キニー・コーヴェル @kinee_tapioka 昨日で会社を退職する同僚がいて、彼はフィリピンに帰るので「また会いましょうというには遠く、きっと人生で会うのはこれが最後になると思うんです、だからこそ、ちゃんとさよならを伝えたい、たまに思い出す機会があれば、その度にあなたの幸せを祈っています」と言ってお互いさよならを言い合った。 2024-01-18 09:27:26
![フィリピン人の同僚が帰国する際に残した別れの言葉がまるで李白の漢詩だった話…「たまに思い出す機会があればあなたの幸せを祈ってます」](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/15b07b78d8032e982ba09c946bc234899b5c8d84/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.tgstc.com%2Fogp3%2Fa697aa885dc6b916c5203d5f2574711c-1200x630.jpeg)
連続強盗事件の黒幕ルフィが自慢する「EXIT兼近は俺にダマされて捕まった」恐怖と脅迫で“闇バイト”をフィリピンから操る手口 社会・政治FLASH編集部 記事投稿日:2023.01.29 06:00 最終更新日:2023.01.31 16:55 「僕は、“ルフィ”の子分でしたよ。暴力、根性焼き、食事の取り上げ…彼らの恐怖支配はすさまじいものでした」 と語るのは、現在、特殊詐欺に加担した罪で、国内の刑務所に服役するKさんだ。 昨年から全国で10件以上も発生している連続強盗事件。東京・狛江市では、大塩衣与さん(享年90)が殴打され、亡くなるという強盗殺人事件にまで発展している。 【関連記事:EXIT「兼近大樹」の父親がリフォーム工事をめぐり裁判沙汰】 「実行犯らは次々と逮捕されており、犯行の実態が徐々に明らかになってきました。彼らは、ネット上で募集される“闇バイト”に応募してきた寄せ集め。黒幕は
フィリピンの作家フランシスコ・ショニール・ホセ(Francisco Sionil José)さんが2022年1月6日に亡くなった。97歳だった。日本で言えば文化功労章にあたるフィリピンのナショナル・アーティストの称号を持ち、アジアのノーベル賞とされるマグサイサイ賞のほか、2001年には日本政府から勲三等瑞宝章を授与された。「仮面の群れ」「民衆」などフィリピン近現代の苦悩を描いた代表作が日本を含む多くの国で翻訳されている。 亡くなってから少し時間がたったが、改めてホセさんについて書いておきたいと思ったのは、私の見た限り日本の新聞やマスメディアが訃報を伝えていないからだ。東南アジアの社会や文化に対して日本人の関心が薄れていると常日頃感じている私は、戦中から戦後にかけて日本と深くかかわったこの作家の記憶を少しでも留めておきたいと考えた。 日本軍兵士からビンタの過去 ホセさんはマニラの歓楽街エルミ
俳優の秋元才加さん(32)は父が日本人で、母がフィリピン人。二つの文化がぶつかり合う家庭で育ち、「人って基本、分かり合えないもの」と学びました。だから、人が自分と違っていても、あまり気にならないと言います。 日本に住む外国人が増えると、トラブルが多くなると心配する人は少なくありません。ただ、秋元さんの目には、日本人は「違和感への耐性」が低いようにも映るそうです。 それはどういう意味なのでしょうか。秋元さんに外国人との「共生」のヒントを聞きました。(聞き手・中村靖三郎、写真・山本和生) あきもと・さやか 1988年生まれ。2006~13年、アイドルグループ・AKB48で活躍。今年公開の「山猫は眠らない8 暗殺者の終幕」でハリウッドデビュー。14年からフィリピン観光親善大使。 ――AKB48に入って、すぐにフィリピン人と日本人のミックスだと公言しました。 いろんなメンバーがいる中で、二つの国
私たちを乗せた飛行機はパキスタンのカラチ空港で給油し、二十時間ほどのフライトでバグダッド空港に着いた。 タラップを降りたとたん、私は激しい息苦しさを覚えた。 私がアルバイトでイラクの建設現場に行くことになったのは、1980年の七月半ばのことだった。サダム・フセインが大統領になった翌年である。当時、大学を中退した私は、金がなくなると高田馬場の職安前の公園内にできる寄せ場に行き、日雇い労働で食いつなぐ生活をしていた。 そんなある時、顔馴染みの手配師が、「にいちゃん、外国の現場があるんだけど、行かねかぇかい?金はいいよ」と誘ってきた。聞くと、契約期間は七月末から三か月。旅費は勿論、衣食住付きで三百万円を支払う。仕事は日本の大手建設会社が建てているビルに資材を運び入れる外国人労働者の監督をするのが仕事だという。 「こんなにうまい話があるのかな……」と多少疑心暗鬼にはなったが、「前金として百万円払う
