【TVNZ】フィジーにて、幼い頃にニワトリに育てられた男性が、現在人間として生きて行くべくリハビリを受けているとのこと。現地では「チキンボーイ」として知られるサンジト・クマールさん(32・写真)は20年前、道端でニワトリのような動きをして物をついばんでいるところを保護され、最近になるまで施設のベッドに縛り付けられていたという。クマールさんは幼い頃に両親を亡くし、その後祖父によってニワトリ小屋に監禁されていた過去があり、その出来事が彼の行動を決定づけてしまったと推測されている。そしてクマールさんは現在、子供の頃にニワトリから学んだ動き方の全てを忘れ去るべく、行動学研究学者のエリザベス・クレイトンさん(彼女の亡夫は登山家のロジャー・ビューイック、1998年にエベレストで死亡)に教育を受けている最中である。 彼女の話によれば、クマールさんは当初、非常に凶暴で手に負えなかったと話している。「最初は
【icwales】この度、イギリスの大英博物館に展示されていた「水晶の髑髏(ドクロ)」の調査が行われ、結果、ほぼ間違いなく捏造品であることが明らかになったとのこと。調査された「水晶の髑髏」は、これまで中央メキシコに栄えたアステカ文明が作り上げた工芸品の一つとされ、1897年から大英博物館に収蔵されたものである。しかし今回英ウェールズ大学教授、大英博物館科学調査部長イアン・フリーストーン博士が調査を行った結果、髑髏はおそらく19世紀、ブラジルの水晶を使ってヨーロッパで作られたものである可能性が非常に高いという結論に至ったという。博士によれば、髑髏が捏造品である理由として、まず髑髏には回転式の器具を用いて切削、研磨した痕跡が見られるが、それはアステカ文明には車輪が存在していなかったという事実と大きく矛盾する点、また材質の水晶は通常、メキシコでは産出されない種類のものであり、むしろブラジルにおい
【ScientificAmerican】1912年、イタリアはローマにほど近いモンドラゴーネ寺院にて、アメリカの古書収集家ウィルフリード・ヴォイニッチ氏は一冊の奇妙な手稿を見つけた。手稿は膨大で230ページ以上からなり、しかし、中に描かれた文字群はこれまで見た事もない不思議な文字が使われ、また未知の植物や裸婦などの幻想的な挿絵が描かれていた。ヴォイニッチ氏はほとんど直感的にその手稿の持つ潜在的価値に魅せられ、すぐさまそれを買い取り、本国へと持ち帰ることにした。ヴォイニッチ氏はその後の研究で、手稿の特徴から中世の錬金術師か、植物学者が書き上げたものと推測したが、その奇怪な文字群は一切の解読を拒否し、彼の頭を悩ませた。またしかし、いくつかの手がかりも見つかった。それは例えば挿絵に描かれた人物像の様子(髪型など)はその手稿がおそらくは西暦1470年から1500年の間に作られたものであることを示唆
原文:Compacting your toolbar to the max by Percy Cabello -- Wednesday, February 08, 2006 Internet Explorer 7 の最新ベータ版で遊んでみています。Firefox が備える使いやすさやセキュリティ、機能の方が断然好きなのですが、多くのコマンドが格納されている一番上のメニューバーが IE 7 では標準で隠れるようになっているような拡張は気に入りました。 そこで、Firefox でも同じようにしてみようと思い立ちました。結果、Chris Neale の Compact Menu が、邪魔な項目を消し、スクリーン表示域を大きくする上で、素晴らしい機能を発揮することが分かりました。最新版はまだ addons.mozilla.org に登録されていないので、拡張機能の Web サイトに行く必要がありま
イスタンブル郊外を車の窓から見ていて随分荒れた住居、スラムが多いなと思ったはもう十年も前のこと。現状は知らないが、こうした地域でイスラム原理主義が活発なのだという話を聞いて当時関心をもった。この地域のイスラム原理主義は、昨今メディアの伝える過激なものではなく、互助的な社会原理らしい。こうした関心から、パレスチナのハマスにもそういう側面があることも私はある程度納得できる。 イスラム教圏が近代化の立ち後れ状態にあるとき、あるいは国家の福祉的な施策の立ち後れがある場合、その社会はそのまさに社会機能の必要性から、こうした復古的な原理主義に立ち返らざるを得ないところがある。しかたがないと言えるのだが、問題ははたしてそうは言ったものの、「近代化の立ち後れ」なのかは考えるとむずかしい。 イスラム教圏を国家という区切りで見るとその最大の領域はインドネシアである。中東やアフリカの諸国でもなく、ましてイスラム
