タグ

歴史に関するkaionjiのブックマーク (125)

  • 【書評】荘園を知れば日本中世史が圧倒的にわかる!伊藤俊一『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』 - 明晰夢工房

    荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書) 作者:伊藤俊一 中央公論新社 Amazon 学問とは来面白いもの、ということがこのを読むとよくわかる。書『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』は、荘園という一見地味で硬いテーマを扱っているが、その中身はといえば古代から中世末期にいたるまでのダイナミックな社会変動、土地制度にまつわる有名無名の人々の営みである。なにしろこの時代、人口の大部分は農民であり、荘園は農民の生活と労働の場であるから、荘園を知ることは中世社会そのものを知ることにもなる。荘園という覗き窓からみえてくる中世社会は、こちらの想像以上に活力と刺激に満ちている。これが面白くないはずがない。 荘園の実態は時代によって異なるが、第二章を読むと、摂関期における荘園は、江戸時代の農村とは異世界といえるほど違っていたことがわかる。天災が頻発し、古代社会の秩序が破壊されるなか、台頭

    【書評】荘園を知れば日本中世史が圧倒的にわかる!伊藤俊一『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』 - 明晰夢工房
  • 石合戦 - Wikipedia

    菱川師宣筆「菖蒲の節句」、石合戦を描く 石合戦(いしがっせん)とは、戦国時代の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと。5月5日には、行事として行われる。印地。「印地打ち」、「小石打合」、「向い礫」(向かい合って小石を投げ合う、の意味)、「飄石」(ズンベイ・ズンバイ)などの呼び名もある。 『日三代実録』には元慶5年(881年)に子供らが京の一条で大規模な合戦ごっこをやったと記載されているが、これが石合戦であろうと推測されている。以降も石合戦は記録され、少し下る鎌倉時代初期の『源平盛衰記』などにも記述がある。 子供たちが行っていたが、大人が加わることもあり、頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かった。鎌倉幕府3代執権北条泰時などは、「向い飛礫」を禁止する条例を発布した[1]。この頃の石合戦は神仏に奉納する、神仏の意思により開催される

    石合戦 - Wikipedia
  • 火起請 - Wikipedia

    火起請(ひぎしょう)とは、中世・近世の日で行われた神判の一種で、火誓(かせい)、鉄火(てっか)、鉄火起請(てっかきしょう)とも称する。赤く焼けた鉄(鉄片・鉄棒)を手に受けさせ、歩いて神棚の上まで持ち運ぶなどの行為の成否をもって主張の当否を判断した。 戦国時代から江戸時代初期にかけての境相論の際に行われることが殆どであり、相論の是非が定まらなかった場合に、神の判断を仰ぐ意図の元に行われた。 相論の対象となる集団からそれぞれ代表者を指名し、代表者は精進潔斎の上に立会いの役人らの前で掌に牛王宝印を広げ、その上に灼熱した鉄を乗せて、それを素手で持ち運びその完遂の度合いによって所属集団の主張の当否が判断された。もし、成功しなかった場合はその集団の敗北とされ、代表者は神を欺いた罰として引廻・斬首などになり、極端な場合には五体引き裂かれた上に引き裂かれたままの遺骸を埋めた塚を複数個設置してその線上を境

  • nix in desertis:高校世界史上で,ロシアの農奴解放令をどう説明・評価するか

    高校世界史深掘りシリーズ。まずは前置きとして,各国で産業革命が進んだ時期をその国の「産業革命期」と呼ぶ。その国で機械を用いた工場が広がり始めてから,主要な工業分野で手工業が駆逐されるまでの期間のことである。並行して国土の主要幹線を鉄道が網羅し,都市化が進み,GDP内の割合や就労者数で工業が農業を追い抜くといった現象が起き,産業革命期の終わりを「産業革命の完成」とも呼ぶ。歴史上で最初に産業革命が始まったイギリスの場合,産業革命期は1770年代〜1840年代とされ,1851年の第1回万国博覧会が産業革命の完成の象徴と言われるのはそうした事情による。 イギリスに次いで産業革命が始まった国家群がベルギー・フランス・アメリカで,やや遅れてドイツ地域である。これらの地域は産業革命期が1830年代〜1860年代(ドイツがそれぞれ10年ほど遅れる)とされる。そう,アメリカドイツは後発資主義国と言われる

