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ブックマーク / call-of-history.com (393)

  • 『中世の異端者たち (世界史リブレット 20)』甚野尚志 著

    山川出版社の世界史リブレットはテーマ毎に基事項がコンパクトに大体80~90ページほどでまとまったシリーズで、書は同シリーズのヨーロッパ史のテーマを扱ったものとしてはナンバリングが一番若い。 中世ヨーロッパ史について学ぶ上で何から押さえていくかというとき、異端の問題、すなわちキリスト教の布教によってローマ・カトリック教会を頂点とした秩序が形成される中で正統と異端とはどのように現れてきたのか?から始めるのは重要な入り方の一つであると思う。 中世の異端というのは単純に教義の対立によってだけではなく、ローマ・カトリック教会との関係性、すなわち服従するか否かによって異端として断罪される。いわゆる「不服従の異端」が主流となっていくので、その教会の権力が確立して、異端と呼ばれた人々はいかにして異端とされるようになったのかを理解していくと、中世ヨーロッパ社会の在り方の一端を見ることができるし、そのあり

    『中世の異端者たち (世界史リブレット 20)』甚野尚志 著
  • ジャンヌ・ダルクの生年月日が1412年1月6日になるまでの経緯

    ジャンヌ・ダルクの生年月日は1412年1月6日であるとされるが、史料による直接的な記述に基づくものではない。 1412年生まれなのか?生年についてはジャンヌ・ダルクの処刑裁判での証言に基づいている。 フランス・ノルマンディ地方の主邑ルーアンで行われたジャンヌ・ダルク裁判の、1431年2月21日の第一回審理で、以下のように供述がされている。 『現在何歳かと問うと、十九歳だと思うと答えた。』(注1) 彼女は自身の正しい生年月日を知っているわけではなく、この証言をもとに遡って1412年が彼女の生年であると考えられた。 当時は誕生日を祝う習慣がないので生年月日を詳しく知らないのは一般的なことであり、逆に生年月日を知っている方が、怪しい占星術などにこだわっていると疑われるほどである。当時の農村社会だと、人々は自身の年齢については15歳、20歳などとキリのよい年齢を言うにとどまる(注2)。例えば四十代

    ジャンヌ・ダルクの生年月日が1412年1月6日になるまでの経緯
  • 『図説 中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』マーティン J.ドアティ 著

    中世ヨーロッパ(五世紀末~十五世紀末)期の戦争に関わる様々な事柄を豊富な図像を交えて網羅的に解説した一冊。 中世ヨーロッパの戦争というと、重装備の華やかな騎士のイメージばかりが先行するが、中世の戦争の多くは政治的・経済的利益を目的とした貴族同士の領地争いや利権の奪い合いであり、野戦よりも攻城戦や拠点の襲撃などが大半であった。その中で、戦闘を担う軍隊の構成として騎兵、歩兵、投射兵、工兵の四つが発展した。書ではその四種について章立てられて、それぞれの発展の歴史歴史的位置付け、戦術、装備、個々の戦闘技術が具体的な戦闘例や図案とともに説明されている。 騎兵だけ歩兵だけの軍隊というのはまずありえない。野戦にしても攻城戦にしても騎兵、歩兵、投射兵、工兵が混合部隊を形成することになるが、この指揮命令系統を確立するのは至難の業だった。諸兵科連合などと呼ばれる軍制が確立するのは近世以降のことで、中世ヨー

    『図説 中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』マーティン J.ドアティ 著
  • イングランド王妃エマ・オブ・ノルマンディーの遺骨が発見

    エマ・オブ・ノルマンディ(980頃~1052)はノルマンディー公リシャール1世の娘で、1002年、デーン人の侵攻に対抗してノルマンディー公の協力を得たいイングランド王エゼルレッド2世(在位979~1013,1014~16)の求めに応じて妃として迎えられます。結婚後、後のイングランド王エドワード証聖王(在位1042~66)を産み、1017年、イングランド王となったデーン人の王クヌート(在位1016~35)の求めに応じて再婚、デーン朝北海帝国(イングランド、デンマーク、ノルウェーの同君連合、1016~42)最後の王ハーデクヌーズ(在位1040~42)を産みました。 後にイングランドに侵攻してノルマン朝を創始するノルマンディー公ギヨーム2世(征服王ウィリアム1世、在位1066~87)の叔母にあたり、この縁戚関係がウィリアムによるイングランド王位請求理由のひとつでもありました。アングロ・サクソン王

