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ブックマーク / jjtaro-maru.hatenadiary.org (9)

  • 橋下徹氏とB層 - かつて日本は美しかった

    橋下氏はB層のコントロールがうまいのか。 適菜収(てきなおさむ)氏の「B層の研究」はなかなか面白く、日維新の会の党首である橋下徹大阪市長についてもズバリ切り込んでいます。少し引用します。 「こうした民主的腐敗の行き着いた先が『一からリセットして日を作り直す』といったファミコン世代の橋下徹だと思います。 橋下は文明社会の敵です。 その根底には国家解体のイデオロギーがあります。 労組と対決姿勢を示したり、保守層向けのリップサービスを怠らないので勘違いされていますが、橋下の質はアナーキストであり、メンタリティーとしては古いタイプの左翼です」 氏の論からすると日教組と対決姿勢を示したり、朝日新聞とバトルするのも保守層向けのリップサービスということになります。国旗掲揚、国歌斉唱時の起立や、市職員の「刺青」(これは同和との対決)などもそういうことなのでしょう。 橋下語録 2010年1月、公明党の

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  • 外国人が見た横浜の慶応の大火 - かつて日本は美しかった

    開港間もない横浜で大火事があった。 幕末期の慶応二年十月二十日(1866年11月26日)、横浜で大火がありました。関内の日人居留区の1/3、外国人居留区の1/4が焼失しました。豚肉料理屋鉄五郎から出火したため「豚屋火事」とも言われています。火事は遊郭に燃え移り、風にあおられ、日人居留区から外国人居留区に広がりました。このときの様子をイギリスの外交官アーネスト・サトウが記録しています。 「いつも相当の人出で混雑している狭い往来は、今や群衆で全く身動きも出来ないありさま。興奮しきった人々は、身近に迫った猛火の中からやっと持ち出した家財道具をかつぎながら、狭い通りの下手の端からなだれをうって押し寄せてきた。私は、燃えている家のそばへできるだけ近づこうとしたが、火脚の速いのにびっくりして、いそいで退却した」 大混乱だったことがわかります。現在の横浜公園あたりになります。ここに遊郭があり、沼地で

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  • 明号作戦後のベトナム - かつて日本は美しかった

    明号作戦後、日軍はいなくなった。ベトナムはどうしたか。 昭和20年(1945年)3月9日、日軍はベトナムで明号作戦を発動。フランス軍を蹴散らし、ベトナムを植民地から解放しました。 ベトナム解放後のある日、陸軍宣伝部隊の佐野裕二さんはベトナム人新聞記者と雑談をしていました。ベトナム人記者の一人がこう述べました。 「ベトナムが独立したといっても、外交権はなし、軍隊もない、では独立国家とはいえないじゃないか」 ベトナム人は日軍の仏印進駐により日がベトナム独立にすぐ手を貸すだろうと考えていましたが、5年もかかり、まだ物足りない様子だったといいます。しかし、血を流したのは日軍なわけですから、佐野さんは内心憤りを感じました。 この頃、ベトナム北部では飢餓が起きていました。その被害は中部にも広がっており、佐野さんが50年過ぎても忘れられないのは多くの農村が無人地帯になっていたことだと述べていま

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  • 南極での喜びと悲しみ 〜 白瀬中尉の南極探検 - かつて日本は美しかった

    白瀬中尉の南極探検でも犬を置いていかざるを得なかった。 明治45年(1912年)1月21日、白瀬中尉率いる日初の南極探検隊7名が南極に正式上陸し、鯨湾に根拠地の小屋を作りました。白瀬隊長ら5名(白瀬、武田、三井所、花守、山辺)は突進隊を編成し、南極点へ向かいます。残り2名(村松、吉野)は氷提上根拠地観測を行いました。 突進隊は1月28日、南緯80度5分に到達。糧を考えるとここが限界で引き返すことになります。引き返すのも大変なことです。同じ時期に南極探検にやってきていたイギリスのスコット隊は南極点に到達しながら、帰路で全滅しています。 突進隊の犬ぞりは帰路快調に進み30日に氷堤を発見。鯨湾に近いと判断します。そのうち濃霧が襲ってきてむやみに動けなくなりました。31日、濃霧が晴れ、遂に根拠地の小屋を発見します。 根拠地の天幕にいた村松隊員は人間の足音に気がつき、外を見ると、そこにやってきた

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  • 今年もやっていた広島の言論弾圧 - かつて日本は美しかった

