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ブックマーク / www.asahi.com (85)

  • 朝日新聞デジタル:買って登記せぬ土地「10年占有で抵当権消滅」 最高裁 - 社会

    印刷  購入した土地を登記しないまま、知らない間に抵当権を設定され、競売にかけられた――。奄美諸島のサトウキビ農家だった男性が「競売は不当」と訴えた訴訟の上告審判決で、最高裁第二小法廷(竹内行夫裁判長)は16日、「抵当権が設定、登記された後も男性は10年以上、畑の占有を続けたため、抵当権は消滅した」と判断した。  民法は「所有の意思があり、平穏、公然に他人の物を10年占有した者は所有権を取得する」と定める。男性はこの規定によりいったん所有権を取得。その後に抵当権が設定され、さらに10年間、それを知らないまま占有を続けた。こうしたケースで抵当権を消滅させた判断は初めて。男性の勝訴が確定し、競売の開始は取り消されることになる。  男性は1970年3月に鹿児島県天城町の約4700平方メートルの土地を購入。所有権の登記をせずにサトウキビを99年まで栽培した。 購読されている方は、続きをご覧いただけ

  • asahi.com(朝日新聞社):江戸を語る人骨1万体 小柄な体躯・栄養失調・伝染病 - 社会

    印刷 国立科学博物館が収集している人骨。刀傷が残る骨もある=東京都新宿区百人町、渡辺延志撮影  東京都内の開発で掘り出された人骨を、国立科学博物館(科博)が大量に保管している。ざっと1万人分。江戸時代の骨がほとんどで、今よりも小柄で栄養状態も悪かった。時代劇のイメージとは違う江戸の人々の厳しい暮らしぶりが、浮かび上がってくる。  「この頭の骨は左の側面に鋭い刃物の傷が2。日刀で斬り殺されたのでしょうね」「青黒いシミがついたこちらの骨は、梅毒の痕跡ですよ」  新宿区百人町の科博新宿分館。人骨がびっしり並ぶ人類研究部の収蔵庫で、人類史研究グループ長の篠田謙一さんが説明する。  研究用に科博は20年ほど前から、開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を受け入れてきた。分館は来春までに茨城県つくば市に移転する予定で、荷造りを前に人骨の分類やクリーニングが続く。  骨は江戸の人々の暮らしぶりを伝えて

  • asahi.com(朝日新聞社):原発の警戒区域、住宅街でダチョウ発見 対策本部が撮影 - 社会

    印刷 関連トピックス原子力発電所東京電力23日午前、政府の原子力災害現地対策部が撮影、公開した福島県大熊町内で発見されたダチョウ  東京電力福島第一原発がある福島県大熊町のJR大野駅近くの住宅街で23日、ダチョウ1羽がいるのを、政府の原子力災害現地対策部の担当者が見つけた。町内のダチョウ園で飼育されていて、震災後に逃げ出したダチョウのようだ。  原発から半径20キロ圏内の警戒区域への住民の一時帰宅に同行した担当者が、町の様子を撮影しながら巡回中に、道を歩いているダチョウに出会った。痩せているようで、車に積んであるドッグフードを与えると、首を伸ばしてついばんだ。担当者は「遭遇して驚いた。おなかがすいていたんでしょうね」と話した。

  • asahi.com(朝日新聞社):「地下に非常電源」米設計裏目に ハリケーン対策だった - 社会

    津波に無力だった非常用発電機  東京電力福島第一原発が40年前、竜巻やハリケーンに備えて非常用発電機を地下に置く「米国式設計」をそのまま採用したため、事故の被害が大きくなったことが関係者の証言でわかった。原発は10メートル以上の津波に襲われて水につかり、あっけなく全電源を失った。  風速100メートルに達する暴風が原発に襲いかかる。周辺の大木が根こそぎ吹き飛ばされ、ミサイルのように建屋の壁を突き破り、非常用電源を破壊する――。1960年代初頭、米国ではこんな悪夢のシナリオを想定して原発の災害対策が練られた。非常用発電機は原子炉建屋ほど壁が厚くない隣のタービン建屋に置かれた。「木のミサイル」から守るためにより安全なのは地下だった、と東電関係者は解説する。米国ではハリケーンに男女の名前を交互に付ける。津波よりも身近な災害だ。  東電初の原発だった福島第一の1号機は、ゼネラル・エレクトリック(G

  • asahi.com(朝日新聞社):震災翌日、油性ペンで号外 米で展示へ 石巻日日新聞 - 国際

    3月12日付の手書きの石巻日日新聞=ニュージアム提供  東日大震災で被害を受けた宮城県石巻市の夕刊紙、石巻日日(ひび)新聞が被災後の6日間発行した手書きの壁新聞が、米ワシントンにあるニュースの総合博物館ニュージアムに展示されることになった。困難を乗り越えて発行された歴史的な紙面として、ニュージアムが紙面の寄贈を日日新聞に求め、同紙が応じた。  日日新聞は震災で通常の編集・制作・印刷ができなくなったが、記者は懐中電灯の光を頼りに油性ペンで記事を書き、避難所などの壁に張り出した。  地震と津波が襲った翌日3月12日付の紙面は「日最大級の地震・大津波」の見出しで、13日付は「各地より救難隊到着」。印刷が再開できたのは18日付からだった。  日日新聞の奮闘ぶりを米紙ワシントン・ポストが報じ、これを読んだニュージアム職員が日日新聞に連絡を取り、寄贈の話がまとまった。  ニュージアムはウェブサイト