    イングランド王妃エマ・オブ・ノルマンディーの遺骨が発見
  • アイルランドの国宝『ケルズの書』とは何か

    ブリテン諸島へ最初にキリスト教が伝播したのがいつごろかはよくわからない。中世以降に広まった伝承としては、西暦63年、キリストの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフがグラストンベリに教会堂を創始したことに始まるとする物語や、166年、ブリタニア... 五世紀から六世紀にかけて、アイルランドを中心としたブリテン諸島へのキリスト教布教が進み、修道院・教会での典礼用に福音書の大型写が作成されるようになった。アイルランドでは六世紀から七世紀にかけて写に文字の縁取りなど装飾が施されるようになり、七世紀後半から特徴的な組紐模様が登場、『ダロウの書』では動物的な形態や抽象的な要素が取り入れられ、渦巻模様と組み合わされて洗練されていった。 このような組紐模様、動物的形態、渦巻模様などはラ・テーヌ期の工芸品などにも共通することから、十九世紀以降古代ケルト人の文化と結びつけられ『晩期ケルト美術』と呼ばれるよう

    アイルランドの国宝『ケルズの書』とは何か
  • 『ジャガイモのきた道―文明・飢饉・戦争 (岩波新書)』山本紀夫 著

    南米アンデス地方で栽培され、大航海時代にヨーロッパにわたり、そこから世界中へ広がって、今や全世界の卓に並ぶ、日でも肉じゃが、カレー、コロッケ、フライドポテトなどなどなど今や生活に欠かせないジャガイモの歴史を辿る一冊。2008年の発売以来、売れ続けるロングセラーで最早名著としての評価は揺るぎないように見える。 実際、全世界的に広まった物をテーマにして世界史を一望するというのは良いが出やすい。栽培した人々、彼らをとりまく社会状況、流通させるシステム、商取引と経済、拡大した要因、伝播の過程、流入先に及ぼした影響、文化の変容や現代社会におけるその物の位置づけ・・・などなど多面的に描きやすく、その分析手法としても様々な選択肢があるからだ。同様の良書として、例えば川北稔著『砂糖の世界史』が名高い。 1996年の発売以来売れ続けている世界史入門定番の一冊。砂糖の広がりを通じて様々な地域が

    『ジャガイモのきた道―文明・飢饉・戦争 (岩波新書)』山本紀夫 著
  • アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)の興亡

    七王国時代の開幕ブリトン人に代わってブリタニアの支配的勢力となったアングロ=サクソン諸族は六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――ケント(” Kent “)、エセックス(” Essex “)、サセックス(” Sussex “)、ウェセックス(” Wessex “)、イースト・アングリア(” East Anglia “)、マーシア(” Mercia “)、ノーサンブリア(” Northumblia “)――が次々栄え、覇を競ったことから七王国(” Heptarchy “、ヘプターキー)時代(注1)と呼ばれる。ただし七つの王国だけでなく中小様々な王国も存立しておよそ二十の勢力が割拠していた。 ポスト・ローマ期とは以下のように定義される。 『「ポスト・ローマ」とは、皇帝権がのちにヨーロッパとなる地域から消滅した5世紀末から、8世紀末年の

    アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)の興亡
  • 『英国王室史話』森護 著

    ウィリアム1世からジョージ6世まで、ノルマン朝以降の歴代イングランド王・グレートブリテン王列伝である。630頁を超える大著で、ボリュームといい情報の網羅性といい質といい、1986年の発売以来三十年余り、未だにこれを超えるものは出ていない。自分が持っているのは単行の方だが、中公文庫から上下巻で文庫版が出ている。同著者の『スコットランド王国史話』(大修館書店1988年刊、中公文庫2002年)および『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)で歴代ブリテン島君主・王族の基情報はほぼカヴァーできる。 古いではあるが、内容はそこまで古びてはいない。例えば、近年再評価著しいジョン欠地王についても『最近の史家の研究では、決定版ではないにしても、かなりその名誉は挽回されてきており、偉大な父王ヘンリー二世の四人の男子のうち、父にもっとも近い素質を持った後継者はジョンであるとさえ断言している。悪王の代表

