専修大学時代、八丈島で素もぐり漁をはじめる。大学卒業後は世界各地の漁師の仕事を見ながら、国内外をまわる。シーカヤックに出会い、更なる海の可能性を見出す。『海とともに暮らす人々は、どのように生きているのか』をテーマに、2002年にオーストラリアから日本までの多島海域を舞台に「グレートシーマンプロジェクト」として人力航海の冒険をスタート。世界初となる航海記録を複数持つ。 手漕屋素潜店ちゅらねしあ[1]でガイド、各地で講演、執筆を行っている。 2009年、黒潮の源流域に暮らすフィリピンの人々を調査したいとの依頼を、高知大学山岡耕作教授(当時)より受け[2]、シーカヤックでしかアプローチ出来ないような漁村を3年間かけ、南北1,000kmに渡って調査した。日本人に馴染みのある黒潮は、フィリピンのどのあたりから流れとして感じるようになるのか、またその海域の人々はどのように暮らしているのか。文明の力が、
沖縄でいまのシーズンの花といえば、サガリバナ。 熱帯・亜熱帯の花で、日本では沖縄~奄美のマングローブの川など、湿地帯に自生しています。 夏の夜にだけ花咲き、花びらは色鮮やかで、まるで夜空に咲く花火のよう。また、甘い香りを漂わせるのも特徴的です。 地域によっては、西原町でサワフジや銭掛け木(ジンカキーギー)、名護市真喜屋でモーカバナ、那覇市・首里ではキーフジという名称でも親しまれています。 見頃は、6月末~7月後半くらいまで。ちょうど今がシーズンです!観光バスで夜のサガリバナ観賞ツアーが組まれるほど人気の観光になっています。 花びらは明け方には散ってしまいますが、翌日には別のつぼみが次々となるのでほぼ毎日のように観賞できます。そして、散り際も美しく、花びらが川辺に浮かぶ光景は、とても幻想的なのです。 沖縄本島北部~中部~南部にサガリバナの観賞スポットがあるので、各エリアの代表的なオススメスポ
東急グループは、これまで「エンタテイメントシティSHIBUYA」と「広域渋谷圏(GreaterSHIBUYA)構想」の2つのビジョンを掲げ、新しいビジネスの創出や、さまざまなエンタテイメントの集積、世界の人々を常に惹きつける街を目指し、渋谷駅周辺における再開発の推進や、官民一体で組成した「渋谷駅前エリアマネジメントの活動」や、地域イベントへの参画・協力など、さまざまな分野において関係者と協力して、駅の利便性・快適性とともに、自然の潤いと憩いが感じられる、居心地の良いまちづくりに取り組んできました。 今後はこれまで掲げてきた2つのビジョンをより強化し、「働く」「遊ぶ」「暮らす」の3要素の融合と、その基盤となる「デジタル」「サステナブル」に取り組むことで、相乗効果を生み出し、渋谷でしか体験できない「渋谷型都市ライフ」の実現を目指していきます。
1947年、米国軍政下の沖縄・島尻郡伊是名村生まれ[2]。同郡南大東村の小中学校を卒業[3]後、1963年琉球政府(現:沖縄県)立首里高等学校に入学[2]、1967年国費沖縄留学生として愛知教育大学に入学[2]。1971年同大学教育学部中学校教員養成課程卒業[2]。1973年沖縄史料編集所専門員[2]、1987年沖縄県立博物館主査[2]、1988年浦添市立図書館長[2]を経て、1993年、「琉球王国史の基礎的研究」で九州大学から博士(文学)の学位を取得[2]。1994年4月より琉球大学法文学部助教授[2]、1995年同教授[2]。1993年前期放送のNHK大河ドラマ『琉球の風』の監修者でもあった。 2013年3月定年退職し[2]、同年4月より2014年12月まで仲井眞弘多県政で沖縄県副知事を務めた。 首里城再建(1992年11月落成)に大きく関わり、2019年10月に正殿が焼失し、内閣府「
2020年8月5日(水) 17歳とベルリンの壁の4thアルバム「Abstract」を全国流通盤としてリリースしました!! 色々な思いがこみ上げてきてTwitterの140文字では綴り切れないので、noteにまとめることにしました。 今作はバンドのキャリアとしても、自身のバンド人生を通しても初めての全国流通盤です。 全国流通に関しては個人的に思いが強かったこともあり、以前にも長々と書き連ねました。その時にも書いていますが、全国流通はバンドを続ける上での憧れというかちょっとした夢や目標みたいなものです。 SpotifyやApple Musicといったストリーミングサービスで音楽を聴くことが主流とはいえ、CDショップの陳列棚や展開を見ると感極まります。 今日は発売日ということもあり、メンバーと一緒に展開してくれている店舗に挨拶巡りをしてきました。 タワーレコード新宿店 ヴィレッジヴァンガード 渋
