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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (20)

  • 干鮭(カラサケ)の論文を書くことに決めた - 我が九条

    今書いている科研費報告書の論文で近衛政家の日記を見直す必要があってブログに久しぶりにアクセスしたら、次のようなコメントがunko氏によって付されていた。 疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文。干鮭のことを「カラサケ」などとは言わない。そもそも「干」に「から」などという読みはない。ここは「唐の酒」と読むのが自然。無知を自分の思い込みでカバーしても正しい答えは出ないぞ。 この短い文章にこれだけのツッコミどころを詰め込むのも何かの才能であろうが、このような議論まがいがネット上にあふれているのも事実であって、ネット時代における知性の崩壊状況を如実に示す好例であるのでここで取り上げることとした。 漢和辞典を引けば「疋」と「匹」は互換性があることがわかる。「疋」の用例は貨幣単位だけでないことも分かる。つまりunko氏は漢和辞典を引くことに思いが至らなかったのである。 干鮭の訓みが「カラサケ」で

    干鮭(カラサケ)の論文を書くことに決めた - 我が九条
  • 松浦武四郎をどうみるか - 我が九条

    松浦武四郎は「北海道」の名付け親である。1844年から6回蝦夷地に渡っている。そして蝦夷地の詳細な調査を行い、その中で和人によるアイヌへの残虐行為を告発したことで知られる。 水戸藩のバックアップがあったこともあり、いわゆる「勤王の志士」扱いをされることもあるが、明治維新の時に就任した開拓大主典に就任し「蝦夷地」を「北海道」に変えたことで知られるが、わずか半年で辞任した。開拓使がアイヌの生活基盤を破壊した場所請負制を継続したことに抗議したためとされる。 松浦武四郎の評価も時代に翻弄された。明治時代前半には評価されなかった。一つには彼の実地調査には過ちが多かった、ということも事情の一つだが、彼のアイヌに対する和人の残虐行為の告発があまりに生々しく、実際にアイヌへの残虐行為に携わった人々がまだ存命で、しかも彼らがそこで得た資金を元手に社会の中枢に昇っていたことも関係していたと思われる。 関係者が

    松浦武四郎をどうみるか - 我が九条
    kousyou
    kousyou 2013/05/24
    最近松浦武四郎に興味を持ち始めたので調べていく上で参考になる。
  • 秀吉と政宗4 - 我が九条

    秀吉が関白や天皇を担ぐには、どのような意味があったのか。それを考えるために、政宗の言い分を検討しておきたい。 政宗は自己の行為(惣無事政策を無視して芦名氏を攻撃した)を正当化するために、祖父の伊達晴宗が奥州探題に任命されたことを挙げている。当時奥州探題それ自体が何らの地位も権限も担保しないことは明らかである。奥州探題はもともと大崎氏によって世襲され、南陸奥の地域権力の一つに転落していた。室町幕府が一門の大崎氏から、有力とはいえ、国人領主にすぎない伊達氏に奥州探題の地位を与えたのは、当時の室町殿であった足利義輝の政策の結果である。義輝は積極的に室町殿権力の再建を目指し、最終的に三好三人衆や松永久秀によって殺害される室町殿である。義輝は地方の強力な勢力を親室町殿勢力として積極的に再編しようとした。その努力の一つが豊後国守護職の大友氏の九州探題と伊達氏の奥州探題就任である。 ではなぜ伊達氏は奥州

    秀吉と政宗4 - 我が九条
  • 「鎌倉幕府否定論」のバリエーション(笑) - 我が九条

    鎌倉幕府がいつ開かれたのか、ということについては関心がない人がわざわざ「鎌倉幕府論には関心を持てない」と言ってくる事例はあまりない、と思う。一定の歴史事件になると誰もコミットメントを求めていないのにわざわざ「関心がない」とブクマをしてくる人が目につくが、鎌倉幕府論にはそういう「関心を持てない」「関心を持てなくて何が悪いんだ」とからむ人はいない。実際関心を持てなくても悪いと思う人はいないからだ。 で、鎌倉幕府論に関して知識もないのに知ったかぶりをしていい加減なことを言う人もあまり目につかない。はっきり言ってどうでもいい、と多くの人が思っているのであり、この問題に何らかのコミットメントをしようとする人はその関心にふさわしい最低限の知識を身に付けているからだ。鎌倉幕府論には足止め効果を発揮する無駄な情報発信もない。 鎌倉幕府における「否定派」を勝手に捏造してみると、次のようなパターンが考えられる

