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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (27)

  • 2021-03-01 - 偽日記@はてなブログ

    ●リモート版「保坂和志の小説的思考塾 2nd」を昨日観た。以下は、感想であって要約ではありません(とはいえ、保坂さんの発言が曖昧に混ざっているので、オリジナルというのでもない)。 精神分析が、転移と逆転移によって成り立つのであれば、患者と分析家が互いを映し合う合わせ鏡のような存在となることによって分析が進行する。分析家は、(メタレベルに立つ)知の所有者でも(自らを主張しない)透明な媒介者でもなく、固有の色をもつ一人の人として、別の固有性をもつ患者の前に立ち、二人は相互に影響を与え合う。分析家の技量は、上位の階層から安定した技術を用いて患者を導くという風に発揮されるのではなく、同等の位置にいる相手と自分の相互の変化を通じて、患者が自ら治療するように導くことによって発揮される。この場合、分析家もまた変化することは避けられない。「再帰性」という語を使って保坂さんが言いたいのは、おそらくそういうこ

    2021-03-01 - 偽日記@はてなブログ
    kamanobe
    kamanobe 2021/03/17
  • 2021-01-19 - 偽日記@はてなブログ

    ●フロイトの女性性についての理論への疑義を示しながらも、精神分析とフェミニズムは、基的には同じ方向を向いたパラレルなムーブメントなのだという見解が述べられていて興味深かった(精神分析が「声を与えられてこなかった者に声を与え」るものだというのは、なるほどと思った)。以下、『精神分析にとって女とは何か』第一章「精神分析とフェミニズム---その対立と融合の歴史」(北村婦美)より。 《(…)よく引き合いに出される「解剖学的性差は宿命である(Anatomy is destiny)」といったフロイトの言い回しは、しばしば「生まれつきの生物学的性差がそのまま心理学的な女性性、男性性を決定づける」(…)という生物学主義と誤解されている。しかし、フロイトの主張をよく読むと、女性性はペニスのない自分の解剖学的形態に女性人が気づいた時から始まるとされている。フロイトの女性論は、実は出生後に受けた心理的印象か

    2021-01-19 - 偽日記@はてなブログ
    kamanobe
    kamanobe 2021/02/10
    『精神分析にとって女とは何か』第一章「精神分析とフェミニズム---その対立と融合の歴史」(北村婦美)
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●アニメ版『ハーモニー』を改めて観た。アニメ版ではラストに原作とは異なる結構大きな改変があって、伊藤計劃のファンからは大抵評判が悪い。アニメ版で主人公トァンは、ミァハが望んでいる「すべての人間が意識というものを失う」世界は受け入れるのだけど、大好きなミァハが消えてしまうことは受け入れられない。ミァハはミァハのままでいてほしいという理由から、ミァハのままでいるうちに(意識を失い他者との完全なハーモニー状態になる前に)彼女を殺す。ミァハは、(トァンにとっての)ミァハとして死ぬ。世界の匿名化は受け入れても、ミァハの匿名化は受け入れられないという逆説(トァンのエゴ)。 しかし原作では、トァンがミァハを殺すのは、ミァハの行為によって友人(キアン)や父が死んだということを、どうしても看過できないからだった。ミァハの望んだ世界は実現させてあげるけど、その世界をミァハには与えないということが、友と父の死に

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    kamanobe
    kamanobe 2017/07/08
    明文化されてませんが、原作でもハーモニー化後もWatchMeを入れる前の子どもには意識が残ってるって設定なんですよ。子どもにとっては以前も以後も大人は自分とは別の生き物にしか見えない。
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●アニメ版『屍者の帝国』も改めて観た。長くて複雑な話を二時間でみせるために原作の要素をいろいろ省いているのは仕方がないとして、意識=菌株という部分を抜いてしまったら、そもそものこの物語の意味がなくなってしまうのではないかと思った。おそらく意識=菌株というアイデアは、円城塔による伊藤計劃への批評であり、完全な合理性による完全な協和(ハーモニー)によって意識が消えるという『ハーモニー』から一方踏み込んで、それを乗り越えるために持ちこまれたアイデアだと思われる。つまり、意識=菌株がないと『ハーモニー』の二番煎じになってしまう危険がある。すべての人間を屍体化することで争いを失くそうとするMの行動は、完全な協和と合理性によって混乱を回収しようとする『ハーモニー』と同じパターンと言えて、それに対して、ザ・ワンが主張する意識=菌株説があることによって、前作に対する批評となっている。でもアニメ版ではそれが