このブログでは、昨年4月から3ヶ月周期で各所のページランク改定をヲチしてその内容をリポートしているのだが、これまでの周期から今年1月に書けるはずだったページランクリポートがいまだに書けない。 書きたくても書けない。 というのも、なんか今回のランク改定がどうもトラブってるっぽい。 本来であれば、1月の中旬にページランク改定があるはずだったが一向にその気配がなかった。で、1月25日夜に、このブログのランクが4->5にUPしているのに気付き、他のブログも巡回してランク改定が行われたのを確認してリポート記事を書こうとした矢先にランクが全て元に戻ってしまった。 そして、1月31日にこのブログ常連のAmiさんから、「ページランク上がってますよ」と連絡を頂き、調べてみると、確かに改定されてるっぽかったので、「やっと収まったか」と思ってリポート記事を書いてるうちに再び元のランクに戻ってしまった。 それ以降
オイラのごく個人的な経験から言うと、モテを排除した恋愛の時の方がずっと燃えるんですよね。 自分がモテてるときの恋愛って、なんか薄い。*1 また、モテる女の子と恋愛してるときも薄い。 自分がモテてるときって、女の子は、なんていうか、ぼくのコアのところをとらえてくれてなくって、その女の子の脳内に勝手に創り上げたぼくのドッペルゲンガーに入れ込んでる感じなんですよ。 また、モテな女の子と恋愛しているときって、その女の子と付き合っていること自体で(意識しないように心がけるんだけど)無意識のうちにぼくのプライドが満たされてしまって浮足立つというか、その女の子自身も、モテである自分が付き合っているという現状をどっかで意識していて、また、まわりの目とか感情とか、嫉妬されるのが快感だったりとか、そういうノイズがたくさん入ってきて、集中できないというか、いや、そうじゃないな、本当に問題なのは、なんていうか、ぼ
先生はえらい (ちくまプリマー新書) 作者: 内田樹出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2005/01/01メディア: 新書購入: 10人 クリック: 88回この商品を含むブログ (251件) を見る前日熱く書きなぐったハウル話にくるのが「オカムラチャン」ワード飛来ばかりの状況にやさぐれて罵詈雑言やつあたり。 中高生対象の新書シリーズだからとはいえ似合わぬハシモト口調がかなりキモイ。というよりそれならそれでこんな無神経な事を書くなよ。 P58-59 聴き手があなたにとってどうでもいい相手の場合を考えてみてください。 どうですか?あなたの回想はあまり熱が入りませんね。だって、その人にどう思われようと、あまり関係がないから。 そういう場合に、あなたが語って聞かせるのは、たいていこれまでに何十回も繰り返した「いつもの話」です。自慢話でも、笑い話でもいい。とにかくある種の効果があることが経験的に
去る09年7月16日のトムラウシ山での遭難事故で亡くなられた方へ心よりご冥福をお祈りいたします。 はじめてご訪問の方はこちら(自己紹介および投稿リスト等)をご覧ください。
▼Kawakita on the Web http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060205 ・・・靖国神社系イベント見聞記。 エイレイライズ!(@∀@)エイレイライズ!「まずは心に核武装」!! 「被爆者の前でその歌を歌えるの?」とか 「ラッパーがファシスト宗教の手先になって『伝統』擁護って、なんかもういろいろ間違えまくってない?」とか、疑問はいろいろと尽きない。 ▼安晋会 菱和ライフクリエイト 黒川紀章 日本会議 @反戦な家作り http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-74.html ・・・ダークサイド・オブ・ジャパン(@∀@) ▼イスラム差別主義的マンガ事件のまとめ http://yohaku.seesaa.net/article/12908797.html @余白から指先へ 日本って今どこにいるの? ・・・これに
◆ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか: H-Yamaguchi.net catforgさんに見抜かれてるのが悔しいとこなんだけど確かにこのエントリには色々思うところあり。といってもこのエントリ自体は普通に興味深く読んでちょっと別なアプローチで語れるんじゃないかとかあれこれ考えてたりするんだけど、ただそもそもオレは現在のネットを非リアルと定義した上で「ネットのリアル化」を語ること自体にそれはちょっと違うだろと考えてる。「リアル」って言葉が大体議論の混乱の元なんです。なぜなら何をリアルと感じるかが人によってまるで違うからそこでどうしても話がすれ違ってしまう。ということで「リアルって何だ」ってことも含めて「ネットのリアル化」を言う人の心理について。 上の記事のブクマコメントにもあるけどネットは人によってはもう十分にリアルだったりする。特にネットの世界に積極的に参加してアクションを起こ
