2007年6月8日 はじめに 歌人の塚本邦雄氏が義兄に手紙を書くとき、いつも恍惚感を味わったという話が、「読売新聞」のコラム「編集手帳」(二〇〇四・七・二〇) にみえる。義兄の住所「京都市伏見区深草極楽町」ゆえである。塚本氏は地名の喚起力に鋭敏な人で、つぎの歌も作っている。 古志(こし)、海潮(うしほ)、朝酌(あさくみ)、千酌(ちくみ)、母里(もり)、恵曇(ゑとも)、 美談(みだみ)、楯縫(たてぬひ)、秋鹿(あいか)、飯梨(いひなし) 『出雲国風土記』から選んだ十の地名を一首の短歌に仕立てたもので、「日本歴史地名大系」刊行に寄せた推薦文の中にみえる。新撰和漢朗詠集などを編んで山水の部にでも入れたいほどの美しさだと述べている。 この歌が作られてから四半世紀、本大系の編纂は営々と続けられ、いま五十巻完成の時を迎えようとしている。おりしも、政府の掛け声による市町村の大合併が進み、飴と鞭に踊る拙
2007年3月9日 はじめに 地名は人類が言語を使用するようになってから今日まで、特定の地表面を明示するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきた。特定の地表面の明示は、生産活動や相互交流など、人間が社会的生活を営む上で必要不可欠なものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより多彩なものとなって、地表面の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。その意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の隙間を埋める重要な存在である。 平城京は廃都後まもなく荒廃して田地と化し、宮跡は幕末まで確認されていなかったが、伊勢津藩士北浦定政の調査で京内の条坊と宮跡の位置が復原された。明治時代、この業績を継承し進展させたのが建築史家の関野貞で、関野は宮
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