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    kamanobe
    kamanobe 2017/07/08
    屍者の帝国評。
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●そこに参加しているプレイヤーでさえ、今何が起こっているのかよく分からずに、ただ「何か新しいことが来てる」という予感に巻込まれ、そのなかで試行錯誤していて、その個々の試行錯誤が奇跡的に連鎖するという状態が起こった時に、そこに何か新たな面白いことが生まれる。そこで何が起こっているのかを知ること、その出来事に意味や位置を与えるのは、そのような祭りが一通り収束した後でいい(というか、そうしか出来ない)。そして、多くのプレイヤーが、ああ、これはこういういとだったのかと勘付いた時には、祭りは収束に向かい、その先にあるのは、ビジネスと権力の話であり、祭りの後には、固いシステムとごく一握りの勝者が残る。 これは革命ではないかもしれないが、かといって、ただ「システムと一握りの勝者が生まれただけ」だとするのも違うと思う。そこで「新しい何か」が生まれた。そして、祭りは確かに楽しかった、と。自然発生するこのよう

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    kamanobe 2017/01/25
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『響け!ユーフォニアム』、第四回。この作品の曲者性が存分に出ていた。一見、いい話にみえて、実はそんなにいい話ではない。そして、実はそんなにいい話ではないということについて、作品自身が自覚的だ。 傘木と鎧塚のあいだにあった行き違いが解け、二人の仲が修復されたのはよかったとして、二人の仲が修復されたとたん、それまで二人に対して献身的というか、親身になっていた吉川と中川は蚊帳の外に置かれる。この作品では、常に勝者と敗者というか、選別と排除がはっきりしている。とはいえ、ぼくには、傘木と鎧塚の関係よりも、吉川と中川の関係の方がうつくしいように思うけど。というか、事前にそういう風にちゃんと(二話にも三話にも)描かれているというのがこの作品の厚みだ。。 鎧塚のずるさと、傘木の鈍さも、それとしてちゃんと描かれている。二人の関係は、ずるさと鈍さとがパズルのピースのようにぴったり組み合うことによって成立して

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    kamanobe
    kamanobe 2016/10/30
    ユーフォとゼーガ
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    ●『君の名は。』の興行収入が150億円を超え、8週連続して一位にもなったという記事をみたけど、ぼくは昨日、地元のシネコンで、観客数約六名というとてもさみしい状態で観た。混んでいるよりはいいけど、ちょっと人がいなさすぎた。そもそもシネコン全体に人がいなくてがらんとしている。従業員も、チケット売り場に一人、飲物売り場に一人、もぎりに二人の四人しかいなくて、他にはロビーに客が三、四人いるだけだった。これが地方の映画館の現実で、厳しいなあと思った。 ●『君の名は。』について多くの人が誤読していると思うのは、この物語が「運命の相手」という幻想を主題としているかのように読んでいるところだろう。しかしそれは、新海誠の過去作品にひっぱられた解釈で、この作品の構造とは異なるように思う。瀧と三葉とのつながりはあくまで偶発的なものであり、二人の関係がかかけがえのないものになるのは、入れ替わりによって、それぞれ

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    kamanobe 2016/10/19
    「君の名は。」評
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    ●『君の名は。』(新海誠)、すばらしかった。あえて不遜な言い方をすると、新海誠という作家がここまでできる人だとは思ってなかったので、たいへんに驚いた。当にごめんなさい、ぼくが間違っていました、と。冒頭の、隕石が落下するカットを観た時点で、これは当に傑作なのではないかと居住まいを正した。 (物語は、エリー・デューリング的な「グラッソ物語」みたいだと思った。) (『秒速5センチメートル』の主題を、感傷で流すことなく、『星を追う子ども』のような挑戦的で粘り強い姿勢を貫いて語り切った、という感じか。) 今までの新海作品に感じていた、納得のいかなさ、乗れない感じは、この作品にはほぼなかった。新海作品ではじめて保留なしにすばらしいと言える。過度に感傷的なものをゴリ押しされたらいやだなあと思っていたのだけど、新海作品で最も感傷が抑制されていると感じられた。音楽で感傷を過剰に盛り上げる場面は度々あるの

