。主を失った二笑亭は昭和13年に解体されることになり現存しないが、精神科医で評論家の式場隆三郎が興味を持ち、解体以前に二笑亭に赴き詳細なレポートを一冊の本に纏めて出版した。それが「二笑亭綺譚」であり、二笑亭の全貌を現在に伝える唯一の書となっている。(1988年に刊行された求龍堂版では子息の式場隆成、藤森照信らによる追跡調査の結果が付加されている。)ある新聞は、「狂人の建てた化物屋敷」と報じた。近所では、「牢屋」とよんでいる。多くに人々は、富裕の狂人の
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