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2014年9月1日のブックマーク (7件)

  • 幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたか?

    安政五年(一八五八)に締結された日米修好通商条約の結果として、経済面で二つの現象が起きた。第一に日から海外への大量の金流出、第二にハイパーインフレーションである。常識的に考えれば、国外への金流出は国内の貨幣流通量の減少をもたらすため、貨幣価値の下落(インフレ)ではなく上昇(デフレ)になるはずだ。ところがその逆の現象が起きた。何故なのか? 1) 江戸の三貨制度と貨幣改鋳江戸時代の通貨制度は金貨、銀貨、銅貨(銭貨)の三つの貨幣からなる「三貨制度」が採られていた。「江戸の金遣い」「上方の銀遣い」の言葉通り、金貨は江戸を中心とした東日で、銀貨は大阪を中心とした西日で使用され、銅貨は江戸時代初期まで流通していた中国銭に代わり補助貨幣として普及した。 三貨制度下では銀は秤量貨幣として貨幣に含まれる銀の重さをもとに各貨幣間の交換比率が定められていた。慶長十四年(1609)、金一両=銀五十匁=銭四貫

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    kousyou 2014/09/01
    ブログの過去記事(2013年5月)です。
  • 王権の条件としての血統と即位儀礼についてとりとめなく | Kousyoublog

    ちょっとメモ。 『人が王となるのは、その起源は共同体首長に発するが、王家となって以後は、王たる者の血筋を引くことと即位儀礼の存在が条件となる。もちろん、政治的・軍事的実力やカリスマ性などによって新しい王朝を開く場合は、その限りではない。 比較的平和裡に王朝交代を実現する場合は、王の血統はいわば必要条件であり、たとえばフランスでは、カペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝は替わるが王はすべてカペー家の血筋の者によってたてられ、カロリング朝の王位を簒奪したカペー朝のパリ伯ユーグ・カペーにしても、権威あるカロリング朝のシャルル・マーニュの末裔を自称した。日の場合でも、天皇家において血統が絶対条件であったことは周知のことで、鎌倉・室町幕府=王朝においても将軍=王になるのは源氏=天皇家の末裔であった。秀吉の場合は、その欠点を補うために、日輪神話や落胤説などが唱えられたし、家康の場合は吉良家から系図を取得

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    kousyou 2014/09/01
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  • 47NEWS(よんななニュース)

    「歌はかけがえのない喜び」 岡知高(高知県宿毛市出身)CDデビュー20周年 ベストアルバム発売 3月に宿毛市、高知市で公演

    47NEWS(よんななニュース)
  • デング熱に関するQ&A

    このホームページを、英語中国語・韓国語へ機械的に自動翻訳します。以下の内容をご理解のうえ、ご利用いただきますようお願いします。 1.

  • 神奈川県の2人 デング熱の陽性反応 NHKニュース

    横浜市に入った連絡によりますと、横浜市の20代の男子大学生と神奈川県横須賀市の10代の女子高校生の合わせて2人が、今月下旬、高熱の症状を訴え、横浜市内の医療機関で検査を受けた結果、「デング熱」の陽性反応が出たことが分かりました。 横浜市によりますと、2人はそれぞれ今月中旬、東京の代々木公園周辺を訪れたということで、国立感染症研究所が確認検査を行っています。 2人の症状はいずれも快方に向かっているということです。

  • 「殴り合う貴族たち」繁田 信一 著

    様々な王朝文学のイメージから平安時代の貴族というと暴力とは縁のない人々のように思われるが、実は、貴族たちの間では殴る蹴るの暴力がごくごく日常的に行われ、いつどこでだれが殴りあいを始めてもおかしくない殺伐とした時代だった、ということを当時の日記資料から明らかにしたとても面白い一冊。 ほぼ、小野宮右大臣藤原実資の日記「小野宮右大臣日記(小右記)」から採られているが藤原実資は権力に阿らない公明正大な人柄から「賢人右府」と呼ばれ、平安時代屈指の能臣として知られる人物なので、その記述内容は抜群の信頼度があるようだ。 望月の欠けたることも~で知られる最高権力者藤原道長とその一族を始め、天皇、王族、貴族、女房たちや従者たちに至るまで様々な人々による殴打、拉致、監禁、虐待、殺人、強姦、集団でのリンチなど多岐に渡る暴力事件が紹介されている。中でも藤原道長の一族は当時の権勢を背景にして、やりたい放題だった。道

    「殴り合う貴族たち」繁田 信一 著
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    kousyou 2014/09/01
    ブログの過去記事(2013年2月)です。
  • 源頼朝死後の権力闘争粛清バトルロワイアルまとめ | Kousyoublog

    建久一〇年(一一九九)、源頼朝が死んだ。死因には落馬説、病死説、暗殺説、果ては怨霊説まで諸説あり確かなことはわかっていない。しかし誕生まもない東国武家政権にとって偉大な指導者の死はすなわち政権を揺るがす大事件であり、以後権力を巡って御家人たちの間で、血で血を洗う戦いが始まった。1) 正治元年(一一九九)四月:「十三人の合議制」成立十八歳にして第二代将軍となった頼朝の嫡子源頼家だったが、若い後継者の常か事あるごとに強権を発動しようとしたため、頼家の親裁を止めて、十三人の有力者からなる合議制で政権運営を行うことが定められた。そのメンバーは以下の通りである。外戚:北条時政、北条義時、比企能員 武士:和田義盛(侍所別当)、梶原景時(侍所所司)、安達盛長、足立遠元、三浦義澄、八田知家 文官:大江広元(政所別当)、三善康信(問注所執事)、二階堂行政、中原親能北条時政・義時親子は頼朝の政子の父と弟、比

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    kousyou 2014/09/01
    ブログの過去記事(2012年11月)です。