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    ●全然使ってなかったVHSの再生機を奥の方から引っ張り出してきて、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』をすごくひさしぶりに観た(VHSのソフトを持っている)。今見ると、VHSの画質はかなり厳しいものがあるけど(テープ自体の経年劣化もあるかもしれない)、でも、映画はすばらしかった。大雨が去った後の、虫の声と共にこの映画を観る深夜の三時間。 (セリーヌとジュリーは、常に軽い躁状態で、口から出まかせばかり、悪意なくウソをつき、その結果として他人がどうなるのかという配慮もなく、公共物を粗末に扱い、冷静に考えれば正気とは思えないのだけど、それなのに一見すると普通の「女の子」が戯れているような映画にも見えて、なかなか他にないすごいキャラなのではないか。ひたすらアナーキーなのに、「私はアナーキーである」という過激アピールや狂気アピールが全然なくて、「いや、わたしなんて全然普通っすよ」みたいな風情でナチュラル

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    ●ふと思ったのだが、『ハーモニー』で生じる、意識をもたないはずのミァハにおける意識(感情)の獲得という出来事と、『涼宮ハルヒの消失』で生じる、感情をもたないはずの長門有希における感情の発生という出来事は似ている。来ならば意識(感情)をもたない存在が、並外れて過剰な負荷を受けることによって、プログラムに生じた一種のゆがみ(エラー)として意識(感情)を生じさせる。そして、来感情をもたないはずの存在が感情をもつことによって、彼女たちが「世界の根底からの改変」を望み、企てるようになるという点も同じだ。意識(感情)の発生(=ものごころがつく)という出来事は、それくらい残酷で理不尽で、世界そのものの改変によってしか釣り合いのとれない重たい出来事なのだ。 さらにそこには、人格(あるいは世界の基底面)の連続性/非連続性という、より踏み込んだ思考が込められている。意識、記憶、人格、あるいは世界そのものが

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    kamanobe
    kamanobe 2016/06/15
    またハーモニーについて触れている。そういえばミァハの自己紹介台詞はハルヒだった。なるほど。
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    ●アニメ版『ハーモニー』をDVDで観た。アニメとしてはあまりいい出来ではないと思った。特に最初の三十分の、思わせぶりな回想シーンばかりの展開は退屈だし、なによりミァハが、ちっちゃい人間関係のなかで他人の心を支配しようとする衒学的なちっちゃいカリスマにしか見えなかった(まあ、実際そうなのだけど)。それに、キアンが自殺する直前のぐるぐる回るカメラワークは、3DCGでやっちゃいけない安易な演出ワースト10に入るのではないか。作画的にも、キャラの日常的な細かい動きのぎこちなさが、違和感をおぼえる程強くあった(セルルックのせいなのか?)。デザインの好みは人それぞれだろうけど、ぼくはあまりかっこいいとは思えなかった。 とはいえ、話自体はシンプルなので、あー、そうそう、『ハーモニー』ってこんな話だったなあと思い出しながら、それなりに面白く観た(アニメ版『屍者の帝国』は、あれっ、これってこんな話だっけ、と

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    kamanobe 2016/06/09
    「ハーモニー」について触れている
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    ●考えたのだが、アニメ版『思い出のマーニー』には、東京から屋敷に引っ越してきたメガネの女の子(サヤカ)が登場し、主人公のアンナと出会って仲良くなるのだけど、このサヤカが、アンナとマーニーとの体験(経験)にはまったく介入していないということが、とても重要なのではないか。アンナとマーニーとの経験は完全に閉ざされていて、それはアンナだけのものだ。しかし、サヤカはその経験そのものに介入することなく、(日記の存在を示すことで)その経験に別の方向から(あくまで「外」から)光を当てる。アンナとサヤカとを結びつけたのは間違いなくマーニーという存在だが、二人は、マーニーについての共有された経験をもつわけではない。 アンナにはアンナだけのマーニーとの経験があり、そしておそらく、サヤカにもまた、日記の発見を通じて生じた、サヤカだけのマーニーとの秘められた関係があり、経験がある。これらはそれぞれ閉ざされているが、