    『英国王室史話』森護 著
  • 『アメリカ合衆国史(1) 植民地から建国へ――19世紀初頭まで』和田光弘 著

    2019年4月より刊行が開始された岩波新書の「シリーズ アメリカ合衆国史」第一巻。書冒頭の「刊行にあたって」によると、シリーズは以下全四巻で構成されることになるという。 (1)『植民地から建国へ――19世紀初頭まで』和田光弘 著 (2)『南北戦争の時代――19世紀』貴堂嘉之 著 (3)『20世紀アメリカニズムの夢――世紀転換期から一九七〇年代』中野耕太郎 著 (4)『グローバル時代のアメリカ――冷戦時代から21世紀』古矢旬 著 第一巻である書では、先住民時代からはじまって植民地時代を経て独立戦争、1812~14年の米英戦争までの歴史が描かれる。 書の特徴として、第一に、植民地時代をアメリカ合衆国史の前史としてではなく、近年重視されている「大西洋史(アトランティック・ヒストリー)」の中に位置づけて描いている点がある。 「大西洋史」とは『大西洋を囲む四大陸――南北アメリカ大陸、ヨーロッ

    『アメリカ合衆国史(1) 植民地から建国へ――19世紀初頭まで』和田光弘 著
  • 『図説 十字軍 (ふくろうの本/世界の歴史) 』櫻井康人 著

    豊富な図版と手堅くわかりやすいコンパクトにまとまった記述に定評のある河出書房新社の「ふくろうの」シリーズから2019年に出た「図説 十字軍」である。 十字軍というと、獅子心王リチャード1世とサラディンが名勝負を繰り広げた第三回十字軍やコンスタンティノープルで破壊の限りを尽くした悪名高い第四回十字軍など西アジアでの対イスラーム十字軍のイメージが強く、学校教育でも『西欧キリスト教勢力がイスラームの支配下に入ったイェルサレムを奪還するためにおこした軍事遠征。(中略)正式には計7回の遠征が行われたが、第1回十字軍の成功以後はその大義を失った』(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集』(山川出版社,2014年,98頁))と教えられているが、十字軍研究では十字軍は対イスラームに限らず、また時間的にももっと長期に取るようになっている。 著者は書の『プロローグ「十字軍」とは何であったのか?』で上記の世

    『図説 十字軍 (ふくろうの本/世界の歴史) 』櫻井康人 著
  • 『ブリュージュ―フランドルの輝ける宝石 (中公新書) 』河原温 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ブリュージュ(ブルッヘ)はベルギーの主要都市で「北方のヴェネツィア」とも呼ばれ、中心街区が「ブルッヘ歴史地区」として世界文化遺産にも登録されている中世以来の歴史ある都市である。書ではそのブリュージュの歴史文化を、十~十五世紀の中世期を中心に現代まで丁寧に描く一冊となっている。 ブリュージュは、十二世紀、中世フランス有数の諸侯フランドル伯領の有力都市として商業ネットワークの中心となり、特に十三世紀以降シャンパーニュの太市で知られたシャンパーニュが衰退すると南北ヨーロッパの交易を仲介するようになり大いに栄えた。十四世紀、フランドル伯領がブルゴーニュ公国に併合されると十五世紀の西欧で最も富裕だったブルゴーニュ公のお膝元として、経済だけでなく文化・芸術の中心地としてその名を知られる。 「第1章 誕生」ではフランドル地方発展の過程で十一世紀頃から、イングランドからの羊毛の輸送とフランス西海岸から

