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ブックマーク / www.tapthepop.net (70)

  • 日本のオリジナルR&B「グットナイト・ベイビー」と、ド演歌の二重唱「昭和枯れすすき」を作曲してヒットさせたむつひろしとは?

    Home TAP the SONG 日のオリジナルR&B「グットナイト・ベイビー」と、ド演歌の二重唱「昭和枯れすすき」を作曲してヒットさせたむつひろしとは? - TAP the POP キングトーンズの「グットナイト・ベイビー」がアメリカで発売になり、全米R&B部門で48位にランクされたのは1969年のことだ。 基的に黒人音楽しかランクされない「Rhythm&Blues」のカテゴリーで、日のアーティストがチャート・インしたのは、1963年に全米HOT100でも1位に輝いた「SUKIYAKI(スキヤキ)」の坂九に続く出来事だった。 「グットナイト・ベイビー」の作曲者はむつひろしとクレジットされているが、それがポリドール洋楽課に勤務していたディレクターの松村孝司が使っていたペンネームのひとつだ。 松村は日語のオリジナルR&Bのレコードを制作したいと思って、米軍キャンプを回ってキャリア

    日本のオリジナルR&B「グットナイト・ベイビー」と、ド演歌の二重唱「昭和枯れすすき」を作曲してヒットさせたむつひろしとは?
    kamezo
    kamezo 2024/08/31
  • 安井かずみや平尾昌晃というソングライターを通じて歌謡曲にも影響を与えていたエルヴィス・プレスリー

    エルヴィス・プレスリーがアメリカだけでなく、世界的に人気歌手の地位を確立したのは1956年のこと。ヨーロッパや日でも大ヒットした「ハート・ブレイク・ホテル」からだ。 アメリカではエルヴィスにとって初のビルボード・チャート1位になり、売り上げも200万枚を突破して初のゴールドレコードをもたらした。 ロックンロールと呼ばれる音楽自体はそれ以前にも存在していたが、エルヴィスという異端の歌手が登場したことによって、カッコよくて新しいものだという認識が、世界中の若者たちに広がっていったのである。 15歳の少年だったジョン・レノンは初めて「ハート・ブレイク・ホテル」を聴いて、「あれ以降、僕の世界は変わってしまった。 エルヴィスは僕の人生を変えてしまったんだ」と、後に何度もその衝撃を話している。 しかし、若者文化としてのロックンロールが確立されていなかった日では、エルヴィスのほんとうの良さは一般にま

    安井かずみや平尾昌晃というソングライターを通じて歌謡曲にも影響を与えていたエルヴィス・プレスリー
    kamezo
    kamezo 2024/08/18
    「G.I.ブルース」ってこんな歌詞だったのか。自由の女神がよりによって更年期障害。原曲https://youtu.be/JosUZjWUAkQ?si=I8I9eJQkr-Y-zBOc リズムがだいぶ違わねえか。対訳https://youtu.be/tADbEol3mHQ?si=pojjPcURLPxOQ5OX 全然違う。西独占領軍だ。
  • オー・シャンゼリゼ〜ロンドンで誕生したメロディーが辿った運命、そもそもフレンチポップでもシャンソンでもなかった!?

    誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、このポップなメロディー。 「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」は、パリのシャンゼリゼ通りをモチーフとした歌曲として広く知られている。 1969年にニューヨーク生まれ人気歌手ジョー・ダッサンが大ヒットさせて世の中に定着した。 日では、1971年に“歌うフランス人形”として売り出されたモロッコ生まれのフランス人歌手ダニエル・ビダルが唄ったバージョンが大ヒットを記録する。 この歌の日語訳では安井かずみのものが有名だが、当時シャンソン歌手として人気絶頂だった越路吹雪が歌った岩谷時子の訳詞もまた秀逸である。 この歌の誕生のきっかけを紐解いてゆくと…なんと!?そもそも歌詞の舞台はパリでもなければ、フランスで産まれた曲でもないというのだ。 一体この歌はどんな風にして誕生し、どんな運命を辿ってきたのだろう? ──それは1968年の出

