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日本史に関するkash06のブックマーク (228)

  • 蒲生氏郷と茶道 会津の茶道と茶陶の歴史紹介する企画展|NHK 福島県のニュース

    鶴ヶ城を築いた武将 蒲生氏郷の茶道の功績やその歴史を紹介する企画展が会津若松市で開かれています。 蒲生氏郷は安土桃山時代に会津地方を治め、鶴ヶ城を築城するなど、いまの会津の礎を築いた武将として知られる一方、すぐれた茶人としても知られています。 この企画展は会津の茶道を発展させた氏郷の功績などを紹介しようと県立博物館が開き、茶器など20点あまりが展示されています。 このうち、千利休の養子だった千少庵の肖像画は、17世紀ごろ、江戸時代に描かれたとされています。 千少庵は豊臣秀吉に利休が切腹を命じられたあと氏郷を頼って一時、会津に滞在していたとされ、氏郷の尽力で京都に戻って利休の茶の湯を継いだことから、いまに続く茶道と氏郷の関わりがうかがえる貴重な資料となっています。 また、会津郷焼の「灰釉茶碗 銘 会津川」は茶碗の手前側を示す「前押」と呼ばれる指型の模様が特徴です。 学芸員の渡邉歩さんは「茶

    蒲生氏郷と茶道 会津の茶道と茶陶の歴史紹介する企画展|NHK 福島県のニュース
    kash06
    kash06 2024/10/15
    会津(約)百万石のレオン公と茶の湯。
  • 織田信長が敵に降伏促す文書見つかる“政治行動がわかる資料” | NHK

    天下統一を目指し勢力を拡大していた織田信長が京都に入ってまもない時期に、敵対する武将に降伏を促す文書が見つかりました。調査した東京大学史料編纂所の研究者は高圧的な態度で降伏を迫る信長の政治行動がわかる貴重な資料だとしています。 その結果、武力で天下を治めるという意味の「天下布武」という朱印などから1570年に書かれた文書で織田信長が名門・細川家の細川昭元に宛てたものと結論づけました。 当時、信長は天下統一を目指して勢力を拡大するなかで将軍、足利義昭とともに上らくしてまもない時期で今の大阪・摂津で昭元が立てこもる城に攻め込んでいました。 文書では、昭元に対して降伏するよう促し、その場合は播磨などの領地を与えることや、四国については影響力を持っていた昭元を特別に扱うとしています。 昭元がこうした条件をのんだかはわかっていませんが、文書の翌年には、信長に降伏した記録が残っています。 村井准教授は

    織田信長が敵に降伏促す文書見つかる“政治行動がわかる資料” | NHK
    kash06
    kash06 2024/08/14
    書き出しが「条目」から始まってるのかな。なるほど、高圧的な交渉というわけかも。
  • 秀吉が弟 秀長に宛てた書状 “関係性うかがえる貴重な資料” | NHK

    織田信長の後継者争いをめぐって起きた小牧・長久手の戦いの際に、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が、弟の秀長に宛てた書状が東京大学史料編纂所の研究者による調査で確認されました。兄弟の関係性がうかがえる貴重な資料だとしています。 書状は、長野県須坂市にある田中家博物館で見つかり、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が調査にあたりました。 その結果、秀吉の直筆とみられる花押などから、能寺の変のあと、織田信長の後継者争いをめぐって起きた1584年の小牧・長久手の戦いの際に、戦いに参加していた弟の秀長に送った書状と結論づけました。 秀吉の書状では、信長の次男、信雄がおさめていた尾張の黒田や一宮を攻め火を放ったと書いていて、当時、近くにいなかった秀長に対し、秀吉は「きっと煙が見えただろう」と冗談を交えて、敵に与えた損害を伝えています。 また、秀長に対し、敵対する織田軍や徳川軍に備えて、港が近い伊勢の城に行き

    秀吉が弟 秀長に宛てた書状 “関係性うかがえる貴重な資料” | NHK
  • 「異端の学者」「学会では低評価」 戦後の歴史学を一変させた網野善彦とはどんな人物だったのか? | レビュー | Book Bang -ブックバン-

    1980年代以降に『無縁・公界・楽』や『異形の王権』などの著書で「日中世史ブーム」を巻き起こし、「網野史観」を打ち立てたとも言われる歴史学者・網野善彦さん。多くの読者を獲得した一方で、「異端」のイメージを持たれることもあった。 そんな網野さんの没後20年を期に、その謦咳に接し、著作の解説も執筆する明治大学教授の清水克行氏が、イメージに反して「きわめてオーソドックス」であったという網野さんの研究を振り返り、当時のベストセラーであり今なお読み継がれる名著『歴史を考えるヒント』(新潮選書、2001年)から、網野さんの真の姿を紹介する。 清水克行・評「“異端の歴史家”の真実」 一九八〇年代からゼロ年代にかけて日中世史ブームを巻き起こし、「日」論や「日人」論の脱構築を試みた歴史学者、網野善彦さん(一九二八~二〇〇四)が亡くなって、今年で二十年が経つという。このタイミングで、代表作『無縁・公界

