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ブックマーク / www.hotetu.net (4)

  • 廃線探索 西武大宮線(歩鉄の達人)

    大宮線(おおみやせん)は、埼玉県川越市旧市街にあたる川越久保町駅と大宮市(現:さいたま市大宮区)の大宮駅とを結んでいた鉄道路線である。大宮線を運営していた西武鉄道の前身、川越馬車鉄道(川越電気鉄道)は入間郡川越町内(現川越市)に埼玉県下で初めて電灯を灯した電気事業者でもある。川越馬車鉄道(旧西武大宮線)は、1902年(明治35年)5月9日に第八十五銀行取締役の綾部利右衛門らの発起によって設立され、同日に開業した。設立時における役員構成は、取締役5名のうち社長の綾部をはじめ3名が川越町の商人であり、川越馬車鉄道は川越商人主導で経営されていた。これにつづいて、綾部ら川越馬車鉄道の設立にかかわった川越商人たちは電気供給事業へ進出を目論見、資金125,000円で川越電灯の設立を計画した。ただし、川越電灯の仮定款附則第58条の項目に「社ハ川越馬車鉄道株式会社総会ニ於テ合併ノ決議ニ基キ、成立ノ上同

  • 廃線探索 布引電気鉄道(歩鉄の達人)

    布引電気鉄道(ぬのびきでんきてつどう)は、大正から昭和にかけて長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)の小諸駅から北佐久郡北御牧村(現東御市)の島川原駅までの7.4kmを結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道会社である。「安易な計画が祟って数年で挫折した私鉄」として、雑誌などの記事でもしばしば引き合いに出される鉄道であり、鉄道趣味者における知名度は、現在においても意外に高い。川西地区の開発と布引観音への参詣輸送を目的に設立され、ガスを動力に予定し、最初の名称は布引自働鉄道といった。小諸 - 望月間の免許を得て建設に取り掛かった。使用動力は布引鉄道設立までの間にガスを改め、蒸気を予定していたが、のちに電気に改め、社名も「布引鉄道」から「布引電気鉄道」に変更した。そして第一期区間となる小諸 - 島川原間を1926年12月1日に開業させた。旅客輸送については沿線に人家が少ないことに加え折からの昭和金融恐慌と世界

  • 廃線探索 沖縄県営鉄道嘉手納線(歩鉄の達人)

    沖縄県営鉄道(おきなわけんえいてつどう)とは、戦前に沖縄県が沖縄島内で運営していた鉄道である。鉄道省側の書類には沖縄県営鉄道と記載されていたが、沖縄県側では1917年まで沖縄県軽便鉄道、それ以降は沖縄県鉄道を正式な名称としていた。また、762mmの軌間を採用した軽便鉄道(けいべんてつどう)であったことから、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていた。沖縄県はまず与那原線の工事に着手し、1914年12月に開業した。続いて糸満線の建設に着手するはずだったが、第一次世界大戦後の不況の影響で建設資金の調達がうまくいかず、1916年に建設中止が決定する。1917年7月に所得税法が施行され、所得税から経済援助の名目で国庫補助が行われることが決まると、再び鉄道建設の気運が高まった。糸満線と嘉手納線の建設順位を巡って県議会は紛糾したが、1917年12月に嘉手納線の着工が決定し、1922年3月

    kechack
    kechack 2013/09/11
  • 廃線探索 山梨交通電車線(歩鉄の達人)

    山梨交通電車線(やまなしこうつうでんしゃせん)は、山梨県甲府市の甲府駅前駅から同県南巨摩郡増穂町の甲斐青柳駅までを結んでいた山梨交通の鉄道路線である。地元では親しみを込めて「ボロ電」とも呼ばれていた。甲府駅前-荒川橋間は併用軌道となっていた。1953年以前は市内のルートが一部異なっていたため、路線距離は20.3km、駅数は30駅であった。また路線名は当初の路線計画の名残で、甲府駅前-警察署前間が「市内線」、警察署前-相生町間が「錦町線」、相生町より先が「西部線」と呼ばれていたが、運行系統は1の路線で書類上だけの区別であった。国鉄甲府駅の駅前広場にあった甲府駅前駅から併用軌道で市内中心部を抜けた後、市街地南西端の荒川橋で荒川を越えて専用軌道に入り、そこから峡西地域の平坦部を逆L字形に走り抜けて増穂町の中心部にある甲斐青柳駅に至っていた郊外型路面電車であった。全線20.2kmを所要時間55分

    kechack
    kechack 2013/06/21
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