    今年も言論弾圧がありました。広島の恥です。 昨年、8月6日、広島で元航空自衛隊の田母神 俊雄(たもがみ としお)氏が「ヒロシマの平和を疑う」という講演を行いましたが、「(財)広島市ひと・まちネットワーク」が講演会チラシ広報協力拒否したという事件が起こりました。今年は市長が変わったせいか、どうやら広報協力してくれたようですが、沖宗広島市議が噛み付いたようです。 平和と安全を求める被爆者たちの会より http://www.realpas.com/ (7月25日時点掲載) 沖宗広島市議への要請文 6月27日の広島市議会一般質問で沖宗正明議員(市政改革クラブ 安芸区)が「公民館にあってはならないものを見つけた。三たび広島の平和を疑うという講演会のチラシです」 「核武装論者の講演会チラシをわが広島の公民館におくとは何事か!」「いつ誰がいかなる理由で許可したのか」「前(秋葉)市長のときには絶対にありえ

    今年もやっていた広島の言論弾圧 - かつて日本は美しかった
    kanototori
    kanototori 2011/07/26
    なるほど
  • 日本軍がやってきた 〜 コロンボ空襲 - かつて日本は美しかった

    我々は行くぞ! 明治37年から明治38年の日露戦争で日が大国ロシアを打ち破りました。このとき、スリランカの仏教界の重鎮であるアナガーリカ・ダルマパーラは「こんなすばらしいことはない。皆さんは気づいていないかもしれないが、皆さん日人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と述べています。イギリスの植民地支配下にあったスリランカの人々は熱狂したといいます。ダルマパーラは生涯にわたり4回来日し、「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日の役目なのだ」と語っています。 昭和14年(1939年)頃、スリランカに日から輸入した下着のシャツの背中に小さなラベルがついていて、シンハラ語で「我々は行くぞ」と書いていました。イギリス人はその意味を知らずに輸入していました。 スリランカ軍海軍少佐だったソマシリ・テベンドラ氏は兄が残してくれた「

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  • 珍しく辺野古の民意 - かつて日本は美しかった

    メア氏発言のニュースを見ていると琉球新報が珍しく辺野古の民意を取り上げていました。 〈メア氏発言〉辺野古も批判 琉球新報 3月7日(月)10時0分配信 【名護】米国務省のメア日部長の発言に対し、普天間飛行場の名護市移設に反対しているヘリ基地反対協議会の大西照雄代表委員は「メア氏は総領事のころから沖縄を軽視した発言をしていた。今回のような発言をすることで菅政権を米国従属に導いて、仲井真知事に県内移設を容認させるため揺さぶりを掛けているのだろう」と説明した。 条件付きで移設を容認してきた辺野古有志会代替施設安全協議会の許田正武共同代表は「米国は普天間飛行場を危険ではないと思っているかもしれないが、県民や日政府はそのように思っていない。危険な基地は早めに撤去し、移設を進めるべきだ。事故が起きてからでは遅い」と強調した。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20

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  • 本木雅弘が語る「義勇」 - かつて日本は美しかった

    教育勅語は戦後言われるほどおかしいか? 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(教育勅語より) NHK「坂の上の雲」で秋山真之(あきやま さねゆき)役を演じている木雅弘氏が「歴史通」紙上「明治は”義勇”に満ち満ちていた」とインタビュー形式で答えています。木氏は16年前に明治神宮で結婚式を挙げ、そのときの「大御心」という明治神宮発行の書籍をちゃんと持っていました。 「この大御心には『義勇』について『正しい勇気をもってお国の為に真心を尽くしましょう』と書いてあります。すごく上手に言っていますね、曖昧さを含めて。何が正しい勇気か、現代では定義しづらいとおもいます。 自我を通せる時代になって、何が正しくない欲望で何が正当に欲していいものかという差が見えにくくなっています。明治の時代には古い教えも残り、感覚的にそのニュアンス − 要するに八百万(やおよろず)の神に守られ、自分は

    本木雅弘が語る「義勇」 - かつて日本は美しかった
    kanototori
    kanototori 2011/01/01
    新明解国語辞典ですな
  • ラバウル大要塞 - かつて日本は美しかった

    ラバウルは生き残った。 ラバウルといえば大東亜戦争で多くの撃墜王をエースパイロットが浮かぶでしょう。そして難攻不落の大要塞でした。このラバウル大要塞は終戦まで健在でした。米軍はマリアナ、フィリピンと進みましたから、補給路は分断されていますが、約7万の将兵と軍属は飢餓になることもなく無事だったのです。 昭和18年3月以来、連合軍のラバウル上陸作戦は必至とみて、地下要塞を建設していましたが、10月になると敵の空襲が激しくなり、今村軍司令官の防空壕が直撃弾で潰されるという事件があり(今村司令官は無事)、軍全体の陣地編成の構想が抜的に改変され、陣地、事務所、会議室、堂、居住空間を上層20メートルぐらいの洞窟の中に設け、全部がトンネル式で連絡する地下市街といえるようなものを設計し、5ヶ月で完成させました。これでどんな大編隊の爆撃があっても、びくともしなくなりました。 糧はどうしたか、というと農

    ラバウル大要塞 - かつて日本は美しかった
    kanototori
    kanototori 2010/11/28
    スーパー均くん
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