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仏教と思想に関するkousyouのブックマーク (13)

  • 瞑想を「心の声に耳を傾けるもの」という根本的なまちがい | 考えるための書評集

    よく新聞などで瞑想や座禅を紹介した記事で、さいごの一文に「心の声に耳を傾ける」という言葉が常套句のようにさしこまれることがある。 以下の記事にもさらりとそういう一文がある。 「瞑想は、そんな心の状態に安らぎを与えてくれ、自分の心の声に耳を傾ける時間を持てるものなのです。」 「ランチ後にたった3分のプチ瞑想。仮眠をとったかのようなスッキリ感」 Lohas news これは瞑想の根的なまちがいであり、「心の声に耳を傾け」たら瞑想にならない。心の声を「聞き入れない」ことが瞑想なのである。根的なまちがいをふっともらしてしまうのである。 どうしてこういうまちがいがあたりまえのこととして通用してしまうのか。 基的に新聞のような記事を書く人は、書くことに自分のアイデンティティを賭けている。書くことが自分の価値であり、自分の思い入れの主要な部分である。自分の全存在を賭けているような「書くこと」の否定

  • 『終末期の密教』をちょっと開く―死者全共闘と公害企業主呪殺祈祷僧団― - 関内関外日記

    「公害企業主呪殺祈祷僧団」について - Togetter はてなブックマークを朝から見てたらこのまとめが目に入った。『終末期の密教』持ってる。つーか、こないだほんのちょっとだけの整理をしたときに、「仏教関係」のひとまとめにするときに手にとった。……が、まったくの未読だった。おれが仏教関係のを読むようになったきっかけは松岡正剛の『空海の夢』というあたりだったが、空海ブームからなぜか興味が鈴木大拙から禅の方に流れていって、吉隆明の親鸞ものなぞ読んで、ご無沙汰になっていた。というか、仏教興味も離れて久しい。せっかくなので、ちょっと開いてみた。ちなみに、稲垣足穂・梅原正紀編著とあるが、なんか稲垣足穂は梅原さんからインタビューを一受けているだけっぽい。梅原さんは、そのお父さんが横浜伝説の娼婦wikipedia:メリケンお浜と「性の決闘」をしたということくらいしか知らない。というか、今しがたそ

    『終末期の密教』をちょっと開く―死者全共闘と公害企業主呪殺祈祷僧団― - 関内関外日記
    kousyou
    kousyou 2012/06/12
    死者全共闘すげぇ
  • CNN.co.jp:ジョブズ氏の革新に影響を与えた思想とは―― 日本の禅僧と長年の交流

    (CNN) 5日に死去した米アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏が手掛けた製品は、パーソナルコンピューターの「マッキントッシュ」から多機能携帯端末「iPad」に至るまで、ミニマリスト的デザインとシンプルな操作性が特徴だった。 ジョブズ氏のこうした革新的なデザインには、禅の影響があるのではないかと指摘する声もある。 ジョブズ氏は若いころインドに旅して仏教に触れ、1970年代にカリフォルニア州の禅センターに通って、日出身の禅僧、故・乙川弘文氏と交流を深めたといわれる。 乙川氏はジョブズ氏の結婚式を司り、86年にジョブズ氏がアップルのCEOを解任されて設立した「ネクスト」の宗教指導者にも任命されるなど、2人の交流は長年にわたって続いた。 ジョブズ氏がスタンフォード大学で2005年に行った有名な講演をはじめ、同氏の発言の中には禅の自力願の思想が反映されている。講演でジョブズ氏はこう語った。「

  • 仏教がブームなのか - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 「物語の力」http://d.hatena.ne.jp/nessko/20110730/p1 村上春樹のオウム真理教事件を巡る文章をちゃんと読んでみる必要があるなと先ず思った。麻原彰晃が発する「物語の力」によってオウムのテロは惹き起こされたという視点*2 さて、 物語の力、というと、ノルウェーのテロで犯行を認めたアンネシュ・ブレイビク容疑者は、何年も前から準備を始め、テロの直前までずっとその過程を日記のように書き続けていたことがわかっている。単独犯と見られているブレイビクだが、長い犯行準備期間中、彼を支え続けたのは、自らが編んだ物語だったのではないだろうか。 報道されたものを読む限りは、ブレイビクを支えた物語は、日でいえば『正論』や『ムー』、またはネトウヨブログに書かれているのと似た、白人向けの極右ロマンでしかない。キッチュでばかばかしい代物だが、なぜばかばかしいとわかるのかと