    「異端の学者」「学会では低評価」 戦後の歴史学を一変させた網野善彦とはどんな人物だったのか? | レビュー | Book Bang -ブックバン-
    kash06
    kash06 2024/05/25
    まさに『中世荘園の様相』、『中世東寺と東寺領荘園』で荘園公領制の人なのは間違いないと思う。難しいなぁーと言いながら読みつつ、でもアジール云々より東寺百合文書とか職の体系の方が個人的には好きだった。
  • 織田信長はいつから「革命児」扱いになったのか - 明晰夢工房

    www.youtube.com 呉座勇一さんが信長評の変遷について語っている。この動画はかなりよくまとまっていて、動画の後半(1:10~あたり)では信長の「革新性」は当かを検証しているので、信長の実像を知りたい人には参考になりそうだ。今回興味を惹かれたのは前半だったので、動画の内容を追いつつ、時代ごとの信長評について見ていきたい。 江戸時代の知識人のあいだでは、信長の評判はよくなかった。彼らは信長の能力は認めつつも、倫理面で大いに問題があったとしている。小瀬甫庵は「武道のみで文をおろそかにした、家臣に対し酷薄だった」、新井白石は「天性残忍」と信長を評する。さらに白石は、足利義昭を追放した信長を「不忠」と批判する。儒教道徳が浸透し、君臣間の秩序が定まった江戸時代では、主君に逆らったものを評価するわけにはいかない。天皇の権威の高まった幕末には、頼山陽のように信長は「勤王家(=朝廷に献金してい

    織田信長はいつから「革命児」扱いになったのか - 明晰夢工房
  • “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK

    それによりますと、この書状は今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。 道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。 書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について「若造で至らない点もあるがご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。 信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記(しんちょうこうき)」ではこの書状が書かれた時期に道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。 村井准教授は「道三の書状はあまり残っておらず信長に言及していることも珍しい。書状には、道三が信長のことを大事に思い気にかけていることがはっきりと記されていて『信長公記』の記

    “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK
  • 【速報】奈良・平城宮跡で木簡1000点発見  1300年前の聖武天皇即位の儀式「大嘗祭」の記録も|YTV NEWS NNN

    奈良市にある平城京の跡地から、ちょうど1300年前の聖武天皇即位の儀式を記した記録・木簡が発見されました。 奈良市の平城宮跡の穴から見つかったのは、奈良時代に書かれた木簡、約1000点です。奈良文化財研究所が、去年10月から穴の発掘を始め、木簡を発見。土を洗い流していたところ、「大嘗分」と書かれた木簡が複数見つかりました。 「大嘗祭」とは、天皇の皇位継承にまつわる儀式で、いまの天皇陛下ご即位の際も執り行われました。国や民の安寧や農作物が豊かに実るよう祈る儀式ですが「秘儀」として、その全貌は皇室の外には明かされていません。 今回見つかった木簡は、今からちょうど1300年前、724年に聖武天皇が即位した際の「大嘗祭」に関する記録です。木簡には、聖武天皇の「大嘗祭」の為に運ばれた品々、「炭」や「魚」などの文字が確認できました。 今回の発見は、1300年前も今と同じく「大嘗祭」が執り行われていた考

    【速報】奈良・平城宮跡で木簡1000点発見  1300年前の聖武天皇即位の儀式「大嘗祭」の記録も|YTV NEWS NNN
  • 別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース

    別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース
    kash06
    kash06 2024/02/09
    “「別所離反という大失態の後、自分の功績が信長の耳に入りやすくする工作だろう。一人一人に送ったのだろうが、側近らは面倒なので連名で返したのでは」”
  • 工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか - ライブドアニュース

    前橋市総社町の「総社村東03遺跡」の発掘調査で、紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭が見つかった。 藁紐(わらひも)で約100枚ごとにまとめた「緡(さし)」の状態だった。藁の袋に入れられており、中世期の戦乱などで急きょ地中に埋められたと見られるという。 事業者の工場建設を機に発掘調査が行われた。市によると、埋蔵されていた範囲は、縦約60センチ、横1メートルで、約100枚単位の緡が1060見つかった。10緡にまとめた1貫文(約1千枚分)にして納められた痕跡も確認された。稲わらのむしろが残っており、この中に入った状態で埋められたとみている。 遺跡の所在地は、総社町総社大字大屋敷で、字名から、大きな屋敷があった可能性も考えられるという。 埋蔵銭のうち334枚を調査したところ、中国の前漢時代から、南宋時代までの通貨44種類が確

