<前回の記事はこちら→(1)、(2)> ◆南朝への帰順 北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。 『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。 「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」 書状の内容を