    オー・シャンゼリゼ〜ロンドンで誕生したメロディーが辿った運命、そもそもフレンチポップでもシャンソンでもなかった!?
    kamezo
    kamezo 2024/07/27
    不思議な経緯だこと。いい曲だと思ったらどんどんカバーすべしということか。しかしダニエル・ビダルってモロッコ出身なんだ。この曲の訳詞は安井かずみの方が好きだな。
  • ジェフ・ベック少年時代〜ジーン・ヴィンセントの「Be Bop A Lula」から受けたロックンロールの洗礼

    Home TAP the NEWS ジェフ・ベック少年時代〜ジーン・ヴィンセントの「Be Bop A Lula」から受けたロックンロールの洗礼 - TAP the POP 1944年6月24日、彼はイングランド中西部の都市ウォリントンで産声をあげる。 いわゆる中流家庭に生まれた彼だったが、当時はまだイギリスも戦時中だったため、彼はべ物など配給制度の下で幼少期を過ごしたという。 「フィッシュ&チップスが定番だったよ。ビスケットやチョコレートなどの甘いお菓子はあまりべたことがなかった。戦争の爪痕は街のあちこちにあった。道路に残る穴、原っぱに散乱した鋭利な鉄クズ、今にも壊れそうな建物など。」 当時一家が暮らしていた家は、中流家庭では一般的とされていたセミダッチハウスという二軒が連なった二階建ての長屋だった。 けっして広い敷地ではなかったが、しっかりと駐車場のスペースも確保されており、1940

    ジェフ・ベック少年時代〜ジーン・ヴィンセントの「Be Bop A Lula」から受けたロックンロールの洗礼
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    kamezo 2024/07/18
    この世代の英国ミュージシャン、スキッフル好きが多いな/叔父さんが彼のルーツなんだな。しかし〈オープントップの1497年MG(TC)〉って15世紀かよ……1947年製なら新車かもしれんのに……。
  • 追悼・相倉久人 大瀧詠一とのナイアガラ対談で発表された「分母分子論」

    1983年の11月から12月にかけて雑誌『FMファン』での対談で、大瀧詠一の「分母分子論」は発表された。 それはジャズ評論家の相倉久人を先生として、生徒の大瀧が明治以来の輸入文化として発展した日音楽史を、独自の理論で語りながら展開していく歴史的な会話だった。 1984年にはシンプジャーナルの別冊として出版された『ゴーゴーナイアガラ』に収録されて、その面白さは熱心な大瀧詠一のファン以外にまで伝わった。 21世紀に入ってからも2005年刊行の『文藝別冊 大瀧詠一』と、2012年の『KAWADE夢ムック 文藝別冊 増補新版 大瀧詠一』にも再掲載されて、日のポピュラー音楽歴史について書かれた最も信用のおける論考として現在に至っている。 「分母分子論」の面白さは、とにかく具体的でわかりやすいところにある。 明治以来の日音楽はすべて洋楽(世界史)からの輸入だから、分母は「世界史」としてあり

    追悼・相倉久人 大瀧詠一とのナイアガラ対談で発表された「分母分子論」
    kamezo
    kamezo 2024/07/08
    記事中で言及されている「普動説」を書き起こしたブログがあった。前半https://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11181655460.html 後半https://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11182324898.html
  • 武道館公演を観て「ビートルズは自分がやらなければいけない」と決意し、解散後に実行した石坂敬一

    武道館で1966年6月30日から7月2日まで合計5回行われたビートルズのコンサートは、会場に観に来た人たちの人生にもまた大きな影響を及ぼした。 7月1日に大学の授業を休んで観に行った石坂敬一は、ライブが終わった後で将来はビートルズの仕事をするということを決めたという。 遺作となった語り下ろしの自伝「わがロック革命 それはビートルズから始まった」(2017年)で、石坂はコンサートが終わった日の気持ちをこんなふうに書き残していた。 その日の夜、日テレビで放送された『ビートルズ日公演』の特番を見た。楽しみにしていたにもかかわらず、家のテレビは14インチか16インチで、しかも白黒だったので全然迫力がなく、少しがっかりした。会場であれだけ大きな音で鳴り響いていたポールのベースの音が、テレビではほとんど聞こえなかった。ただ、ビートルズを乗せた車が交通規制された首都高をパトカーの先導で走り抜ける