    工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか - ライブドアニュース
    kash06
    kash06 2023/11/03
    “この遺跡のあるエリアは、古墳時代から律令期にかけて上野国の中心地域だったと見られる。” 大字大屋敷というのも含めて、興味深い。銭による経済が、ここまで大きな規模で波及していた。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230807/423996958/

    kash06
    kash06 2023/08/26
    「登城口から約550段の石段を登っていく。思わず踵(きびす)を返しそうになる、見るからにハードな石段だ」 すごい急角度……!! この高低差で戦をしたのか……あらゆる階段・斜面が急で、写真でも伝わる。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230619/423846323/

    kash06
    kash06 2023/07/17
    私が勝手に関東のマチュピチュと読んでいる、太田金山城だ! 関東で一番好きな城かもしれない……。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230515/423776786/

    kash06
    kash06 2023/06/03
    複雑な見た目、道を間違えれば主郭に辿り着けず、当然ながら上から見下ろす敵が自分たちの事を殺そうと狙っている。実に攻撃力の高い、いや、恐ろしい防御空間だ。
  • 「三方ヶ原の戦いは偶発的に起こった」という説 - 明晰夢工房

    徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る (朝日新書) 作者:黒田 基樹 朝日新聞出版 Amazon 三方ヶ原合戦の戦いについて、実態を伝える当時の史料はない。このため従来は『三河物語』の内容に基づき、家康が自領を通過する武田軍を見過ごせず、みずから討って出ると宣言したと考えられてきた。だが黒田基樹氏は『徳川家康の最新研究』において、「当代記」の記述に注目している。この史料における三方ヶ原合戦の描写は以下のようなものだ。 信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、二十二日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方ヶ原に進軍した。そこへ徳川軍の物見勢10騎・20騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけずに武田軍と合戦になってしまった。徳川軍は敗北し、千人余が戦死した。武田軍は浜松近辺を放火したが、城下には攻め込まなかっ

    「三方ヶ原の戦いは偶発的に起こった」という説 - 明晰夢工房
  • https://www.asahi.com/and/article/20230320/423633268/

    kash06
    kash06 2023/04/24
    単独での領国支配のみならず、秀吉による全国支配から唐入りまでを見通した戦略拠点としての位置づけ。城の作りだけでなく、立地そのものも面白い。
  • 謎多い「不破関」半世紀ぶり調査 壬申の乱後に設置、中枢の建造物を今夏発掘 | 岐阜新聞Web

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    謎多い「不破関」半世紀ぶり調査 壬申の乱後に設置、中枢の建造物を今夏発掘 | 岐阜新聞Web
  • 伝「護良親王の首級」公開 鎌倉幕府討伐で活躍、後醍醐天皇の皇子 | 毎日新聞

    年に1度公開される護良親王と伝わる首級=山梨県都留市の石船神社で2023年1月15日午前10時35分、小田切敏雄撮影 山梨県都留市朝日馬場の石船(いしふね)神社で、鎌倉幕府が滅亡した建武新政の立役者である後醍醐天皇の皇子、護良(もりよし)親王(1308~1335年)のものと伝わる市指定有形文化財「石船神社の復顔首級」が公開された。年に1度、神社を運営する「宮世話」の交代に伴い、ご神体としてあがめている首級を確認する神事。15日にあった神社の初祭りで、神職が納めている殿から首級を取り出し、新旧の宮世話や自治会関係者が首級の保存状況などを確認した。 護良親王は仏門に入っていたが、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐のために企てた「元弘の乱」で僧兵を率いて活躍、その間に還俗(げんぞく)して護良と名乗った。建武新政府では征夷大将軍、兵部卿となったが、足利氏と反目して鎌倉に幽閉され、殺害された。

    伝「護良親王の首級」公開 鎌倉幕府討伐で活躍、後醍醐天皇の皇子 | 毎日新聞
  • https://www.asahi.com/and/article/20221226/423428770/

    kash06
    kash06 2023/01/09
    石垣の技術力と、攻撃的な縄張りの構想力
  • 伊賀と甲賀の集大成の忍術書、真田家から驚きの発見 兵法を学んだ?:朝日新聞デジタル

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    伊賀と甲賀の集大成の忍術書、真田家から驚きの発見 兵法を学んだ?:朝日新聞デジタル
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    kash06 2022/12/18
    表立った合戦がない時代だと、ここに行き着くのだろうか。
  • https://www.asahi.com/and/article/20221212/423388579/

  • ローマ教皇と交流 昭和天皇の親書やキリシタンの書簡見つかる | NHK

    ローマ教皇庁があるバチカンと日との交流に関する資料を調査している専門家のグループが都内でシンポジウムを開き、ローマ教皇と昭和天皇が交わした親書が新たに確認されたことなどを報告しました。 国内のキリスト教史の研究者などのグループは、バチカンと日との交流に関する資料の調査や研究を3年前から行っていて、12日、上智大学で、これまでの研究成果を報告しました。 国際政治史が専門の日大学の松佐保教授は、1952年にローマ教皇のピウス12世と昭和天皇が交わした複数の親書がバチカンで新たに確認されたことを発表しました。 このうち、ピウス12世が昭和天皇に宛てた親書では、この年の4月にサンフランシスコ平和条約が発効して日が主権を回復したことなどを祝うことばが記されています。 これに対する昭和天皇の親書には「祝意に対し、わが皇室並びに日国民の深厚な感謝の意を表します」などと記されています。 松

    ローマ教皇と交流 昭和天皇の親書やキリシタンの書簡見つかる | NHK