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    kamanobe 2016/05/05
    思い出のマーニー
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    ●『思い出のマーニー』(米林宏昌)をDVDで観た。これはよかった。傑作というようなものではなく、むしろ物語の類型そのものという感じなのだけど、類型を類型として、ここまでのクオリティでやり切ったものは他にはそんなにないんじゃないかと思った。 このお話は内向的な女の子の話だ。そして、一般的に、多くの人はけっこう「内向的な人」に冷たい。この原作は児童文学で、をよく読むような人は、内向的であるために外ら見るとひねくれた嫌な奴にも思えてしまうような登場人物に、寛容であることが多いと思う。『秘密の花園』とか、そういうのが好きな人が多い。『くまのプーさん』だって原作はすごく内向的だ。それは、児童文学を好むような人は、自分自身が内向的であることが多く、むしろ内向的な主人公の方が感情移入しやすいからだろう。でも、内向的な人は実はそんなに多くない。 (児童文学ではないが、ウェルズの「白壁の緑の扉」なども思い

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    kamanobe 2016/05/01
    ジブリ版「思い出のマーニー」の評。一言一句同意。
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    ●「漫勉」で古屋兎丸が、鉛筆の芯を紙やすりで削って粉状にして、それを水で溶いて薄墨みたいにして筆で描いているところがあって、ああ、このやり方懐かしい、この人も美大生(というより、美大受験生)だった人なのだなあと思った。「漫勉」を観ているとしばしば受験生時代を思い出す。 ぼくも受験生の時によく、木炭を紙やすりで粉にして水で溶いて使った。木炭デッサンでは、木炭を画面に何度ものせては抑えのせては抑えということを繰り返して徐々に全体のトーンをつくってゆかなくてはならず、ぼくはこれがけっこう苦手なのだけど、墨状にすると筆で画面に一気にのせられるので、画面全体のトーンをすばやく直観的に捉えられて、この技法には随分と助けられた。 (この頃のぼくは直観しかなくて、デッサンでも油絵でも、描き出してから三十分の時の状態が最も良くて、その後だんだんダメになってゆく、とよく言われた。要するに、直観的に空間を捉える

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    kamanobe 2016/03/30
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    ●DVDを返却に行って、ツタヤは最近ではマンガのレンタルもやってるんだなあと、いつもはスルーする棚の前をうろついて、普段マンガはほぼ読まないのだが、『僕だけがいない街』(三部けい)というどこかでタイトルを聞いた記憶があるマンガを六巻まで試しに借りてみた。 最近のエンタメはこんなにも高度なものになっているのかと驚いた。読者の心をひっかけ、吊り上げて、引っ張りつづける密度と技術的達成には驚くべきものがあるなあと思いつつ、六巻まで一気に読んでしまった。通俗性のある物語の強い「引き」および分かり易い感情、動機、メッセージと、様々な要素が様々なレベルで反復しながら少しずつ位相が変化してゆく上品で複雑な形式とが両立しているのもすごいことだと思った。 おそらくこの作品を詳しく分析することで、物語を組み立てたり、そこに人を引き込んだりする技術――現時点で最新版といえるもの――の多くを学べると思われるし、し

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    kamanobe 2015/12/24
    『僕だけがいない街』
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    ●「百年」で柴崎友香さんとトーク。 柴崎さんが言っていた新藤兼人の話がとても面白かった。新藤兼人の映画にはずっと殿山泰司が出ていて、つまり新藤兼人の映画には殿山泰司が占めるべき独自の位置というものがある。しかし、殿山泰司が亡くなってしまうと、その位置に六平直政がつくようになる。それについて柴崎さんは、「あ、六平さんでいいんだ(代わりはいるんだ)」ということに感動したという。厳密に言えは、殿山泰司と六平直政はかなり違う。その違いこそが重要だという立場もあり得る。でもまあそこは、「違っていてもいいんだ(同じだ)」という風に見ることもできる。その感じが面白い、と。俳優というのは、誰かの代わりを演じる存在でもある。 (例えば小津安二郎の映画でも、笠智衆の「代わり」は可能かもしれない、と考えると不思議な感じがする。とはいえ、小津の映画では、原節子は歳をとっても原節子であり、司葉子や岩下志麻がその位置

