明暦三年一月十八日(西暦1657年3月2日)から十九日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。 明暦の大火の発生当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。 第一次:本郷丸山町本妙寺から出火一月十八日未の刻(午後二時頃)、本郷丸山町(文京区)の寺院本妙寺から出火、強風を受けて本郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神・神田明神・東本願寺を焼いて神田川南岸(現在の万