    「鎌倉幕府否定論」のバリエーション(笑) - 我が九条
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
  • 現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条

    「現代の価値観を過去に持ち込むな」という議論がある。私は思う。そんなに悪いことか?と。 私は郷和人氏の次の指摘に全面的に従いたい。 次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実は確たる定めがない。 a、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈することは有効である。 b、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。 aもbも決して間違

    現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

    北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条
  • 天皇の代数 - 我が九条

    天皇の代数は難しい。125代目と言えば簡単だが、昔からいろいろな数え方が存在する。 南北朝時代には神功皇后を歴代に数えていた。逆に弘文天皇と淳仁天皇と仲恭天皇は歴代に数えない。従って後醍醐天皇は何代目か、と言えば、現代では96代目となるだろうが、南北朝時代には94代目である。 肝心の南北朝時代の天皇だが、現代の、特に自分が発起人を務める教科書を決算委員会の場で採択するように圧力をかける政治家は次の様にしか考えないだろう。 後醍醐−後村上−長慶−後亀山 しかし当たり前だが、今上天皇は後亀山の子孫ではない。室町時代には自分が擁立する天皇の先祖を持ち上げ、自分が擁立する天皇に反逆し、天皇を僭称した不届き者は天皇とは扱わなかった。室町時代の天皇の代数は次のように意識されていた。 後醍醐−光厳−後醍醐(重祚)−光明−崇光−後光厳−後円融−後小松−称光−後花園 ちなみに今上天皇は崇光−栄仁親王−貞成親

    天皇の代数 - 我が九条
  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

    権門体制論理解のために - 我が九条
  • 権門体制論と天皇制 - 我が九条

    権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日中世国家の【国王】とすることを譲らない。 これについて次のような意見がある(「唯物史観 | Japanese Medieval History and Literature | 5488」)。 唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの? 権門体制論は、天皇の地位を必要以上に高く評価しているじゃないか。 それは、唯物史観を奉じる研究者が「従三位」とかの位階を授けられてる (そういう人は少なくないそうです)のと同じくらい、ヘンじゃないか。 「唯物史観を信奉するのに、権門体制論」は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ」という意見と対立するのだろうか。私はそうは思わない。権門体制論は唯物史観に立脚して

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  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

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  • 源実朝の暗殺 - 我が九条

    1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士の源仲章も殺された。仲章の役目は来執権の北条義時が務めるはずであった。実朝の首を持った公暁は乳母夫の三浦義村の下に向かうが、義村は義時に知らせ、公暁を討ち取る。 実朝がなぜ暗殺されなければならないのかについては、その暗殺の黒幕を含めて議論が存在する。 北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、公暁単独犯説、後鳥羽上皇黒幕説である。 従来有力視されてきたのは北条義時説である。義時は儀式の直前に体調を崩して式を抜け出している。陰謀を知っていたからこそ抜け出したのだろうと考えられていた。それに対し、義時が務めるはずであった太刀持ちを務めていた源仲章が殺されているところと、公暁が三浦義村の下に

    源実朝の暗殺 - 我が九条
  • 「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条

    平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。 鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。 1180年、頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府が南関東の軍事政権であることに着目する見解。 1183年、頼朝が寿永2年の宣旨を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。 1184年、頼朝は公文所と問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。 1185年、頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。 1189年、頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握し

