最大364人が避難生活を送った女川原子力発電所の体育館。間仕切り用に卓球に使う青いパネルなどが提供された 東北電力女川原子力PRセンター(宮城県女川町)は、三陸リアス式海岸の美しい景観を見下ろす高台にある。2011年3月11日午後。館長の添川信夫(現・東北エネルギー懇談会広報部長)は、見学に訪れた学生17人を女川原子力発電所の見学に送り出した後、館内に残り、事務仕事をしていた。 学生たちが2号機の放射線管理区域内で見学しているか、あるいは終わろうとしていた時間帯だった。 ◇PR館に見学者 午後2時46分。今までに体験したことのない揺れに襲われた。部屋にある書棚からは書類が散乱。館内の天井が崩落したほか、展示物も一部破損した。 2号機内にいるかもしれない学生たちは大丈夫か――。 真っ先に迫られたのが、安否確認だった。地震発生から15分ほどたった時、発電所内に学生をアテンドしたスタッフから「管
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