    『ブリュージュ―フランドルの輝ける宝石 (中公新書) 』河原温 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』岡地稔著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    大王、禿頭王、肥満王、吃音王、短軀王、赤髭王、血斧王、征服王、碩学王、賢明王、敬虔王、獅子王、獅子心王、欠地王、聖王、悪王、残虐王、善良王に端麗王・・・中世ヨーロッパの王侯貴族はなぜ「あだ名」がついているのだろうか。それに、シャルル、ルイ、フィリップ、アンリ、ジャン、カール、ルートヴィヒ、ハインリヒ、オットー、フリードリヒ、ウィリアム、ヘンリ、リチャード、エドワード・・・同じ名前の違う人物が何度も何度も繰り返し出てくるのも不思議ではないだろうか。なぜシャルルの子もシャルルでオットーの子もオットーでエドワードの子もエドワードなのだろうか。 書ではそのような中世ヨーロッパの名前の付け方や「あだ名」の流行から、彼らの家門意識の成立過程を非常に丁寧に史料を読み解き、紐解いていく好著である。 書によれば史料に残る限りで「あだ名」がつけられた王侯貴族はメロヴィング朝末期からカロリング朝期(八世紀)

    『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』岡地稔著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • ピピン3世~カロリング朝の創始と「ピピンの寄進」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    権力を集中させフランク王国に君臨したカール・マルテルは、その死に際してカールマン、ピピン3世、グリフォの三人の子に王国を分割して相続したが、741年、父の死の直後カールマンが異母兄弟グリフォを襲って幽閉すると、グリフォの相続分を弟ピピン3世と分割し、西側ネウストリアをカールマンが、東側アウストラシアをピピン3世がそれぞれ宮宰として治め、743年、二人は737年から空位となっていたフランク王にメロヴィング王家からキルデリク3世(在位737~751年)をつけて自身の統治を正当化し、フランク王国は二分された。(注2) 先代カール・マルテルの保護を受けてゲルマン人への布教を勧めていた司教ボニファティウスはカールマンの保護下でヴェルツブルク、ビューラブルク、エルフルト、アイヒシュテットの各司教座を設立するなどフランク王国の司教たちを統制下におき教会会議を繰り返し主催したが、ピピンはボニファティウスが

    ピピン3世~カロリング朝の創始と「ピピンの寄進」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 中世ヨーロッパの異教的な信仰・風習・迷信のまとめ

    中世ヨーロッパでは七世紀末頃からカロリング朝フランク王国の支援を背景としてゲルマン人へのキリスト教布教が進んだが、改宗してもキリスト教化は徹底されず、多神教や自然崇拝による異教的伝統文化も色濃く残ることとなった。 その異教的な伝統がどのようなものであったかは、教会側の史料に概ね禁令として多く残されている。1020年頃ヴォルムスの司教ブルカルドゥスによって書かれた『教令集』の中の贖罪規定にある異教的慣習、迷信、魔術に関する記述を野口洋二著『中世ヨーロッパの異教・迷信・魔術』(早稲田大学出版部,2016年)を参照して簡単にまとめ。なお、一般的な魔女に関わる例はここでは割愛した。 異教的な信仰・習慣・天、地、太陽、月にかけて誓う ・諸元素、太陽、月、新月や月、星の動きを崇拝 ・泉、石、樹木や十字路に行き、ロウソクや松明を燃やしてパンやその他供物を捧げて、そこでべたり、身体や心の治癒を祈る ・

    中世ヨーロッパの異教的な信仰・風習・迷信のまとめ
  • 中世ヨーロッパの異教伝承「マゴニアの空飛ぶ船と嵐を起こす者」

    「マゴニアの空飛ぶ船と嵐を起こす者vs守護者」中世ヨーロッパの庶民の間で信じられていた異教的な言い伝えに「嵐を起こす者」がある。 九世紀前半、フランス東南部リヨンの大司教アゴバルドゥス(769年生、在任816~840年)(注1)は『霰や雷に対する愚かな信心を論駁す』で『この地域では、貴族や庶民、町に住む者や田舎に住む者、年寄りや若者など、ほとんどすべての人々が、霰や雷は人間が思うままに起こすことができると考えている』(注2)として詳しく紹介し批判した。以下野口洋二著『中世ヨーロッパの異教・迷信・魔術』(早稲田大学出版部,2016年)74-78頁より。 アゴバルドゥスによれば、人々は「嵐を起こす者(テンペスタリウス”Tempestarius”あるいはテンペスタリイ”tempestarii”)」が呪文によって雷や雷鳴を起こすと信じており、マゴニア(Magonia)とよばれる空想上の土地から空飛