初めて心から理解しあえるパートナーと出会えた 累計8900組以上のマッチング実績と、19年の信頼の実績で、 創価学会員同士の理解あるパートナーとの出会いをサポートしています
http://beta.g.hatena.ne.jp/sugio/20060207/p1 で 私がwanparkさんのツールのファンなのは、使いたくなるところまで作りこんでくれて、はてなの「おとなりなんとか」とか「はてなリングの注目エントリー」みたいな、もうちょっと精度高まらないのかな高ければ使えるのにもどかしいよ感がないところです。 ほんと、あのビューワーは良かったよ。キーワードのRSSは本来はああでなくちゃ。 ほんとなんちゅーかはてなのさまざまなサービスは「第一にPerlで組みやすいこと」が優先されすぎていると思う。本末転倒しちゃってインターフェース的に「ちょっと惜しい」という感じで失敗気味なのが多い。 id:wanparkプロダクツは、本人が好きでこだわって作り込んでいる感覚があって良かった。(だからはてなに入社したことを日記から読み取ったときから、本家に取り込まれるのを超期待してい
HotwiredのMatrix Vol.33「Web2.0的信頼の構築」に近藤さんの最新インタビューが掲載されていたので、いい機会だと思ったからちょっとまとめてみた。基本はウェブ上で無料で見れるものです。抜けがあると思うので教えてください。 2002年 2002-03-31 (追記5 2006-05-10) 自転車を徹底的に意識する: power's cycle diary:interviews はてながまだそれほど知られていなかったころに自転車のファンサイトの「自転車を愛する人々とのインタビュー」コーナーで「自転車競技のカメラマンでもありながら会社の社長でもありツールド信州というレースも開催しながら自身もツールド北海道でステージ10位という成績も残されているというにわかには信じられない経歴の持ち主」としてインタビューに答えています。もちろん自転車のことしか語っていません。自転車への熱い愛
ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導している
GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。それから、紆余曲折して今日(2015年)に至りました。 ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して
新しい理論である不連続的差異論を深化検討しています。哲学的でわかりにくいと思いますが、私の本拠地のブログで不連続的差異論の説明にアクセスできます。 http://renshi.ameblo.jp/ http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913 ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身
ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導している
ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》哲学であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導してい
「Firefox」のブラウザー画面の右クリックメニューに、さまざまな書式によるURLショートカットの作成機能を追加するプラグイン「deskCut」v0.5.0.4が1月30日に公開された。「Firefox」v0.7以降に対応するフリーソフトで、編集部にてWindows XP上の「Firefox 日本語版」v1.5.0.1で動作確認した。現在、作者のホームページからダウンロードできる。 「Firefox」ではアドレスバーの左端にあるアイコンやWebページ内のリンク文字列をデスクトップにドラッグ&ドロップして、表示中のWebページやリンク先のURLショートカットを作成できるが、IEのようにブラウザー画面の右クリックメニューからURLショートカットを作成する機能は備えていない。 そこで本プラグインをインストールすると、表示中のWebページやリンクの右クリックメニューに項目が追加され、表示中のペー
