■ 概要 著作権フリーの日本語聖書テキスト(2008年3月現在)を、EBStudioでJIS X 4081形式(EPWING)に変換したデータです。 多くのEPWINGビューアで使用できます。 メニュー検索の他、略称で検索できます。(例: matt2:1 または マタ2:1 ) 本文中の漢字、カタカナで条件検索ができます。 "The Holy Bible: WEB+KJV (EPWING)"と串刺し検索できます。 今日では差別用語とされている表現がありますが、歴史資料として改変せずに用いていることを付記しておきます。 ■ 内容 口語訳新約聖書(1954年版)、口語訳旧約聖書(1955版) http://bible.50webs.org/ 日本聖書協会発行の口語訳聖書。2005年に著作権保護期間が終了している。 "Bible, Colloquial Japanese" 大正改訳聖書(
とても微妙でうまく言えない。 微妙に違うといって異論とか反論ということではない。 一例⇒ブログは感情の発露する場所を求めて傷ついたり傷つけられたりするものなのだろうか - てきとうチャ日記 ぶくま⇒はてなブックマーク - ブログは感情の発露する場所を求めて傷ついたり傷つけられたりするものなのだろうか - てきとうチャ日記 もう一例⇒404 Blog Not Found:「ほげ」「ふが」...がどんだけの男女を無気力にさせているのか少し考えてみた ぶくま⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:「ほげ」「ふが」...がどんだけの男女を無気力にさせているのか少し考えてみた 率直に言って、現状の萌えろよ萌えろよ的キャンプファイアー空気と文脈から離れて、別のモデルで論じてみたいというか、論じなくていけない課題なんだろうと思う、というか少なくとも自分へのチャレンジ。 うまく言え
フェロモンボディのボディソープを買いました。 スリミング・セルライト対策のソルト系のボディソープとしてクチコミでも割と評価... 「美白フリークの愛用する6つの日焼け止め」で触れたイプサのプロテクター・デイシェルター・ブライトビジョンをまた買いました。 ...
2007年06月21日14:45 カテゴリLove 受け取ることの重要性 宋さん、おつかれさまでした。 失うことの重要性 (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン) 「傍目八目」は今月でもって終了させていただきます。 心理学者の研究によると、同じ程度の損得に対しては、得る時の快感よりも、失う時の不快感の方がはるかに高いそうです。つまり、我々の本能は失うことに対して、過剰に反応するのです。 心理学者に調べて欲しいことが、実はもう一つあります。 得られるべきものが得られないことと、与えたものが受け取られないことと、どちらが不快なのか、ということです。 研究が大変なのはわかります。損得「感情」は、単体の被験者でも観察できますが、こちらの方は社会を観察する必要があるからです。だからこそ、知りたい。 素人の私が憶測するに、前者の「得られない」よりも、後者の「受け取られない」方
1.人物像 カインはアダムとエバの長男、その名前の意味は「わたしは得た」、またアベルは次男であり、その名前の意味は「気息」あるいは「空虚」です。アダムとエバはその罪のゆえに楽園から追放されましたが、その時神は彼らに救い主として「女のすえ」を与えると約束されました。アダムとエバはその言葉に期待をかけていたのです。そこで長男が生まれた時、彼らは「得た」と思ったのでした。しかしながらそれが間違っていたことが分かると、彼らは「空しさ」を感じたのでした。カインは農耕に、アベルは牧畜に従事しました。ここで描かれる事件は兄弟間の葛藤としてよく観察されることであり、精神分析を創始したフロイドはここからヒントを得て、兄弟姉妹間の無意識的葛藤を「カイン・コンプレックス」と名づけました。 2.主要なエピソードとその霊的意義 物 語 カインとアベルは神の前に捧げ物を持ってきました。カインは農耕従事者として地の作物
Georgia州議会下院議員Ben Bridges(共和党)から、受け取った反進化論州法を作ろうというメモをTexas州議会下院議員Warren Chisum(共和党)が、Texas州議会下院の149名に送った。このメモは、反進化論州法案サンプルを掲載したWebサイトを参照していた。そのサイトがGeocentrism(地球は宇宙の中心な天動説)サイトで、「ビッグバンも進化論も地動説もユダヤの教義に基づく宗教だ」と主張するものだった。 反進化論州法案とユダヤと地球中心説という祭りネタ満載で大騒ぎに.....そして謝罪。 ==>The Dallas Morning News: Memo: Stop teaching evolution [2007/02/14] ==>Star-Telegram: Chisum a 'Fixed Earth' advocate? NoBy Bud Kennedy