  • nix in desertis:高校世界史における中世・近世の「琉球王国」問題

    久々の高校世界史深堀りシリーズ。先日Twitterでこんなアンケートを取った。回答してくれた方々はありがとうございます。 ちょっと気になるので,アンケートをとってみたい。知っている人は知識で,知らない人は調べずにイメージでお答えください。 琉球王国の最盛期はいつ?(最盛期の定義が曖昧ということであれば,万国津梁の鐘の作られた時期をお答えください) — DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) June 3, 2020 正解は万国津梁の鐘の制作年が1458年なので,一番上の「1429年〜16世紀前半」が正しい。実際に琉球王国の最盛期はこの時期であるというのが一般的な認識であろう。後述の理由から正解者は少ないだろうと思っていたのでそこはあまり驚きがなかったのだが,こんなに綺麗に解答が割れたのは予想外だった。琉球王国の盛衰については,Call of Histroryさんの次の

  • ドイツは2度降伏した、第二次大戦の知られざる真実

    1945年5月8日、ドイツの無条件降伏が発効したことを祝う米軍兵士たち。ソ連を率いていたスターリンはこの翌日に2回目の降伏調印式を行わせた。(PHOTOGRAPH BY HULTON-DEUTSCH COLLECTION, CORBIS/GETTY) 1945年5月7日、ドイツはフランスのランスで連合国に対して無条件降伏し、第三帝国は終焉のときを迎えた。 それとも、終焉のときは5月9日のベルリンだったのか? それはどちらも事実だ。対立するイデオロギー、ソ連と他の連合国との軋轢、そして第一次世界大戦後に残った禍根によって、ドイツは実際に2回降伏した。 ヒトラーの死と最初の降伏 1944年から45年にかけて、連合国の勝利がますます確実になり、米国、ソ連、フランス、英国はドイツ降伏の条件について検討を重ねていた。しかし、1945年4月30日にアドルフ・ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺して独裁に終

    ドイツは2度降伏した、第二次大戦の知られざる真実
  • 佐藤賢一の中の人 on Twitter: "科学史で有名なガリレオの宗教裁判。この事件を巡っては、それこそ世界中の歴史家が膨大な研究を今も積み重ねている。この裁判の判決文を取り上げて、例にしよう。以下で必要な情報は、ガリレオに対する判決文には10名の枢機卿が関わっていたのに最終的には7名しか署名しなかったことである。"

    科学史で有名なガリレオの宗教裁判。この事件を巡っては、それこそ世界中の歴史家が膨大な研究を今も積み重ねている。この裁判の判決文を取り上げて、例にしよう。以下で必要な情報は、ガリレオに対する判決文には10名の枢機卿が関わっていたのに最終的には7名しか署名しなかったことである。

    佐藤賢一の中の人 on Twitter: "科学史で有名なガリレオの宗教裁判。この事件を巡っては、それこそ世界中の歴史家が膨大な研究を今も積み重ねている。この裁判の判決文を取り上げて、例にしよう。以下で必要な情報は、ガリレオに対する判決文には10名の枢機卿が関わっていたのに最終的には7名しか署名しなかったことである。"
  • ドキッ! 死体だらけの平安京! ポロリもあるよ! ―命の重さの日本史― - バッタもん日記

    はじめに 私はノーテンキな進歩主義者です。人類は少しずつ、一進一退を繰り返しながらも精神面で進歩し続けていると固く信じています。その根拠の一つは、街中で歩きたばこや立小便や痰吐きなどの下品な行為を見かけることが減った、というような日常の些細な感覚です。そして最大の根拠は、「命が大事にされるようになったこと」です。具体的に数値で見ると、日における殺人事件は減り続けています。 参考:平成12年版 警察白書 平成29年版 犯罪白書 日人は長い年月を経て、命を大事にするようになりました。言い換えれば、昔の日人は命を大事にしない蛮族であったということです。平然と殺し合いをしていました。歴史家の言葉を引用します。 光源氏が王朝時代の貴公子の理想像であることについて、これまでのところ、その優れた容姿や豊かな才能などが取り沙汰されるのが普通であった。だが、実のところは、理不尽な暴力事件を起こさないと

    ドキッ! 死体だらけの平安京! ポロリもあるよ! ―命の重さの日本史― - バッタもん日記
  • 坂本龍馬の「アイドル伝説」はここから始まった!