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今年9月、正門横にある古びた建物が、ひっそりとその役目を終えた。名前は「花谷会館」。かつては喫茶店が入り、1960年からは京都大学生協本部として使われてきたが、耐震基準を満たさず、生協本部の吉田南構内への移転に伴って空き家となった。この建物、建築物として特筆すべき点はないが、1945年に広島に投下された原子爆弾についての現地調査中、台風の犠牲となった花谷暉一氏の兄が大学に寄贈したという経緯がある。今回は花谷会館の奥にある歴史、原爆調査団及び枕崎台風について記述したい。(国) 優れた研究業績 戦時中、理学部物理学教室の荒勝文策研究室で大学院生として研究を行っていた花谷氏は、多くの研究者・学生が徴兵される中、研究業績の優れた特別研究生として研究室に残って研究を続けることができた。花谷氏の研究内容は、ウランの核分裂が連鎖反応的に起こる条件を探ることであった。ウランが中性子を吸収して核分裂を起こす
枕崎台風(まくらざきたいふう、昭和20年台風第16号、国際名:アイダ/Ida)は、1945年(昭和20年)9月17日14時頃に、鹿児島県川辺郡枕崎町(現:枕崎市)付近に上陸して、太平洋戦争終結直後の日本を縦断した台風である[1]。 枕崎台風の進路図とは違う 沖縄付近を北上した台風16号は、9月17日14時頃鹿児島県川辺郡枕崎町付近に上陸した。枕崎(鹿児島県枕崎市)で観測された最低海面気圧916.1hPaは、1934年の室戸台風の際に室戸岬(高知県室戸市)で観測された911.6hPa(当時の記録としては最も低い海面気圧)に次ぐ低い値となった。 16号は北東に進んで、九州・四国・近畿・北陸・東北地方を通過して三陸沖に抜けた[2]。 宮崎県細島灯台(海上保安庁)で最大風速51.3m/s(最大瞬間風速75.5m/s)、枕崎で40.0m/s(同62.7m/s)、広島で30.2m/s(同45.3m/s
第二次世界大戦末期、京都大学の物理学研究室に海軍から下された密命は、新型爆弾を作ること。兵器開発をすすめるべきなのか苦悩する研究者たち。時代の波に翻弄されていく若者たちの姿を描く。 【あらすじ】 太平洋戦争末期、京都帝国大学の物理学研究室で原子の核分裂について研究している石村修(柳楽優弥)は、海軍から命じられた核エネルギーを使った新型爆弾開発のための実験を続けていた。空襲の被害を防ぐための建物疎開で家を失った幼なじみの朝倉世津(有村架純)が、修の家に居候することになる。そこに修の弟の裕之(三浦春馬)が戦地から一時帰宅し、久しぶりの再会を喜ぶ。爆弾開発の実験がなかなか進まないなか、研究室のメンバーは研究を続けていく事に疑問を持ち始める。そして、裕之が再び戦地へ行くことになったやさき、広島に原子爆弾が落とされたという知らせが届く。研究者たちは広島に向かい、そこで焼け野原になった広島の姿を目撃す
文部科学省は28日、国内の主要18大学で39歳以下の若手教員が2019年度までの6年間に12%減ったとの調査結果を発表した。若手教員は無期雇用に当たる「任期なし」と有期雇用に当たる「任期付き」の両方で減っており、大学教員の高齢化が進んでいる。政府は若手教員の増加を目標に掲げてきたが、実効性のある政策を打ち出せていないことが浮き彫りとなった。東京、京都、大阪、早稲田、慶応など11大学でつくる懇
日本の原子核研究は,当時小さな国力にも関わらず,戦前から非常に高い水準にあった。仁科芳雄と並びそれを実験原子核物理の分野から牽引したのが荒勝文策であり,敗戦直後,日本の科学技術を調査した占領軍を驚かせた。アジア初の核変換実験,今日から見ても極めて高精度のウラン核分裂の計測,広島の原爆調査と台風遭難の悲劇,そして理不尽なサイクロトロン破壊と研究禁止……。「秘話」として部分的にしか語られてこなかった,激動の近代史の中で取り組まれた核研究を,始めて内外の膨大な資料の解析で通史として記録する。 【著者紹介】 政池 明(まさいけ あきら) 京都大学名誉教授,国際高等研究所フェロー 1934年生まれ.京都大学理学部物理学科卒業,京都大学大学院理学研究科博士課程修了,理学博士.高エネルギー物理学研究所教授,京都大学理学部教授,福井工業大学教授,奈良産業大学教授,日本学術振興会ワシントンセンター長などを歴
荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1973年6月25日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。京都大学名誉教授。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。戦時下には大日本帝国海軍のF研究の主要人物として日本の原子爆弾開発に関わった。紫綬褒章、従三位勲二等旭日重光章受章。兵庫県印南郡的形村(現姫路市的形町)出身。 荒勝文策と京都帝国大学のコッククロフト・ウォルトン型加速器 御影師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身)を経て東京高等師範学校を卒業し、いったん佐賀県で教職に就いたのちに京都帝国大学理科大学物理学科に入学。1918年に卒業した後はそのまま講師・助教授を務め、1926年に台北帝国大学教授に内定。台北帝大開学までの2年間はヨーロッパに留学し、ベルリン・チューリヒでアインシュタインやボーテの薫陶を受けた後、イギリ
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