織田信長は、なんでも自分ひとりで決断して実行するというイメージがあります。参謀とか相談役が存在していたのかどうかは不明です。 これは信長は日記とか自分の考えを書物に残さなかったことが原因ですが、師とする人物がいたことは確かです。 ポルトガルの宣教師から西洋の進んだ文明を教えられ、信長は驚嘆しました。信長が自ずから豪華な食事を宣教師の前に運ぶほど、尊敬の念を表しました。 茶道の師である千利休に対しては、信長は弟子という立場で接していました。 大名の嫡子であった信長は、幼少より「若様」と敬われ恐れられていたので、千利休にズケズケと説教されることに、新鮮な喜びを感じていたようです。 これらのことから、気性の激しい性格の信長ですが、優れた人物に対しては粗暴ではなく、たいへん尊重していたことがわかります。 少年時代の師は、沢彦宗恩 信長の幼名は、吉法師(きっぽうし)です。「信長」の元服名の名付け親が