筆者は、マルティン・スピーヴァック。 精神科学にとって、危機ほど恒常的なものはない。「精神科学の危機と未来」というテーマに関する著作は、独特の文学上のジャンルになった。にもかかわらず、彼らは相変わらず生きている。独文学者、歴史家、哲学者、古典学者、神学者たちは。しかも状況は悪くはない。数字を見ると、流行っていると言うこともできよう。毎年、言語学、文化科学、社会学を学ぶ学生数は増えている。同じことは教員についても言える。ドイツは、2万人以上の精神科学的業務に関わる公務員(ドイツでは大部分の大学は州立だから、教員は地方公務員)や研究者を抱えている。研究の後継者も余り不足していない。精神科学に関する学部では、毎年2,500の博士論文が出来る。歴史家だけでも、250人の私講師が教授の地位を待っている。 それではどんな危機があるのか、と問われるかもしれない。財政が危機になっていると答えられる。教育や
FPN-ゲームをつまらなくしたのは僕たちゲーマー自身かもしれない 見事すぎるほどに悪質な記事。「かもしれない」という曖昧な語尾で断定を避けつつ巧みに「ゲーマー」(「ヘビーゲーマー」)にネガティブイメージを与え、しかも「僕たち」と当事者を装い自省のそぶりを見せることでへつらういやらしい態度(多用される「ですよね」という語尾の気持ち悪いことよ)。これぞ大衆に迎合するブロガー様のあるべき姿ですよと感心すらしてしまう。 この記事はほとんどが明確な裏付けのないユルい「気分」に支配された印象論で展開されているから指摘するのもキリがないが、一例を挙げるならこんな文章がある。 特に嫁さんをゲーム好きに洗脳しようと思ってゲームを探したときに改めて感じたのは、二人以上でプレイできるゲームの少なさ。 プレステのゲームって対戦以外はほとんど一人用のゲームなんですよね。 昔のファミコンってもう少しみんなでワイワイや
サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、そして20世紀のアメリカの小説(純文学・SF・ミステリー)は「ライ麦畑から落ちた」者たちを描いていた。 実際、文学はずっと周縁に焦点をあてていた。大江健三郎は、自身の文章創作の本で、周縁についてこう述べている。 周縁性に立つ側の人間、周縁性という条件づけにおいて「異化」されている人間を、文学的モデルとして積極的につくりだすこと。それはわれわれの文学の中心指向性、単一化の大勢を批評的に乗り越えるための、想像力の訓練である。 神話の役割は周縁との往還にあった。トリックスターとは周縁と中心を行き来するものである。現代でも冥界下りの構造をとる文学は多く見られる(「海辺のカフカ」ですらそうだ)。主人公たちは、神話の方法論のおかげで周縁へ赴き帰還する。 今はどうだろう。周縁を意識することはないように思う。ネットによって繋がることで周縁は周縁でなくなり中
と書いてみたが、ここでの非モテは喪と過激派の方々のこととする。あと、一部非モテ哲学を論じようとする方々。 非モテに係わる論争を見てきて思った。喪・非モテ側はモテ側、非・非モテ側にいかなる手段をもってしても勝つことは難しい。と。 いくら、喪や非モテの方々が一騎当千(いや百くらいかしら)だったとして、普遍的な共感とやらによって生み出されるモテ、非・非モテ側の尖兵は、わらわら生み出されてくる。そして、非モテとモテ、非・非モテどちらも相手のことが理解できないし、理解しようともしない。 その中で、いくら非モテが自分達の正当性や異性の醜さを啓蒙したとして、相手が受け入れるわけがない。たとえ、受け入れたとしても非モテが満足するとは限らない。ひたすらにたたき続けるだろう。 とここまで考えて、非モテの最終目的が気になった。非モテの論争のときに「非モテの目的は何か」と問われるケースがある。そこで浅はかなモテの
_ 徳保さんのはてなXSS関連の認識の間違い あるいは「ブログサービスの XSS 脆弱性対策はいらない その3」。 徳保さんはセキュリティ関係の知識が足りていないんで、きちんと勉強するまではXSSなどのセキュリティ関係の用語を使わないで語った方がいい。というか誤解を広げめられると迷惑だ。 「d.hatena.ne.jp 以下のコンテンツでスクリプトの悪用はありません、なぜならはてなが特別に許可したスクリプト以外は使用が制限されているからです」という安心感を売り物にしようとしている はてなはCookieによるユーザー認証を利用しており、ユーザーに自由なJavaScriptを許すと、認証情報の盗難・悪用が可能になるから、ユーザーのJavaScript利用を禁止している。それは「安心感を売り物にしている」というレベルではなく、ユーザー認証を利用したサービスを提供しているサービス提供者の最低限の義
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