米国の成人の46%が1万年以内に神が現在の形で生物を創造した[2006年5月8~11日]と信じている。この日立は、そこそこ聖書は無謬だと信じているのだろう。特に創世記は。 ところが、「植物-->動物-->人間(男女)」(創世記1章1-23節)と「男-->植物-->動物-->女」(創世記2章4b-22a節)と創造順序が違う話が並べられている。それを、無理やり、矛盾なく"字義通りに"解釈するのが"若い地球の創造論"者たちだ。 この創造順序問題に対する言い訳のキーポイントは、「いかに創世記第2章の記述順序を引っくり返して、第1章と一致させるか」にある。わかりやすい例は、"若い地球の創造論"サイトAnswers in Genesisの1996年9月の記事「Genesis contradictions?」あたりだろうか。 "聖書ヘブライ語の時制"を使って順序を引っくり返す 「ヘブライ語の時制はコンテ
[読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫) (挿絵は、同じくブレイクの描いたヨブ。) C.G.ユングの『ヨブへの答え』(原書1952)は非常に面白い。邦訳は二種類(野村美紀子訳/ヨルダン社、林道義訳/みすず書房)。ユングは、神を「集合的無意識」として、すなわち、ある時代の民衆の心の無意識的な働きの対象として捉える。神は物理的事実としては存在しないが、心理的事実としては、十分に実在的である。つまり、神を一種の社会心理学的対象と見るわけである。すると、「神」は決して不変の対象ではなく、歴史的に変容する心理的事実の問題になる。 そのように見た場合、『ヨブ記』は、ユダヤ−キリスト教における神概念の転換を予告する決定的な位置にある。つまり、無意識のレベルに根ざす荒々しい怒りの神であったヤハウェ神は、人間の意識が高まるにつれて、普遍的な愛の神であるキリスト教の神に変容を余儀なくされる。その転換点を象
[読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫) (挿絵は、英国ロマン派の詩人ブレイクの描いた「ヨブ」。サタンに苦しめられるヨブ。) 『ヨブ記』を25年ぶりに(?)再読した。『ヨブ記』は、旧約聖書中もっとも重要な作品の一つだが、解釈が大きく分かれる問題作でもある。その解釈の根本的対立点について考えてみたい。『ヨブ記』は、真ん中の長い詩文を、前後の二つの散文が挟む「枠構造」をしている。まず冒頭の散文であるが、それは神ヤハウェとサタンの対話であり、ゲーテの『ファウスト』の原型である。ヤハウェが「正しき人ヨブ」を褒めたのに対して、サタンが「ヨブが神をうやまうのは彼の人生が順調だからにすぎない。ヨブが不幸のどん底に落ちれば、神を呪うにきまっている」と反論する。神ヤハウェは、「じゃお前やってみろ。ヨブを不幸のどん底に落としてごらん」ということになり、サタンは、ヨブのすべての息子たちを殺し、ヨブの全財産を
(挿絵はブレイクの『ヨブ』より) 田島正樹氏が、10月6日より、ご自身のブログ「ララビアータ」で、旧約の「ヨブ記」について覚書を連載されている。↓ http://blog.livedoor.jp/easter1916/ 実にスケールの大きな興味深い解釈なので、この問題に関心を持つ者として、氏の「ヨブ記」論を取り上げてみたい。私も8月の日誌で「ヨブ記」に触れたが、今回の田島氏の論稿を拝見して、ようやく「ヨブ記」を理解できそうに思う。 ヨブ記は旧約中でおそらくもっとも問題を孕む書といえる。ヨブが神に力ずくで屈服させられる経緯に、何ともいえない割り切れない思いが残るし、ユングのように、神ヤハウェの未熟さを正面から批判して、「神が人間に追い越された」という解釈をする論者もいる。田島氏は、ラカンのテーゼを根底に置いて「ヨブ記」を読む。すなわち、「主体が象徴界に生まれる時、不可避的に象徴界に対して遅れ