    「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条
  • 保元・平治の乱 - 我が九条

    軍事貴族のプレゼンスが向上するのは、この二つの戦乱である。これを通じて軍事貴族は中央政界における存在感を強めて行く。 藤原忠実の娘の泰子の入内をめぐって白河法皇と鳥羽天皇の関係が疎遠となる。一旦は白河主導で泰子を鳥羽天皇のもとに入内させようとしたが、忠実が断る。にも関わらず、数年後、白河が熊野詣で不在の間に鳥羽天皇主導で泰子入内が計られ、面子を潰された白河は忠実を追放する。これによって摂関が院に従属する存在となったのだが、同時に白河は鳥羽に不信感を抱き、鳥羽は白河に不満をつのらせることになった。 白河は当時19歳の鳥羽天皇を退位させ、自分が認めた顕仁親王を即位させる。崇徳天皇である。鳥羽天皇は白河と崇徳を憎み、『古事談』によれば「叔父御」と崇徳のことを呼んだと言われる。 1129(大治4)年、白河は77歳で死去する。その後、天皇の直系尊属として朝廷の主導権を掌握したのは鳥羽上皇である。11

    保元・平治の乱 - 我が九条
  • 武士とは何か - 我が九条

    朝廷は長い間常備軍を持たなかった、と言われる。朝廷の常備軍に替わって朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉の強力機構として機能したのが武士団である。武士とはどうやって発生したのだろうか。地方の乱れに対応して大名田堵などの有力農民が武装して在地領主=武士となったのだろうか。実は違う。それでは単なる「武装した有力農民」である。「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる。 「武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である。かつて拙ブログで軍事貴族に触れたとき、「軍事貴族は貴族なのか」という疑問があった。そもそも「貴族」とは何か。 「貴族」とは端的にいえば官位を持つ人々である。事実上従六位以下は事実上機能していなかったので、六位以上が「貴族」となる。五位以上で清涼殿への昇殿を認められた人々が殿上人で、それ以下が地下人である。殿上人にな

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  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

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  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

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  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

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  • 「知里幸恵日記」を読む・序 - 我が九条

    中途半端にやりはじめて中途半端に終わる恒例の連続もの。今回はどこまで続くか分からないが「知里幸恵日記」を読んでみる。 「知里幸恵日記」は知里幸恵が東京に来てからの日々が描かれている。東京に来たアイヌの少女がどのような思いで東京での日々を過ごしたのか、を考えたい。幸恵が東京に来たのはいうまでもなく金田一京助に誘われたからである。このあたりの考察はすでに多くの先行研究が存在する。 特に金田一と知里姉弟の問題に関しては、知里真志保による師匠の金田一批判があり、それに乗っかる形でのいささか人格攻撃的な、感情的な批判がなされている。しかし知里真志保の金田一批判は、両者、特に知里真志保の金田一への個人的な複雑な思いと無縁ではなく、この師弟の感情のもつれにそれこそ乗じる形での議論は、極めて不毛である、としかいいようがない。 現在の研究水準では、金田一の問題点として挙げられるのが、金田一のアイヌへの関心が

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  • アイヌ学の誕生 - 我が九条

    におけるアイヌ学の権威と言えば金田一京助がまず思い浮かぶだろう。金田一によるアイヌ学について少し考えてみたい。 金田一とその弟子に当たる知里幸恵・知里真志保については丸山隆司氏の『〈アイヌ〉学の誕生ー金田一と知里と』(彩流社、2002年)に多くを拠っている。 金田一京助はアイヌ研究に入るきっかけを次のように述べている。 普通に行つてゐたら国語の研究者とでもなつてゐた所だつたらうと思ふ。が国文学に行かず、国史に行かず、国語から滑つてアイヌ語の専攻へ這入つたのは、やはり一には自分の性分からであらうが、又一には不思議な縁が自分を此の方向へたぐつてゐた事が、今に至つてはつきりとたどられる。 夢多き青年時代をわけもなく酔はした「天才」というような語のひびきが、いつしか我々を酔はしめなくなった時、英雄時代の夢から醒めて平凡な全体性、「民衆」といふものの力がより多く我々の注意を惹き我々の心をうつやう

    アイヌ学の誕生 - 我が九条
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