僕は、今また「チボー家の人々」を図書館から借りて読んでいる。その第2巻は「少年園」とタイトルがつけられていて、主人公のジャックが入れられることになる、問題行動のある少年を矯正する施設(学校)が登場する。 牢獄を思わせる学校で、ジャックは一切の自由を奪われ、自分で考えることを禁止されるような状態になる。感情の表現が出来ない、生きているとは思えないような活気のない少年になっていく。 学校に対する「牢獄」のようなイメージは、今では多くの子供たちが抱いていると思われるが、特に昔のヨーロッパではそのイメージが強かったのではないかと僕は想像する。学校というのは、その当時を支配している大人たちが、子供がその社会にふさわしい行動が出来るように、ある種の習慣や性質をたたき込むところというのが一般的だったのではないだろうか。 「「制服の処女」あらすじ」 を見ると、そのあらすじなどが書かれているが、ここに描かれ
内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」に12月16日に書かれたエントリー 「人間はどうして労働するのか」 がある。これがとてもおもしろい。僕が主催しているコミュニティ 「内田樹さんの面白さを語る会」 での話題のネタにもなりそうなくらいおもしろく感じた。 内田さんが語ることには、目から鱗が落ちると言うような体験が出来ることが多いが、「労働」という概念の説明において、それが「事後的に決定される」という視点は、説明されればその通りだと思うものの、ほとんどの人は「労働」というイメージの先入観があって、その先入観のイメージにかなうものこそが「労働」だというような判断をしているのではないだろうか。 賃金を得られない活動であっても「労働」と呼ばれることがあるだろうし、賃金をもらっても「労働」と呼べないものもあるのではないだろうか。また、外見からは全く同じように見えて、そこに違いが発見できなくても、一方は「
僕は、宮台真司氏のブログを読むのも趣味の一つなのだが、今日は久しぶりに「社会学入門講座」を読み返してみた。その「第一回「「社会」とは何か」」の中には「この問いは、経済学の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用語の範囲で答えることは不可能でしょう」という言葉がある。 これは、「社会」という言葉の意味するところが抽象的すぎて、日常用語の範囲では説明できないということだ。日常用語は具体的な事柄を説明することは出来るが、抽象的な概念を説明するにはどうしても専門用語がいるということだ。 この部分の宮台氏の主張は、確かにそうだと共感するとともに、それを何とか克服したいものだという願望もわいてくる。僕の好きなもう一人の著者の内田樹さんなどは、入門者に対しては、専門用語などはもちろん知らないから、とりあえずスタート時点では日常用語の理解で進んでもらおうというような説
僕が定期的に購読しているblogに「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」というものがある。ここで「不可視のコミュニケーション。」というエントリーを読んだ。とてもおもしろいものだと思った。特に、コミュニケーションというものに対する視点がすばらしいと思った。 ここでヒラカワさんは、 「Communicationはビジネスにおいても、日常の生活においても頻繁に用いられる言葉だが、実はコミュニケーションに相当する適当な日本語というものがない。 勿論、「伝達」といった訳語はあるが、それは一方の情報が他方に伝えられるいうただCommunicationの機能を表すに過ぎない。Communicationの要諦は、一対一、一対他の間に共有する何ものかが生まれ出るということであり、「伝達」では、その「生まれ出る」というイベントそのものをうまく捕捉できない。」 と語っている。コミュニケーションというのは、単に伝達すること
内田樹さんが『こんな日本で良かったね』で語る次のテーマは「言葉の力」というものだ。ここにはどのような構造が語られているのか。それはこのエントリーの表題にした「檻」で比喩されるような構造だ。「言葉の力」のイメージが、どのようにして「檻」という構造を見せてくれるのだろうか。 まずは、「言葉の力」という言葉に秘められた様々の意味を考えてみよう。内田さんは、これを学習指導要領の基本理念として提出されていることからまず話を始めている。「言葉の力」こそが「学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方」とされている。これは、国際学力調査の結果として、日本の子供の学力の「二極化」が問題にされたことから、学力の低下をもたらした原因として「言葉の力」が不足しているという発想がされたようだ。 特に低下した学力は、読解力と記述式問題で、この学力調査の結果は非常に悪かったようだ。この問題を解決するために、「言葉や体
若いときに初めて接した「構造主義」は、そこに何が書いてあるのかがよく分からないものだった。日本語としての意味は読み取れるものの、その文章が全体として何を言いたいのかが読み取れないという、何かもやもやとした気分が晴れなかった。このような思いは、複雑で難しい対象を説明した文章に接したときに、誰もが抱く感覚ではないかと思う。そのようなもやもやした分からなさを解消するための鍵はどこに見出したらいいだろうか。 僕が若い頃に接した文章は、正しいかもしれないが分かりにくいものだったように感じる。それに対して、初めて構造主義が分かったと思わせてくれた内田樹さんの文章は、曖昧で正確さを欠いているかもしれないが非常に分かりやすいと思ったものだった。それは、内田さんが『寝ながら学べる構造主義』のまえがきで語っている次のようなものが関係しているのではないかと感じている。 「思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を
内田樹さんの『こんな日本で良かったね』で語られる最初の文章は「「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める」と題されている。これは、まえがきにあったように「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」ということを前提とすれば、きわめて論理的な帰結だと感じられる。 内田さんは、「「言いたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている」という指摘をしている。表現の前に、何か表現したいものが自分の中にあったという感覚があるというのが、普通に教育現場で考えられていることだという指摘だろう。しかしこれは錯覚であって、正しくは次のようなものとして理解されると内田さんは語る。 「先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。 この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に
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