  • 近世ハプスブルク君主国における軍隊と兵士

    JaLC IRDB Crossref DataCite NDL NDL-Digital RUDA JDCat NINJAL CiNii Articles CiNii Books CiNii Dissertations DBpedia Nikkei BP KAKEN Integbio MDR PubMed LSDB Archive 極地研ADS 極地研学術DB 公共データカタログ ムーンショット型研究開発事業

  • ナポレオンの戦略・戦術

    喜志武弘 Takehiro Kishi @takehiro1010 ナポレオンが敵軍の動きを予め全て計算の上で戦争したというのは作り話。戦場での現実の展開に即興で対応できたから強かった。 2016-07-03 00:44:17

    ナポレオンの戦略・戦術
  • 鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!」 : ガバガバ歴史速報

    男衾三郎絵詞 http://people.ucalgary.ca/~xyang/obusu/obusuT2.htm 家よく作りては、何かはせん。庭草引くな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ。 (家を継いだからには心がけねばならない。戦時に馬の餌にするのだから庭草はボーボーにしとけ。調練場の端には生首を常に絶やすな、人殺しも忘れるな) 此の門外通らん乞・修行者めらは、益ある物ぞ、蟇目鏑にて、駆け立て/\追物射にせよ。 (門前を横切る乞や僧侶、修験者はとても有益なものだ、すばしっこく逃げるため弓の標的として活用せや) 若者共、政澄、武勇の家に生まれたれば、其の道を嗜むべし。 (武士と生まれたからには殺しまくれ) 『今昔物語集』巻14第10 「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。 夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交は

    鎌倉武士「あ、あいつ俺んちの門横切った、弓で射殺したろ!!」 : ガバガバ歴史速報
  • 文献紹介:山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』

    今回扱う文献は、山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』である。これは、近世ブランデンブルクにおいて土地貴族の占めた位置を検討することを目的とした研究所である。著者は貴族の地域行政への関わりが疎遠となることに革命の原因を見出すという視点をある程度受け継いだ上で、紛争や抵抗をも内包した「秩序」の下での土地貴族の調整的役割に重点を置いている。 ここで、著者は近世ブランデンブルク史を五つに時代区分している。第一局面は、15世紀初頭のホーエンツォレルン朝成立から15世紀までの回復局面。第二局面は、15世紀末から16世紀末までの好況局面、最初の発展・安定期。第三局面は、16世紀から17世紀への転換期から三十年戦争までの後退局面。第四局面は、三十年戦争終了から1720年代までの回復局面、すなわち絶対主義国家の形成期。第五局面は、1730年代から1806年のイェナ・アウエルシュテット敗戦までの好況局面。この

  • 【漢文超訳】襄陽守城録―最前線に着任したら敵軍にガチ包囲されたんだが―(馳月基矢) - カクヨム

    オレは趙萬年《チョウ・バンネン》。 軍人やってる。 上司が京西南路の襄陽の守備に就くことになった。 いざ赴任してみりゃ、噂どおりマジで最前線だ。 敵軍との和平交渉はアッサリ決裂。 大河のほとりの水上交通の要衝・襄陽で、いたちごっこの籠城戦が始まった。 戦争って、何気に地道な土木工事ばっかだよな。 あと、敵軍から物資をかっぱらってきたりとか。 ―――――――――― 南宋代の開禧二年から三年にかけて、 西暦で言えば一二〇六年から一二〇七年にかけてのこと。 北方から攻め入った金軍が襄陽(湖北省襄陽市)を包囲した。 その際、襄陽で籠城した軍人の一人、趙萬年が記録を残している。 これは正史には載っていない戦場日記。 生の言葉で書かれた原文を活かして、超訳を試みる。 前近代風ファンタジーの戦…続きを読む

    【漢文超訳】襄陽守城録―最前線に着任したら敵軍にガチ包囲されたんだが―(馳月基矢) - カクヨム
  • 江戸時代の武士による普請と参勤交代についての誤解

    まとめ管理人 @1059kanri 「普請役は平時の軍役」とは見事な説明だと思った。主君の行う普請に従事するのも武士の身分的義務なのである。

    江戸時代の武士による普請と参勤交代についての誤解
  • 幕末銃器生産事情 - はてなビックリマーク

    gryphonさんのブログ記事http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150304/p2で3月4日・NHK総合の「歴史秘話ヒストリア 銃声とともに桜は散った 桜田門外の変」という番組が放送されるのを知り、見る事が出来ました。3月10日に再放送の予定です。 http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/234.html この番組で示された「井伊直弼暗殺」に用いられた銃はこちらの記事と同一の銃でしょう(これは新聞記事の転載かもしれません)。 井伊直弼を撃った短銃? 幕末の複製和銃見つかる ペリーが日に贈った短銃を複製したとみられる幕末・日製の精巧な6連発短銃が見つかった。幕末の精巧な和製短銃は現存しておらず、手に入れた大阪市の古式銃研究家、沢田平さん(74)は「日の工作技術の高さを証明する貴重な資料」と話す。沢田さんは水戸藩で作