内田樹氏やレヴィナスに助けられて、『ヨブ記』についての私の覚書を記したが、一応テクスト上の根拠を示しておこう。 ヨブは、最終的に彼に対して語られた神の言葉の趣旨を要約して、「聴け、私がお前に問いかけるのだ。答えるのはお前だ」(『ヨブ記』42章4節)と理解している。これこそ、「ヨブがなぜ選ばれたのか」という同じ問いが、ヨブから神になされるべきものではなく、神からヨブに対して為されたものだということを、ヨブ自身が悟る瞬間を示しているのではなかろうか?(ここには、ちょっとジョン・F・ケネディの就任受託演説「祖国が君に何をしてくれるかと問うな、祖国に君が何をなしうるかと問え」を思わせる反転がある。) 先回私が「神は全知でも全能でもない。神の質問は、ヨブの為そうとする応答を神が予見していないからである」と述べたとき、この宗教の臨界点に近づいていることを私は感じて、思わず身震いした。 ヨブは自らの苦難
われわれは、レヴィナスのヨブ記解釈(または、内田樹氏によるその解釈)を要約して、「主体が象徴界に生まれる時、主体は象徴界に遅れをとらざるを得ない」と記した。主体にとって根源的な遅れとは、言語への参入によって初めて主体が成立するものである以上、主体は象徴界に対して常に遅れを取ったものとして登場せざるを得ないという事である。 象徴界への遅れは、万人にとっての宿命であるにもかかわらず、それが何故私の責任の根拠(そして自由の根拠)となり得るのであろうか? それは、どのような象徴界といえども、その中への私の同定、「それが私だ」を必要とするからである。テクストの中の私の同定とその引き受けを通して、私たちは言語主体になるのだ。私のことは、私が主体として成立する前から、すでに語られてしまっていたのだ。だからこそ主体は、テクストの中にすでに語られてしまっている自分自身を認知しなければならない。象徴界(言語的
選民(その1)補遺 神の選びは、普通は受難という形を取る。受難においてこそ、「何ゆえ、私が選ばれたのか?」という問いが、その真摯な切迫を帯びて問われるからである。思い上がった成功者や成り上がり者たちは、己れの成功を己れの「能力」によって納得して怪しまない。(古代ギリシア人なら、勝利と幸運によってかえって敬虔になったものだが) ヨブはその受難において、「何ゆえ、私が?」という問いに直面した。ヨブの「友人たち」は、口々にそれに安直で合理的な説明を与えるが、ヨブは納得しなかった。ユダヤ人の受難に、なんであれ合理的説明を与えようとする人は、不可避にこのヨブの「友人」の立場を取ることになるだろう。この種の第三者の語りがGerede(駄弁)に堕するのは、そのためである。 レヴィナスのヨブ解釈のすぐれた点は、ヨブの神に向けられた「何ゆえ、私が?」という問いが、そのまま神からヨブに向けられた問いとして理解
「何故、私が?」という問いが立てられることこそが、神と直面して立つ事であり、ここから神とのコミュニケーションが始動する。しかしそれは、私自身がその譲りえぬ個別性で問われているからであろう。その問いは、「何故、ユダヤ人が?」という第三者の問いとは、まるで違う。この問いは、「何故、われわれユダヤ人が?」という形を取らない限り、まじめに問われるものとはならないだろう。それは、「何故、巨人が9連覇したのか?」という問いと大差ないものになってしまう(Gerede , Neugier)。 しかし、「何故、私が?」という問いと「何故、われわれユダヤ人が?」という問いの間には、ある種の政治哲学が挟まらねばならない。しかし、「私」を「われわれ」に昇格させるための政治哲学として、民族の理念に訴えるだけで十分であろうか?(とりわけ、「民族国家」を樹立しようとしたシオニストの政治が、最悪の政治を展開しつつある時に
内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』の後半を読む。『文学界』連載中少し前半部分を読んでいたものだが、その問題意識と方法論にいささか疑問を感じて、読み進むのをためらっていた。 氏の論述は多彩で、よく言えば光彩陸離たるものであるが、極めて深遠な洞察もあれば、いささか思いつきで筆を走らせたところもある、いわばまだら模様と言える興味深い作品に仕上がっている。例えば、反ユダヤ主義者はユダヤ人に魅せられている、その愛を強化するために迫害に及ぶのだ、といった主張。確かにそのような例もあるかもしれないが、それをもって反ユダヤ主義の本質とか一般現象と主張するにはやや無理があろう。一般に、強い憎悪には敵対者へのアンビヴァレントな感情が付きまとう事が多い、ということはあるかもしれない。敵対性が、しばしば相似性、鏡像的分身関係に基づくこともよく知られている。しかしそのような心理の一般論をユダヤ人問題に「適用」する事
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