    仏教がブームなのか - Living, Loving, Thinking, Again
  • プロテスタンティズムと仏教(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101204/1291472573やhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101221/1292961164に関連して、磯前順一「近世「仏法」から近代「仏教」へ」(『春秋』522、pp.1-4、2010)から少し抜書き。 「今日われわれが口にする「仏教」という言葉は、仏法や仏道といった近世的な認識布置から、”Buddhism”という西洋近代的な宗教概念への転換が暗黙の前提とされているのである―― ここで言う近代とは、江戸時代までの中国・朝鮮・オランダのみと制約したかたちのでの交流とは異なって、西洋列強の帝国主義競争のなかに包摂されていった時代をさす。そのなかで宗教という、諸宗教を包摂する概念が異文化の接触する状況のなかで必要とされるようになり、同時にその構成要素として組み込まれたキリスト教、仏教、

  • 十住心論 - Wikipedia

    『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)、正確には『秘密曼陀羅十住心論』は、空海の代表的著述のひとつで、830年ころ、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の体系を述べた書(天長六宗書の一)。10巻。 人間の心を、凡夫(一般人)から最終的な悟りの境地に至るまでの10段階に分けて整理・解説したもので、それぞれに当時の代表的な思想(第4段階以降が、初期仏教や大乗仏教)を配置することによって、仏教全体の体系的整理・解説をも築いている。9段階目までの顕教に対し、10段階目を言語的な伝達が可能な域を超えた密教と位置づけ、人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。 異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心 愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地 嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地 唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地 抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地 他縁大乗心 - 大乗仏教のうち

  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

    顕密体制論理解のために - 我が九条
  • パスワード認証

    スチーム速報 VIP あの夏の日、僕たちは輝いていた。

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  • kousyoublog.jp

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  • 雑感 - finalventの日記

    たぶん真理は宗教の中にはない 倫理的な意味ではあるかもしれないが。 以前というかもう随分昔になるが、大森荘蔵のエッセイを読んでいて仏教への批判というか、ごく普通に仏教の考え方を疑問視しているのがあって、ああ、仏教が必ずしも真理ではないのだろうなと思ったことがある。いやそれだけいうと稚拙だが、こういうスキームではいつも仏教とはなんぞや、仏教における真理とはという問いかけに転換する(おまえの仏教理解は全然違う正しい仏教はなんたら議論)が、それはそもそも間違いだろうなという含みである。哲学は、数学なんかと同じで、実は、けっこう真偽が問えるものも多く、意外と宗教的な真理も包括して偽を下せるのではないかと思った。私は宗教には別段真理などないんじゃないかと思っている。 まあ、いわゆる仏教、とするしかないが、縁起説と無我説がある。前者は時間と因果と意識をどう含めるかで実際には多様な議論があるが、無我説が

    雑感 - finalventの日記
    kousyou
    kousyou 2010/03/21
    それゆえに宗教は苦を救うのではなく生をいかに拡大するかという方向に振れていくのかもしれない
  • 玄侑宗久「新幸福論 生き方再発見」

  • 煩悩即菩提 - Wikipedia

    煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)は、大乗仏教の概念の一つ。 生死即涅槃と対で語られる場合が多い。 悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることである[1]。 原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより覚りが得られるとされていた[2][3]。 しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった[2][3]。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった[2][3]。 したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する[4][5]。これらのように、二つであって、しかも二つではないもののことを而二不二(ににふに)という[5

  • 仏教用語の「自由」について教えてください。

    かなり長文になり、恐縮です。 浄土真宗の寺の者ですので、どうしても浄土真宗の教義に偏った答えになりますが、ご容赦ください。 質問者様のおっしゃる「自由」は、現代における自由(freedom,liberty)という意味でしょうか。これは、仏教元来の思想の中には存在しない概念です。日で「自由」が広く言われるようになったのは、西洋思想の中でモンテスキューやルソー等が出現し、それを明治になってから、有識者会議の中で外来語を全て日語に置き換えるという作業がなされ、彼らの言うfreedomやlibertyを日語に置き換えるとどれが適切だろうかというところで、「自由」が適用されたに過ぎないのです。 一方、仏教古来の「自由」ということは、基的に独立自由のことを指しています。 大谷大学の教授の言葉を参考にすると 『仏教も“自由”の語を大切にするが、その意味は異なる。自由の「由」は<よる><もとづく>

    仏教用語の「自由」について教えてください。
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