    幕末銃器生産事情 - はてなビックリマーク
  • 史学論叢_46号通し_横.indb

    − 129 − 関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する(白峰) 関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する -高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して- 白 峰 旬 はじめに 高橋陽介氏が著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』 (1) を昨年(2015年)11月に自費出版された。 高橋氏からは筆者に対して謹呈送付していただき、感謝している。早速のその内容を拝読したとこ ろ、関ヶ原の戦いに関する高橋氏の新説による見解と、筆者(白峰)による私見との間に解釈の相 違がある箇所も見られるので、稿では、そうした点も含めて、高橋氏の新説を検証していきたい。 高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』 (以下、高橋と略称する)の内容は、以下 のような構成になっている(目次とあとがきは省略する) 。 1 やはり「問い鉄炮」はなかった(6~9頁) 2 一次史料のみによって

  • 兵農分離を行った証拠は実はない

    MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf さて、この前書ききれなかった、何故戦国大名≒「国民国家」萌芽論が戦国史研究者の間では慎重に受け止められているか。 2012-06-27 00:03:31 MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf それは議論の根拠である、北条氏の総動員令にある。たしかに北条氏は、村落に住む15歳~70歳の男子の名簿を作成し、民兵動員をかけている。この際に、「御国に住む者の義務」「御国のため」と唱えられたことが、「国民国家」へとつながっていくという考え。これがひとつの柱。 2012-06-27 00:05:46 MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf ただし、ここには落とし穴がある。北条氏が総動員令を発令したのは、合計2回。一回目は武田信玄の小田原攻め、二回目は豊臣秀吉の小田原攻めである。大名が滅亡しかねないという危機感のも

    兵農分離を行った証拠は実はない
  • 『戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』

    戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢 作者: 西股総生出版社/メーカー: 学研パブリッシング発売日: 2012/03/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 28回この商品を含むブログ (7件) を見る 第1章 戦いの現場から――天正十八年の山中城攻防戦 箱根路の戦雲 渡辺勘兵衛の活躍 山中城落城 第2章 中世の軍隊――封建制軍事力編成の原理 武士とは何者か 封建制的軍隊の成立 元寇から南北朝・室町時代へ 第3章 戦国の兵士は農兵か――軍団の編成と戦争の季節―― 後北条軍団を解剖する 後北条軍団の解剖 戦争と季節 第4章 足軽と長柄――軽装歩兵の戦列化―― 兵種別編成方式と領主別編成方式 足軽とは何者か 戦争を変えた長柄鑓 第5章 鉄炮がもたらした確信――集団戦から組織戦へ―― 鉄炮と戦国の軍隊 軍事上の画期 第6章 侍と雑兵――格差社会の兵士たち―― 侍と軍役 侍たちの戦

    『戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』
  • 坂本龍馬は教科書に必要か 大政奉還や薩長同盟、史実は:朝日新聞デジタル

    高校の歴史教科書から「坂龍馬」が消えるかもしれない――。昨年11月に歴史教育の専門家らが示した用語の精選案について、「声」欄に賛否の意見が多数寄せられました。史料を基に龍馬や吉田松陰らの実像に迫った「司馬遼太郎が描かなかった幕末」の著者、一坂太郎・萩博物館特別学芸員はこれをどう見るか、話を伺いました。 ――龍馬は教科書に必要だ、という意見が多かったです。 今の教科書で龍馬がどう書かれているかというと、徳川慶喜が朝廷に政権を返還する「大政奉還」のところで出てきます。龍馬と土佐藩重役の後藤象二郎が、藩主を通して将軍慶喜に大政奉還を勧めたと。しかし、ここに龍馬を入れるのは正しくない。龍馬が大政奉還を唱えたという根拠になっていた文書「船中八策」は、後世に創作されたとの説が有力です。龍馬が提唱したことを示す証拠は出ていません。龍馬は大政奉還が実現した後、新政府綱領八策という文書を書いていますが、当

    坂本龍馬は教科書に必要か 大政奉還や薩長同盟、史実は:朝日新聞デジタル