    武道館公演を観て「ビートルズは自分がやらなければいけない」と決意し、解散後に実行した石坂敬一
    kamezo
    kamezo 2024/06/30
    赤盤・青盤は発売当初から人気だったが、いわゆる入門編と思っていて、そこまで影響力があったとは思わなかったなあ。そしてライブでのカバー曲は内外ともによくあったので、そこに着眼したというのもけっこう意外。
  • 15、6歳の子供なのにギター教則本でクラプトン役になって先生をやっていたChar

    Home Extra便 15、6歳の子供なのにギター教則でクラプトン役になって先生をやっていたChar - TAP the POP 仲井戸麗市(チャボ)の質問に答えて、Charが15、6歳の頃の話をしながら音楽人生のはじまりについて語ったBS11のテレビ番組『オン・ザ・ロック!』が、「ON THE ROCK 仲井戸麗市”ロック”対談集」として書籍化された。 そのなかで音楽業界の一部では知られていたギタリスト伝説、ソロ・デビューする前のCharと、あるギタリストにまつわるエピソードが活字になっている。 ホスト役をつとめる仲井戸が「ある日、上手なプロのお兄さんがいたんだよ。まぁ、俺も知ってる人だけど(笑)」と切り出し、その先をうながすと、Charがまだ少年だった頃に、プロのバンドのライブが終わった後でギタリストに向かって「お兄ちゃん、僕のほうがうまいよ」と言ったという話が始まった。 5歳年上

    15、6歳の子供なのにギター教則本でクラプトン役になって先生をやっていたChar
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    kamezo 2024/06/16
    あらっ。山崎ハコ、当時よく聴いてたけどエアチェック音源だったからレコーディング・メンバーは全然知らなかった。などと言いながらサブスクで聴き返せるの、いい時代だなあ。そうかこのギター、charだったんか。
  • リオデジャネイロを舞台にした神話絵巻 「黒いオルフェ」

    実は「古事記」の中にもあったのである。「古事記」は、日で最初に完成した文学作品といわれ、その時代を生きた人々が使っていた日語で書かれていて、原典は解読することができない。それが池澤夏樹さんの個人編集、「日文学全集」の第一巻として編まれることによって、誰にでも読めるようになった。 どこか読みすごしていた物語をたどるうち、ふと手がとまったのは、イザナキとイザナミのエピソード。 「古事記」の前半、イザナキは、に会おうと死者の国である黄泉国(よみの国)まで追いかけてゆくのだが、「私を見ないで」というとの約束を破ってしまう。 このプロットにはどこか覚えがある。 それがなにゆえあって、はるか遠い東洋の島国である日に・・と思ううち、記憶はたちまちワープして、昔に観た一映画へ。 見るな、ふりむくな。そう禁じられても破ってしまう普遍のタブー。 これはそっくり、映画「黒いオルフェ」(1959年

    リオデジャネイロを舞台にした神話絵巻 「黒いオルフェ」
    kamezo
    kamezo 2024/06/14
    いいお題なのに冒頭で台無し。江戸時代には注釈本があった古事記を池澤夏樹まで読めなかった? 古事記やギリシア神話よりも先に映画『黒いオルフェ』を知ったと言いたい? 現代語で通読できなかったというだけ?
  • Before The Rain〜雨音も爽やかに聴こえるハーモニカの調べ

    デンマークのコペンハーゲン出身のハーモニカの名手リー・オスカーが1978年に発表した名曲である。 1969年、彼はアニマルズ解散直後のエリック・バートンとの出会い新バンド“War(ウォー)”を結成する。 ジャズ、ロック、ファンク、レゲエ、リズム&ブルースを融合したクロスオーバーなバンドとして、長く音楽ファンから愛され続ける存在となった。 バンド活動と平行してソロプレイヤー・作曲家としても才能を発揮する。 TVのCMや番組のBGM、そして映画のサントラ用にリー・オスカーの楽曲が起用されることが多く、日では1977年に資生堂の人気CM(うれしくて、バラ色)で「The Promised Land (約束の地)」が使われて一躍注目を浴びた。 40代から50代の人には、聴き憶えのある懐かしいメロディなのかもしれない。 「The Promised Land (約束の地)」/リー・オスカー 資生堂 C

