96年7月28の日刊スポーツ「トークスペシャル」より 「この間のフジテレビの30時間テレビをやった時、 これで金をもらっていいのだろうかとつくづく思ったよ。 テレビ文化のガンは俺だなと思った。今のタレントは、 ただ座って人のやってることを適当に面白くアドリブでしゃべるだけで、 芸なんかないでしょ。 『おまえが作ったんだって』言われそうだけど、 あの手軽さを後から出てくるヤツが、みんなマネしてしまったんだな」 とは、テレビタレント、ビートたけしの言葉だ。 * 今年(1996年)の2月、 浅草の「ロックンロック」へ初めて足を運んだ。 浅草演芸ホールの隣に平成6年新装したこのレストランシアターは、 食事とショーを楽しめる劇場でありながら、 演目はダンスをはさんだコントという、 昔ながらの軽演劇(もはや死語か?)を あの欽ちゃん(萩本欽一)の総合演出で上演している。 僕がここへ足を向けた、お目当て
玉袋 俺らの場合、貧乏といえば、たけしさんの元に入門して一年目、 浅草フランス座で修行した、あの時代につきるよな。 もうかれこれ十三年前だから、世間はバブルの絶頂期だった。 博士 フランス座といえば、たけしさんやコント55号を輩出した、 いわば芸人の登竜門のようなところだからと ロマンを抱いて行ったんだ。 玉袋 ほとんどタダ働きだったのは誤算だったけど。 博士 たけしさんのいた時代は二十年も前で、その時の日給が千円。 それで僕らの時も千円。二十年前と同じじゃねえか。 しかもなおひどいことに実は陰で給料が出てた。 玉袋 俺は照明係で、博士はエレベーター係で、 それぞれ毎月十二万円くらい、ちゃんと親会社から フランス座の社長あてに支払われてた。 俺、自分の名前の入った明細表みちゃったんだもの。 ショックうけたよ。 博士 その頃、僕らと同じような芸人は十二、三人いたから。 玉袋 全員、社長に搾取
ビートたけしの軌跡に憧れて 博士 浅草フランス座での修業は、 当時、たけし軍団の恒例ではあったんだよな。 かの昔、劇場主の岡山社長がたけしさんと昔コンビを組んでいたこともあって、 そのまんま東さんとか松尾伴内さんとか、 とにかく、ずっと、たけし軍団が送り込まれてきた。 僕らが軍団に入った時期、ちょうど劇場で人手が足りないんで 「二人欲しい」と言われてた。 玉袋 俺達の軍団の同期が5人、 殿から「行きたいヤツいるか」って聞かれて、 俺と博士だけだと思っていたら全員が手を上げた。 フランス座が何たるかを知らないヤツもみんな。 博士 当時たけしさんの人気は絶頂。 おかげで、たけし軍団まで雑誌のカラーグラビアまで飾ってた。 だから、俺たちは 「このままたけし軍団の下っ端にいてもどうにもならない」と…。 玉袋 軍団だけで、既にキャラクターは十分足りていた、 バカ、チビ、デブ、ハゲ……。 俺らはキャラ
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