腹が立っているので簡潔に、ツイッターに書いたことほぼそのまま書きます。 同意のない性行為、女だから仕方ない?同意のない性行為をしてはいけないということを知らない人が多すぎる。 同意というのは「するしかないからする」ではない。そんなの同意じゃない。それは「心理的強制」だ。 抵抗すると怒られるから大人しく従って性行為をした。もちろんそれも同意じゃない。 「同意」というのは、「私、あなたとセックスしたいです。」というものだ。もしくは「あなたとセックスがしたい」と誘われた時に、おっけーしても断ってもどちらも不利になることがないような状態で、ちゃんと選択肢がある状態で「はい」と答えた場合だ。断ったら生きていけないとか断ったら殴られるとか怒られるとか、断ったら仕事を失うとかそんな状態で出てきた「はい」は同意とは言わない。 「軍人さんを慰めるお仕事だよ」と騙され連れてこられて、その場で「もう帰れないよ」
追記(20190806) twitterで色々書いたので追記 長い上に、色々紆余曲折するので、結論としては最後に引用しているakadaさんの見てください この記事だけだとうまく伝わっていないだろうけど、自分が何にそんなに引っかかっているのか改めて気付いたこととして、少なくとも自分は、発語内行為をかなり言語的なものに特有の現象だと思っていて、非言語的なものにさらっと援用・拡張できるのかと思っているのかもしれない— シノハラユウキ (@sakstyle) August 5, 2019 しかし、ここはまあなんか難しいな。 発語内行為とされるものの中にも色々ありそう。 「主張する」とかは非言語的にもやれそう。 ただ、発語内行為の典型例と思われる「約束」とか「命名」とか「宣言」とかが言語的な現象にしかみえない— シノハラユウキ (@sakstyle) August 5, 2019 自分の理解だと、発
はじめに 表現を用いて行為を行うとはどういうことか。本稿では、J・L・オースティンの『言語と行為』における言語行為論を拡張した「表現行為論」のスケッチを行う。表現行為論は、「発表行為」「発表内行為」「発表媒介行為」の三つの概念を軸に、芸術作品や表現一般を用いた行為を分析する。本稿では、表現行為論の素描ののち、芸術作品や表現一般がいかにうすくとも持ちうる行為としての側面に注目することで、それらがある種の政治とは切り離し難いものであることを指摘する。そして、表現行為論から、芸術表現の倫理を問う「芸術倫理学」の思考可能性を議論し、さいごに、表現行為論に代表される哲学、美学における概念が実践にどのような寄与をなしうるのかについてふれる。 はじめに 1. 言語行為から表現行為へ*1 2. 表現行為論––––発表行為、発表内行為、発表媒介行為 3. 芸術と政治の切り離せなさ 4. 芸術倫理学の試み 5
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