    Before The Rain〜雨音も爽やかに聴こえるハーモニカの調べ
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    kamezo 2024/06/02
    そういやあ「Promised Land」のアルバムは持ってるけど、ほかのアルバムはちゃんと聴いたことなかったかも。でもライブ盤(日本録音。PIT INNだったかな)はそんなにピンと来なかったのよな。サブスクで試すか。
  • 目の前で愛する人が殺された時、人は…

    ブリキの兵隊とニクソンがやってくる ついに僕らだけになってしまった ドラムの響きを聞いて過ごした夏 オハイオでは4人の死者が出た 1970年5月4日。オハイオ州ケント州立大学で、州兵が学生集会に集まった若者たちに発砲し、4人が死亡するという事件が起きた。 この事件を知ったニール・ヤングは、その場で「オハイオ」を書き上げる。曲は5月21日にレコーディングされ、翌月リリースされた。 ケント州立大学は何人かのミュージシャンを輩出しているが、事件当時、学生集会に参加していたのが、ジェリー・キャセールである。ジェリーはその日のことを次のように語っている。 私は(ケント大学の)学生でした。そして私はSDSのメンバーでした。民主(D)社会(S)を求める学生(S)たちという反戦グループです。リンドン・ジョンソンとニクソンが蹄鉄を打ちつけようとしていた民主主義を、元ある姿に復元しようとしたのです。 ジェリー

    目の前で愛する人が殺された時、人は…
    kamezo
    kamezo 2024/05/13
    好きな曲だけど、そんな内容だったとは/このブログ記事https://note.com/bgmtokyo/n/n63be19ca3a0d もなかなか読み応えがある。
  • 母の歌〜その後のポピュラー音楽に多大な影響を与えた名曲の誕生秘話〜

    『マザー』をつくるにあたっては いくつかアイディアがあったのですが できあがったものを聞いてみると ピアノがすべてをやってくれていて あとは自分のマインドにまかせました。 〜中略〜 ピアノでひとつの音をだすと そこにすべてのハーモニックがあるということは 誰でも知っています。 どんなミュージシャンでも教えてくれます。 私は、こういうところまできてしまったのです。 このようなシンプルさ以外には、 何も必要ではありません。 【ジョン・レノン(ビートルズ革命/片岡義男訳 1972年 草思社刊 )より】 「Mother」は、1970年にジョン・レノンが発表した曲だ。 ビートルズ解散後初のソロアルバムとなった『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』のオープニングナンバーとして収録され、ビートルズファンに、いや世界に衝撃を与えた一曲である。 発表当初は「狂気じみている

    母の歌〜その後のポピュラー音楽に多大な影響を与えた名曲の誕生秘話〜
    kamezo
    kamezo 2024/05/12
    ジュリアを跳ねた(轢いた?)のは非番の警官だったのね。https://ja.wikipedia.org/?curid=4337430
  • マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、薬物・アルコール依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって

    「That of all the girlfriend’s he’s (Jagger) ever had,He loved her(Marianne) the most(ミックはこれまでのすべての恋人の中で、マリアンヌのことを一番愛していたわ)」 これはミック・ジャガーの2番目のジェリー・ホールが語った言葉だ。 父は薔薇を約束してくれた そして母は嵐を 父は頭を使うことを教えてくれた そして母は喋ることを 彼がそっと頭を撫でてくれると 私は生まれるような気分なの… ──マリアンヌ・フェイスフル。 彼女は1968年に公開された映画『あの胸にもう一度』で、裸に黒革の衣装をまとってアラン・ドロンと共演し、日の人気漫画『ルパン三世』に登場する峰不二子のモデルとなったと言われている女性だ。 1964年のデビュー当初、そのロリータ的な美貌と透き通るような歌声で一躍英国を代表するカルチャーアイコンと

    マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、薬物・アルコール依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって
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    kamezo 2024/05/11
  • 最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」

    おさみが泉谷しげるに書いた「黒いカバン」の歌詞に、”ぼくは人間ですよ”というフレーズが出てくる。 そこには「いち庶民」の目線でうたのことばを書くという、岡の詩人としての姿勢が反映されていた。 髪を長く伸ばしているというだけの理由で警察官から職務質問を受けることが、1970年代の初頭までは日常茶飯事のこととしてあった。 1960年代後半に吹き荒れた激しい学生運動の名残りがあったために、この歌詞のなかで描かれたようなことは誰にも起こり得たのだ。 そんな体験がそのまま歌になったのが「黒いカバン」である。 泉谷しげるは「俺も3、4回経験があるからね」と岡との対談で語っていた。 岡 ぼくは泉谷の作品では「ねどこのセレナーデ」が一番好きだ。黒いカバンの詩は書き方は軽いけど、中身ははっきり書いたつもりなんだけどね。 泉谷 あれはおもしろいというんで受けてるところはあるよ。ああいう状態はよく起こ

    最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」
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    kamezo 2024/05/11
    この時代はどストレートに「不審尋問」と言ってましたね。泉谷は3、4回なのか。俺よりよほど少ないなあ、チキショー。今は口調だけは丁寧になりました。
  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    この時期の音源がニコニコにあった。清志郎はいない。新宿のデパートの屋上でのオールナイトライブ。陽水とモップスでビートルズもカバーしてた。ハバロフスク・マフィアの映像をYouTubeで発見した時はたまげたっけな
  • 井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」

    井上陽水の「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面としてであった。 そしてアナログ・レコードの時代の日において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことによって、多くの音楽ファンに親しまれることにもなった。 ソングライターは24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎、ふたりの才能が正面からぶつかりあったことによって、それまでにない新しい音楽が誕生したといえる。 ニューミュージックの時代が到来していたなかにあって、「帰れない二人」は最先端の傑作と呼ぶにふさわしい楽曲になった。 その頃に井上陽水が住んでいたのは東京都三鷹市のアパートで、電話で「一緒に曲を作らないか」と誘われた忌野清志郎は、ギターを持って出かけていった。 そして井上陽水の部屋でお互いにギターを手にして向き合った2人は、わずか2時間ほどで「帰れない二人」をワン・

    井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    2人が顔を突き合わせて作ったのは知っていたが、元になった曲があるとは知らなかった。昔から「帰れない二人」の方が好きだった。アルバムの「あかずの踏切り」「はじまり」「帰れない二人」という流れが好き。
  • KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

    高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。 そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。 ところがが1978年1月18日、カルメン・マキ&OZのギタリストだった春日博文が「屋根裏」のライブに前触れもなく、アンコールで乱入してきたことをきっかけに一気にメンツが揃っていく。 春日のステージングに目を見張った忌野清志郎は、終演後にバンドへの参加を要請している。そして「ドラマーを変更すること」を条件に春日はギタリストとしてに参加し、忌野清志郎にはギターを弾かないでヴォーカルに専念することを提案し

    KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断
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    kamezo 2024/05/03
    KISSの影響とは驚いた。デビュー前からオーティスなどのR&Bやソウルが大好きだったのに機材が買えずにフォークを始めたが回帰したという話は俗説だったのか? 屋根裏とヤングミュージックショーが繋がってたのも驚き。
  • 日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」

    冬季オリンピックが開かれているソチは、美しい砂浜が広がる海岸で海水浴が楽しめることから、ロシアでは貴重なリゾート都市として発展した。 夏のバカンスで賑わう海辺の街は、地中海に面したフランスのリヴィエラ地方とも雰囲気が似ていると言われる。 そんなビーチリゾートを舞台にしたような曲が、「Каникулы любви(恋のバカンス)」だ。 1965年に人気歌手ニーナ・パンテレーエワが歌ったこの曲は、テーマソングとして使われた映画が大ヒットしたこともあって、ロシアでは知らない人がないほど有名になったという。 多くのロシア人が自国で作られた楽曲だと思っているらしいが、オリジナルは1963年にザ・ピーナッツが歌った「恋のバカンス(VACANCE DE L’MOUR)」だ。 当時の日人の感覚からすればかなり大胆な内容の歌詞で、フランス語のサブ・タイトルが付けられていたこともあり、外国曲のカバーだと思っ

