目次・記事一覧(1) レトロゲーム(185) 日記(771) 雑文(512) 書籍・漫画関連(56) 子育て・子どもたち観察(115) ゲームブック(12) フォルクローレ・ケーナ・演奏関連(86) FF14(40) レトロでもないゲーム(336) 始めたばっか(13) アナログゲームいろいろ(37) 人狼(48) ネットの話やブログ論(61) 三国志大戦(20) 無謀的世評(52) ゴーストライター(16) 大航海時代ONLINE(40) FF3(6) Civ4(18)
知人の訃報を聞いた。 訃報といっても、ここ数日の話ではない。半年以上前の話のようだ。訃報は、本当にひょんなことから、名古屋の知人から届いた。 私にとっての名古屋とは、中学・高校時代をすごした土地であり、時折同窓会のタイミングでふらっと立ち寄る土地であり、高校時代に大好きだったラーメン屋がある土地であり、人生で最も通いつめたゲーセンの跡地がある土地である。 名古屋にいく機会は、二年に1回あるかないか。今となっては、私と名古屋の精神的距離、時間的距離は随分と離れてしまった。 知人は、かつてのゲーセン仲間だった。ゲーセンでしか知らず、ゲーセンでしか顔を合わせず、ゲーセンでしか会話しない、それだけの関係だ。知人と私は、強いて言えば、サムライスピリッツ斬紅郎無双剣、ないしはKOFシリーズにおけるライバルだった。知人は緋雨閑丸使いであり、私は服部半蔵使いであった。知人は庵使いであり、私はサイコソルジャ
能力名とかないんでしょうかこの能力。そのまんま書いてると文章が長くなりすぎるので、仮に能力αと呼称してみます。 家庭生活において、能力αは「日頃の地味な努力、地味な気遣いを埋没させない能力」です。 例えば、しんざき奥様は、日頃ホントーに色んなところで私をサポートしてくれており、家庭内で私は殆どノーストレスでいさせてもらっています。私の方でも、なるべく奥様がストレスを感じないで済むように、できる限り努力しているつもりです。 こういう、お互いの普段の努力って、ほっとくとすぐ「当たり前のこと」になって埋没しやすいんですよね。 それ以外でも、例えば家事の分担であるとか、子どもの宿題への頑張りであるとか、日常生活は「地味な努力」「地味な苦労」であふれています。 そういうものを、ただ頻度が高いだけで「当たり前のこと」「当たり前のもの」として流してしまうようになると、それはその内「降り積もるストレス」に
今から、あんまり具体的じゃない話をします。 あるテーマがあるとします。 で、そのテーマについての意見を、てきとーに数字化するとします。どの程度極端に振れているかという尺度によって、1から10くらいまでの数字に分かれると思ってください。 可視化されやすい、というか、分かりやすくて目を引き易い意見って、やっぱり「1だ!」と「10だ!」なんですよね。1派の人と10派の人が殴りあいとか始めると、そりゃもう人目を引きます。万事、絶対評価よりも相対評価の方が分かりやすいので、周囲の人たちも、「1なのかな?」「いや、10なんじゃないか?」「10はない」「1の問題点は3つあって」といった、色々付随的な議論も始まるわけです。 特にWeb界隈では、「1か10か」という議論が注目されやすいこともあいまって、極端な立ち位置、極端な言説がもてはやされやすい土壌みたいなものがある気がします。 ただですね。往々にして、
いつもの様に、こういうことを可視化するのも悪くないかなーと思い、書く。 長男7歳。普段、私が早く帰ってきた時は大体家族5人で風呂に入るのだが、先日は珍しく、長女・次女・奥様が先にお風呂に入った。その為、私と長男の二人でお風呂に入ることになった。 その時、以下のようなことを話した。 「最近なんか、学校で困ったことないか?」 「この前話したこと(班のリーダーの女の子が決める自分ルールが色々細かくてイヤだ、ということ。席替えに伴い解消)しかないよ?」 「そうか。ならいいんだけど、一つお話があります」 「おはなし?おもしろいやつ?」 「(息子の名前、以下息子で統一)くんにはまだそういう感覚ないかも知れないけど、学校で何か困ったことがあった時、一番それを言いたくないのは、多分パパだ」 「別にそんなことないよー」 「今はないと思うけどね。もうちょっと大きくなったら、これはパパやママには言いたくないなー
タイトルで完結はしている。 勿論、口汚さと一口で言っても色々ある。ファウルラインも人それぞれである。 一応、程度問題は別として、私は以下二つを「口汚いテキストだなあ」と感じることが多い。 ・本論と関係ないところで、攻撃的な内容の言葉が頻出する。 ・同じく本論と関係ないところで、相手を貶めるレッテリングが頻出する。 上記のようなテキストは、どんなスタンスから産まれるだろうか? 幾つか考えられると思うが、 ・(意識的かそうでないかに関わらず)相手を貶めることによって、自分が優位になろうとしている ・自分が「攻撃者」であることを周囲に示して、攻撃的な言葉が好きな傍観者を味方につけようとしている ・相手を威嚇することによって、反論ないし反応を封じようとしている ・「強い言葉」と「口汚い言葉」を混同している ・「毒舌が俺の持ち味」とか、「口が悪い俺かっこいい」みたいな不思議な勘違いをしている といっ
いや、勿論、「体力的についていけなくて休まざるを得ない」というケースは分かるんです。凄くよく分かる。何せヤツら電池の使い方に一切ブレーキがない。体力が無尽蔵って訳じゃないんですが、電池が切れるまでは100%セルかよって感じのフルパワーを遠慮皆無でこちらにぶつけてくるので、いつも100%で対応する訳にもいかないこちらに、ハンデとしての休憩の時間が必要なのはわかるんです。 ただ、身近のお母さんやご家庭の話を伺ってみると、それ程体力的な問題がなくても、「パパが全然子どもと遊んでくれない」という愚痴を結構観測しまして。余計なお世話なんですが、勿体ねえなあ、と。 少なくとも私の場合は、なんですが、子どもと遊ぶのが物凄く楽しいです。超エンターテイメント。時間と体力さえ許せば一日中子どもと遊んでいたいくらい。 子どもと遊ぶのが物凄く楽しい理由って、私にとっては、突き詰めると以下の二点に絞られるんだと思い
「そうだったのか!」「今まで俺が信じていたことは間違いだったのか!」という感覚は、それが自分の根幹を揺るがすようなものでない限り、実はとっても気持ちいい。 固定観念に触れない程度の気付き、というものは快感だ。覚醒欲求、とでもいうのか。それとも真実欲求、とでもいうのか。どんなジャンルでもそうだが、大体の人は「勘違いしていた自分からの脱却」「正しい知識を得たことによるレベルアップ」という感覚にわりと弱い。 という話を、以下のようなリンクを読んで考えた。 「間髪をいれず」が殺された日 そうなんですよね。 上記の記事を乱暴に要約してしまうと、「本来言葉は変化するものであって、「正しくはこう!」などということを希求することに意味などないのに、知ったかぶって「正しい日本語」などというものを主張する輩によって言葉狩りが発生してしまう」という問題提起になる、と思う。 この問題提起については、私は全面的に賛
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く