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ブックマーク / kaoriha.org (8)

  • 中里一日記: 「眼差し」という悪

    « AVN Digital Magazine 2008 July, "The New Wave of Lesbian Erotica" | Main | どこの誰とは言わないが » 「眼差し」という悪 映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』をDVDで見た。 脚はほぼ原作どおりらしいのに、演出が、原作に対する批判意識(=悪意)に満ち満ちている。これこそ正しい映画化というものだ。 真の悪とは自分の周囲すべてに悪を見出す眼差しのことだ、という話がある。 清深は自分のまんが作品(第1作)によって、その「眼差し」を家族全員に共有させた。すなわち、「澄伽は悪鬼であり、ほかの家族は無辜の被害者である」という「物語」を、家族全員の共通前提として押し付け、成り立たせてしまった。 この物語は家族にとって、そもそも不要であり有害無益なものだった。 澄伽がわめきちらす「東京に出て女優になるから金をよこせ」という

  • 中里一日記: 虚無と犯罪

    虚無と犯罪 山口県光市の母子殺害事件について。 あの被告人の言葉には、虚無を感じる。特に有名なのは、「無期はほぼキマリでして、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す」だろう。 「芽を出す」。この表現の暗さは形容しがたい。「シャバに戻る」ではなく「地上に芽を出す」。自分は地上に属する人間ではないのだと、暗に語っている。故郷のような「ここに戻りたい」と願う場所がないのだと、それも失ったのではなく最初からないのだと、暗に語っている。 あまり注目はされていないが、これも虚無を感じさせる言葉が新たに報道された。 「死刑もやむを得ないと思う?」と問われて、「はい。僕は死刑存置主義者ですから」 法廷闘争のありさまからして、被告人は文字どおりの死に物狂いで死刑を免れようとしているのかと思っていた。が、この発言である。死に物狂いの人間の言うことではない。絶望や諦念でもない。無関心、というべきだろう。 自分が

  • 中里一日記: 自己責任教は合成の誤謬

    自己責任教は合成の誤謬 近頃ネットで流行るもの、「自己責任教」について。 自己責任教について知りたければ、私の日記など読まずに笙野頼子を読め、と言いたいところだが、つまらないものはつまらないがゆえに必要とされる面もあるので、必要に応じてみることにする。 あなたがある日、「自分の暮らしをもっと豊かにしたい」と思ったとしよう。そのとき黙って「自分が貧乏なのは政府のせいだ」ということにして、そのまま何もしなければ、あなたの暮らしは何も変わらない。黙って座っているだけの人間が、願いをかなえるはずがない。 願いをかなえたければ行動すべし――これは妥当である(命題A)。 あなたは行動を決心したとしよう。自分の願いをかなえるためには、政府に働きかけるのと、雇い主に働きかけるのと、どちらが効率がいいか。後者である。 もっとも効率のよい行動を取るべし――これも妥当である(命題B)。 もし全国民が、命題A・B

  • 中里一日記: 伏見憲明『性という〈饗宴〉 対話篇』(ポット出版)

    伏見憲明『性という〈饗宴〉 対話篇』(ポット出版) BLへの典型的な批判に、「ホモフォビックな世間を設定・利用した作品が多い」というものがある。 他人のことなどどうでもいいのが人間の常のはずなのに、わざわざ「同性愛なんて!」と嫌悪してくれる世間を描く作品が多い、という批判だ。これを「読者・作者が異性愛だから」と解釈する向きもあるが、賛成できない。いまの若い世代はともかく、それこそ『薔薇族』しかなかった時代には、ホモフォビックなホモも多かったらしい。書にも、「当事者が一番ホモフォビックだった」との証言がある(ページ数不明)。さらに言えば、「同性愛者は非同性愛者よりホモフォビアに直面する機会がはるかに多いので、非同性愛者の目には異様に見えるほどホモフォビックな世間のほうがむしろ妥当に見える」という理屈も成り立つし、そうするとむしろ「読者・作者が同性愛だから」という結論が導かれる。 それはさて

  • 中里一日記: 右クリック

    右クリック 私は今、生まれて初めて、MacWindowsを打ち負かすかもしれない、と思いはじめている。 http://forums.microsoft.com/MSDN/ShowPost.aspx?PostID=1529091&SiteID=1 If we add "right mouse events" in some future version it would probably be in the form of a "Context Menu" event only. Something that would fire however a context menu is opened. http://forums.microsoft.com/MSDN/ShowPost.aspx?PostID=1096108&SiteID=1 Right now we do not have p

  • 中里一日記: 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々

    「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々 参考:僕の考えた超人 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々がいる――と書いただけですでに出オチだが強引に続けてみる。 このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。「俺」でも「私」でもない「僕」である。「自分のことを僕と言っていいのは大山のぶ代のドラえもんだけだ」という天下の大暴言に深く共感する私にいわせれば、「僕」という一人称には深い意味がこもっている。 「俺の考えた女の子」の「俺」は、タフな感じがする。「お前はバカか」とあきれてみせれば、「俺の考えた女の子」はあっさりと修正されるだろう。いや、修正させる必要もない。放っておいて、事実とぶつからせてやればいい。「俺」はそういう荒っぽい扱われ方を必要とする。 「私の考えた女の子」の「私」には、オープンな姿勢を感じる。「それはちがう」と指摘すれば、それがもっともらしい指摘なら――この「もっともらしさ

  • 中里一日記: 不可能性は萌えより広い

    不可能性は萌えより広い いわゆる「萌え不可能性論」について。 エロゲー等によくあるパターンに、「姉と妹に同時に手を出す」というものがある。いわゆる姉妹どんぶりだ。親族関係は姉妹間にだけあればよく、主人公は他人でいい。ここでは他人として話を進める。 このパターンを百合的に読み替えれば、「姉妹間の性愛が禁じられているので、主人公を媒介に使っている」となる。姉と妹がお互いに主人公を奪い合う、あるいは共有することを通じて、禁じられた感情が形を変えて表出している、と解釈するわけだ。もちろん姉と妹はどちらも、自分自身の禁じられた感情を自覚しないまま、その感情に振り回されている。 この百合的な読み替えに従えば、物語の最後には、禁じられた感情がなんらかの形で表面化することになる。たとえば、「禁じられた感情を自覚して性愛にたどりつく」というオチだ。短絡的だがインパクトはある。 しかし私の趣味としては、もう少

  • 中里一日記: エロまんが的なるもの

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