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    kamanobe 2015/10/30
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    ●『ガッチャマンクラウズ インサイト』第8話。主題的には、前半の不穏な複雑さからすると、ちょっと単純な方向に流れ過ぎているようにも思うけど、それでも、ゆるキャラ=ポジティブなゾンビみたいな奴が大量に発生するという展開は、イメージとして、表現として、こういうやり方もあるのかと驚いた。最近のアニメは、物語の展開の定型とかルーティーンみたいなものを外した展開をどんどん仕掛けてくるので、まるで先が読めない(終盤にクライマックスと収束があるというお約束は外さないとしても、中盤の展開の多様さはすごい)。いわゆる同調圧力的なものに対する恐怖の表現としては「ユリ熊」よりもすごいかもしれない。 で、問題は、こんな状況に対してガッチャマンたちに何かできることがあるのか、という点だろう。「クラウズ」一期では、選ばれた百人の精鋭が上手く機能しなくて、それに対して三万人の匿名の悪意が、世界の壊滅に対してすごく有効に

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    kamanobe 2015/09/09
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    ●『ガッチャマンマンクラウズ インサイト』第9話。リアルな恐怖。しかし、「空気」の怖さは、みんなが一斉に極端な方向に走る、というのは違うということが示されているのが興味深い。例えばガッチャマンは、ゲルサドラを捕えようとすることで「空気(≒くうさま)」を敵にまわすが、しかし一方、ガッチャマンのやり方に腹を立てて、ガッチャマンに殴り込みをかけようとする人もまた、「空気」を敵にまわすことで排除されることになる。「空気」には思想がなく、ただ極端さを嫌う。 「空気」は同調を強いるが、「祭り」とは違って、人々を集団的な熱狂へとは導かない(祭りと炎上のキャラであるベルク・カッツェに対し、空気のキャラであるゲルサドラは争いを好まない)。だから「空気」は、(個を排除するとしても)おそらく世界を破滅には追いやらない。それは、世界を肯定し、平穏と平和を望む。ただ、世界をどんどんと息苦しいものにしてゆき、ゆっくり

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    kamanobe 2015/09/09
    ガチャクラ批評
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    ●最近は深夜アニメがすごすぎて、他のジャンルに対する関心が薄れてしまって困っている。今年に入ってからだけでも、『ユリ熊嵐』があり『響け!ユーフォニアム』があり、そして『ガッチャマンクラウズ インサイト』がある。 最近のアニメのすごさは主にその凝縮度にあると思う。アニメの創造性が最も高かったのは九十年代中頃だと思われ、今のアニメはその頃にくらべると作品が全般的に小粒になっていて、九十年代にあった野放図な力のようなものはないかもしれない。その主な原因は経済的なものだろう。しかし、小粒になった分、様々な要素の作り込みが濃密になり、そこに込められた思考も濃密になっている。もはや、個として一人で作品をつくる作家やアーティストでは敵いようもない感じになっている。 ●『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』四話。今期のダークホースというか、もしかしたらすごい傑作にまで発展するのかもしれないという期待が

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    kamanobe 2015/07/27
    下ネタとガチャクラへの評。
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    ●『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン)を半分くらい(15章まで)読んだ。イーガンとは思えないくらい「普通」で驚いたのだけど、それはつまらないということではない。この小説では、現代の現実にとても近いところから、親子、コミュニティ、政治、国家、宗教(宗教そのものというより、それによってかたちづくられる伝統的習慣)に関する考察が丁寧に述べられている。要するにこれらは、人間が存在している時にまわりに切り離し難くある諸条件ということになると思う。 長めのプロローグと言える第一部は、イランにおける(革命と言えるくらいの)大きな政治的動乱を最前線で取材するオーストラリア人の記者と、十年近く前に亡命し、現在進行中の革命になにも関与できないことをはがゆく感じている、マサチューセッツ工科大学で研究職にあるイラン出身の女性という二つの視点から語られる、エンターテイメントとしてよくできた、普通に面白い小説という感じ

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    kamanobe 2015/07/08
    イーガンの「ゼンデキ」について。先に読もうかな。