(戻る) 身分問題から見た「歌舞伎十八番」 その2:「助六」 1)「勝扇子」裁判 宝永5年(1707)というのは、前年11月に富士山が爆発するという穏やからなぬ世相の年でした。この年、小林新助という京都の絡繰師(「からくりし」、糸でからくり人形を動かす芸人)が江戸に興行にやってきました。その新助が安房の国で旅芝居をすることになりましたが、舞台の準備をしているところへ江戸の弾左衛門の手代、革買い治兵衛という者が現れ、関八州での興行は弾左衛門の許しがなくてはならぬと言って、配下三百人を使って芝居小屋を襲い、芝居がつぶされてしまったのです。新助はすぐさま江戸へ戻り、このことを奉行所に訴えました。 江戸では江戸四座は幕府の許可をもらって興業を行っており櫓銭(興行税)を払う必要はありませんでした。しかしそれ以外の興行、特に旅芝居においては弾左衛門の支配を受けることになっていました。これより
(戻る) 「稲瀬川・百本杭」はなぜ可笑しい 〜「十六夜清心」のもうひとつの読み方 1)「いやになっちゃう(笑)」 三島由紀夫の「鰯売恋曳網」は昭和29年11月の初演。十七代目勘三郎の猿源氏と六代目歌右衛門の傾城の、その舞台は好評でしたが、三島本人としては「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月初演)の方が自信作であったらしくて、座談会で「『鰯売』を褒められたのには、くすぐったくて、ほんとにいやになっちゃったな。」とにが笑いしています。(雑誌「演劇界」での座談会:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)三島は「鰯売」をわざと擬古典的な文体を駆使して脚本を書いていますが、脚本でイメージしている天明歌舞伎のような古風な味わいを、今風に軽いタッチで処理されてしまったことに三島ご本人はどうもご不満であったようです。この座談会でも評論家利倉幸一氏が「今の歌舞伎には大らかさというものがないです
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