新世代の小説や映画を続々発表、タイ・ポストモダンのカリスマとなったプラープダー・ユン。そんな流行作家も30代半ばを迎え、精神的危機に直面する。バンコクの喧騒を離れ自然と触れる旅に出… 新世代の小説や映画を続々発表、タイ・ポストモダンのカリスマとなったプラープダー・ユン。そんな流行作家も30代半ばを迎え、精神的危機に直面する。バンコクの喧騒を離れ自然と触れる旅に出た作家だが、新しい経験と出会うことができず、旅の失敗を危惧する。そんな折、フィリピンの作家たちとの交歓で話題に上った「黒魔術の島・シキホール島」。興味をもった彼は即座に渡航を決意する。魔女や祈祷師との対面、そして島で暮らす人々との交流のなかで再発見したのは、かつて親しんでいたスピノザやソローの哲学だった。「新しい目」で世界と出会う、小説でも哲学でもある思考の旅の軌跡。 ありのままのこの世界こそ神秘聖なるものとは何か。神秘は存在するの
フィリピン人と結婚したんだが、適当に愚痴る。 結婚して宗教について知ったが、エホバの証人だった。クリスチャンとは聞いていたので、たまに教会に行くならいいかくらいの気持ちだったが、週2回スーツで集会に出るとは聞いてないぞ。仕事は私服で行ってるのに、スーツ着るとかだるすぎな。個人学習で毎週結構な時間取られるのもつらい。宗教に抵抗感ない方だが、矛盾点多すぎてまったく頭に入っていかないし、まぁほどほどに付き合って、宗教に関しては徐々にフェードアウトをしていこうと思う。すまんが、わいは楽園には行けない。 怒ると気性が荒くなるの止めてくれ。何かに取り付かれたとかと思ってビビるわ。これはフィリピン人の性格なのか。思ってることはっきり言ってくれるのはありがたいが、夜中でも叫ぶように怒るのはのは周りに迷惑なので止めてほしい。あと、束縛激しすぎないか。これはフィリピンのテレビが悪いよな。浮気を煽るドラマとかバ
この画像を大きなサイズで見るimage credit:Topher Quinto Burgos/Rita Gaviola Instagram 人の運命はどこでどう変わるかはわからない。シンデレラのように人生が変わる瞬間は、適切な場所やタイミングが重なってこそ、起こり得るものなのかもしれない。 フィリピンのある町でストリートチルドレンだった1人の少女が、ふとしたことがきっかけで有名ブランドのモデルに転身した。 彼女の運命を変えるきっかけとなったのは、写真家が撮影した少女の物乞いの姿がインターネット上で拡散したことだった。 4年前、少女はストリートチルドレンだった 4年前の2016年、リタ・ガヴィオラはフィリピンのケソン県のルクバンという町にいたストリートチルドレンの1人だった。 リタが13歳だった時、リタの父親は、ゴミ収集人として働いていたが生活が苦しく、母親はリタを含め5人の子育てに明け暮
人気漫画を無断で掲載していた海賊版サイト「漫画村」をめぐる著作権法違反事件で、同法違反容疑で逮捕状が出ていた運営者とされる星野路実(ろみ)容疑者(27)が24日午前、拘束されていたフィリピンを出国した。星野容疑者とはどのような人物なのか。約2年にわたって漫画村の実態を探る取材を続けてきた記者に、容疑者の母親が語った。 今年7月9日。フィリピン入国管理局が、香港に出国しようとした星野容疑者を空港で拘束したと突然発表した。漫画村が刑事事件として新たな展開を迎えた瞬間だった。 話はそれから10カ月前にさかのぼる。 フィリピンの首都マニラの空の玄関口、ニノイ・アキノ国際空港。数年ぶりに母親の前に姿を見せた息子は、以前よりもほっそりと痩せていた。 「元気だった?」 息子は母親の姿を見つけ、屈託のない笑顔で語りかけた。「息子」とは、星野容疑者のこと。昨年9月のことだ。 母親は息子に会うために単身…
戦前にフィリピンに渡った日本人と現地の女性の間に生まれ、戦争の混乱で父親と離別したフィリピン残留日本人2世の日本国籍取得が200件を超えた。新たに戸籍をつくる「就籍」の手法が使われているが、証拠が不十分として不許可となり、無国籍状態の人もいる。戦後73年目、2世の高齢化は進むばかりだ。残された時間は少ない。(編集委員・大久保真紀) 「私のアイデンティティーは空っぽです」 フィリピン南部ミンダナオ島ダバオから車で約3時間、海沿いの町マビニで雑貨店を営むメラニオ・アウステロ・タクミさん(76)は訴えた。 「タクミ」はもともと、戦前フィリピンに渡り農園で大工をしていた日本人の父の名だという。父は1939年にフィリピン人の母と結婚し、40年に長男の「イチロウ」、42年にタクミさんが生まれた。翌年に生まれた妹が母のおなかにいるとき、消息不明になり、兄と妹は戦争中に家族で逃げた山中で死亡した。 タクミ
ベトナム中部ダナンで開催されるAPEC首脳会議の関連イベントで演説するフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領(2017年11月9日撮影)。(c)AFP/HOANG DINH Nam 【11月10日 AFP】ベトナムを訪問しているフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は9日、ベトナムで暮らすフィリピン人の会合で演説し、自身が10代の頃に人を刺し殺したことがあると発言した。 ドゥテルテ氏はアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席するために訪れているダナン(Danang)で「10代の頃は刑務所を出たり入ったりしていたものだった。そこかしこでけんかしていた」「16歳の時には既に人を殺していた。本物の人間をだ。けんかで刺した」と語った。 ドゥテルテ氏は昨年の大統領選で、麻薬の違法取引を撲滅するために最大10万人を殺害するという前代未聞の取り締まりを公約に掲