    日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」
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    kamezo 2024/04/13
    ロシア語で合唱されるとロシア民謡に聞こえる不思議。途中から日本語で2度びっくり。しかし当時の状況で日本に印税とか入ってきたのだろうか。
  • ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁

    ライ・クーダーが奏でた音楽の風景 そのギター弾きは、ずっと風景の中に生きてきた。 デビュー以来、彼は一貫して商業主義に惑わされることのない不屈の音楽を録音し、人々の前で演奏してきた。「僕の人生は常に探求の連続だった」と言うように、葬られそうだった偉大な物の音楽を追い求め、やレコードでしか知ることのできなかった幻のミュージシャンを訪ねて直接学び取った。 美しい音楽、古い音楽、珍しい音楽を追い求める旅。それが自らの音楽に吸収されて表現できるようになった瞬間に、“ライ・クーダー・ミュージック”は完成する。そう、あの赤いグレッチや茶色のストラトキャスターを滑るスライドギターやフィンガーピッキングと共に聴こえてくる唯一無比の音楽音楽を旅する──この言葉がこれほど似合う男は他にいない。南部の田舎町や港町、国境沿い、太平洋の島、南米や沖縄まで、その旅は世界中を駆け巡ってきた。中でもハワイのギャビ

    ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁
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    kamezo 2024/03/15
  • 浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」

    1975年の日音楽シーンでは、ユーミンこと松任谷(荒井)由実がシングルの「ルージュの伝言」を2月20日に発表した。 それを契機にマスコミで次第に「ニューミュージック」という言葉が使われるようになり、それにともなって新しい潮流が生まれていく。 その結果、60年代後半からの「アングラ・フォーク」や「日語のフォーク・ソング」、「日のロック」、「シティ・ミュージック」などが、ニューミュージックの名のもとに統合されて、芸能界の色が濃いそれまでの歌謡曲に飽き足らなくなった若者たちの支持を広く集めていった。 フォーク・デュオのバンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」は、学園紛争を描いたアメリカ映画『いちご白書』をテーマにして激動の時代を回想した作品だが、ユーミンの作詞作曲で大ヒットした。 1960年代の反戦運動ともつながっていた「若者の反乱」は、1975年4月30日にベトナム戦争が終結したこ

    浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」
    kamezo
    kamezo 2024/01/06
    この頃、何でもかんでもニューミュージックというくくりにされていたことが、ここにも書かれている/当時、大瀧詠一も同様の認識だった。https://youtu.be/jvubTJgusfU?si=X3p7C13KGeaGnCe5 13分頃
  • JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声

    ジェームス・ブラウンが初めてアポロ・シアターにショーを観に行ったのは1956年、ツアーでニューヨークを訪れたときのことだ。 俺たちのなかの誰もそれ以前に<アポロ>の中に入ったことはなかったが、ここに足を踏み入れることが何を意味するかは知っていた。 黒人ショー・ビジネスの歴史におけるすべての最高のショーがここで演じられ、そしてここの観客は世界で最も厳しかった。(『ジェームス・ブラウン自叙伝 俺がJBだ!』より) いつか自分もそのステージに上がることを胸に誓ったJBはそれから3年後、はじめてアポロ・シアターに出演する。 他にもいくつかのミュージシャンが出演する中でJBの出番はトップバッターだったが、“世界で最も厳しい”観客の心をあっという間に掴み、翌1960年にはヘッドライナーを飾るまでになった。 JBのショーは単に演奏して歌うだけではなく、様々な踊りやパフォーマンス、演出があり、それに観客が

    JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声
    kamezo
    kamezo 2023/12/25
    おもしろいエピソードだけど、62年で「ライブ・アルバムなんか売れるはずがない」というのはポップミュージック界での「常識」かな。あるいはブラックミュージック界か。そうでもないのかな。