人生も半ばを過ぎてようやくわかったことがある。それは「逢いたい」だの「好き」だのといったホステスの甘い言葉は、真に受けてはいけないということだ。 「は? その歳でようやく? バカじゃないの」という冷ややかな声が聞こえてきそうだ。いかにも。バカなおじさんであることは自覚している。 だが、経験者だからこそ、放っておけないということもあるのである。ましてやその人物が、まだそれほど社会を知らない人間ならばなおのこと。 ここにひとりの青年がいる。親しみを込めて、「ナカシマくん」と呼ぶことにしよう。地方都市のごく平均的な家庭に生まれ、地元の大学の大学院で国際関係学を専攻する真面目な好青年だ。 そんなナカシマくんがある時、恋をした。「よかったな、やるじゃんナカシマくん!」普通だったら肩を叩いて祝福するところだろう。 だが、ナカシマくんが「実は……」と口を開いた途端、おじさんの顔色は変わるのだ。 「実は…
電通の女性社員の自殺が労災認定されたニュースをきっかけに、長時間労働の問題が注目を集めている。そんな中、2014年に心不全で亡くなったフィリピン人の外国人技能実習生が過労死認定されるというニュースが流れた。 外国人技能実習生制度を「現代の奴隷制度」と非難する論調はかねてより根強くあったものの、このニュースを受けて「企業名を明かすべきだ」「日本の長時間労働文化の犠牲者だ」という指摘が数多く見受けられた。しかし、現場の実情を熟知した上で企業や制度を批判している人はそう多くないのではないか。 かつて、私は外国人技能実習生制度に基づく機関に関わっていた。技能実習生に関わる団体設立の申請や関係機関との折衝、外国人技能実習生候補数百名の海外現地面接もした。 現場を見ると、「長時間労働を課した企業名を明かして、当該企業をつるし上げる」ということだけでは技能実習生制度の課題点は改められないばかりか、実習生
「癒しを求めて」 「極上のセカンドライフを楽しむ」 「ゆったりと海外生活」 パンフレットには謳い文句が踊る。東京ビッグサイトの会場で行われた「ロングステイフェア2012」には、海外移住を考える大勢の高齢者が詰めかけていた。著者が到着した午前10時の時点で、入口にはすでに行列ができあがっていたという。 東南アジアの人気は根強い。年金の範囲である程度充実した生活ができ、気候も温暖、地理的にも近いとなれば、現実的な候補になるのも頷ける。中でも本書の舞台であるフィリピンは、永住に必要なビザの取得が比較的容易なこと、物価が日本の3分の1から5分の1程度と安いことなどを理由に高い支持を集めている。 外務省の海外在留邦人数調査統計によると、東南アジア諸国の在留邦人数は、多い順にタイ、シンガポール、マレーシアときて、フィリピンは4番目である。だが永住者数においては、フィリピンが2位以下に比較的差をつけてト
来月2日、アメリカのラスベガスでボクシングの「世紀の一戦」が行われます。無敗のまま5階級を制したアメリカのメイウェザー選手と6階級を制したフィリピンのパッキャオ選手の対戦です。パッキャオ選手の故郷、フィリピン南部のミンダナオ島の人々は、この「世紀の一戦」を特別な思いで見守っています。 「フィリピンの英雄」としてパッキャオ選手が人々から尊敬を集める理由はそのサクセスストーリーだけでなく、人柄にもあります。1試合で数十億円ともいわれるファイトマネーを手にするほどの成功を収めたあとも地元に住み続け、人々の暮らしを支援しているのです。病院や図書館、公民館を建設し、幼少時代を過ごした村には150棟の住宅を寄付しました。 パッキャオ選手のボクシングジムは今、かつての自分と同じ境遇の少年たちのためにと無料で開放されています。そのジムでプロを目指す16歳のヴィンス・パラス君には一生、忘れられない思い出があ
小野田寛郎さんが91歳で亡くなってから1週間がたった。じつは、私の父・津田信は、1974年に小野田寛郎さんがルバング島から帰還したとき、小説を一時的に書かなくなって、『週刊現代』などの週刊誌のアンカー原稿を書いていた。その縁で小野田さんの手記のゴーストライターとなり、『週刊現代』に「わがルバング島の30年戦争」(のちに講談社から出版された)を連載した。そして、それから3年後、小野田手記は小野田さんが話したことを脚色したものであることを、『幻想の英雄』という本で明らかにした。 当時、私は大学生で、世間が小野田さんの帰還に大騒ぎをしているのは知っていたが、まさか父親が手記を代筆しているとは知らなかった。もとより、「最後の日本兵」と言われてもピンと来なかった。 それが、あるとき、父から頼まれて「着替えを持ってきてほしい」ということで、一気に小野田さんが身近な存在になった。というのは、父は手記を書
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く