    中世ヨーロッパの異教伝承「マゴニアの空飛ぶ船と嵐を起こす者」
  • 中世ヨーロッパの「十分の一税」とは何か

    十分の一税は中世ヨーロッパで教会の維持や聖職者の生計のために各教区の農民から生産物の十分の一を徴収した貢租のこと。 十分の一税の起源十分の一税の起源は聖書の記述にあるイスラエル人の慣習に遡る。 『彼はアブラムを祝福して言った。 「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。 敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。』(新共同訳[創世記14.19-20]) 『わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。』(新共同訳[創世記28. 22]) 『土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。もし、十分の一を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一につ

    中世ヨーロッパの「十分の一税」とは何か
  • 早過ぎた打ち切りが惜しまれる『デゾルドル』(岡児志太郎 作)感想

    ジャンヌ・ダルクの死までが序章で、そこからジャンヌの死という大きな犠牲を経てルーヴの目を通して暴力の応酬が一時的ではあっても収束していく過程を見つめる編が始まるはずだったのでしょう。そうしてみるといくつもの伏線が二巻前半までで張られていました。 ジャンヌ・ダルク『この戦争を終わらせて傭兵を必要としないフランスを作るの。それが・・・傭兵として生まれたあなたの運命に対するあなた自身の戦いでもあるはずだから』(一巻126-127ページ) ヨランド・ダラゴン『このフランスの暴力という名の混沌を統べることができるのはより巨大な混沌・・・・・・』(二巻97ページ) 歴史上の百年戦争の意義はまさに中世的国家から近世的国家への移行過程であったという点を踏まえるなら、作は歴史の変化そのものをテーマとした壮大なものだったと言えるでしょう。 丁寧な考証が光る日刀が出てきたりダイナミックな嘘が沢山ありますが

    早過ぎた打ち切りが惜しまれる『デゾルドル』(岡児志太郎 作)感想
  • カール・マルテルと見直される「トゥール・ポワティエ間の戦い」の意義 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    カール・マルテル(独:Karl Martell,英・仏:Charles Martel ,689年生~741年没)は父・ピピン2世(中ピピン)の死後フランク王国のアウストラシア、ネウストリア、ブルグント分王国の宮宰を兼ね、弱体化したメロヴィング王家に代わってフランク王国の実権を掌握したカロリング家の人物。イスラーム勢力の撃退や封建的軍隊の整備などの功績で知られ、彼を継承したピピン3世(小ピピン)はメロヴィング朝を廃し、カロリング朝を創始した。マルテルは鉄槌を意味する異名。 フランク王国の分裂とカロリング家の台頭西ローマ帝国の崩壊後、クローヴィス率いるフランク人によってガリア地域一帯にメロヴィング朝フランク王国が建国されるが、クローヴィス王死後、王国は分割相続され、六世紀末までにアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの三分王国による分裂が常態となった。分王国間の抗争や地方豪族の台頭と反乱が繰

    カール・マルテルと見直される「トゥール・ポワティエ間の戦い」の意義 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • ブリテン諸島へのキリスト教布教の歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ブリテン諸島へ最初にキリスト教が伝播したのがいつごろかはよくわからない。中世以降に広まった伝承としては、西暦63年、キリストの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフがグラストンベリに教会堂を創始したことに始まるとする物語や、166年、ブリタニア王ルキウスの要請に応じたローマ教皇エレウテリウスが2名の宣教師を派遣したことを起源とする物語などがあるが、いずれも架空の物語にすぎない。 ローマ属州時代三世紀から四世紀頃にかけてのローマ属州時代にある程度広まっていたことは確かで、296年、西方ローマ副帝コンスタンティウス1世がブリタニアで皇帝を僭称していたアレクトゥスを破ったとき、ブリタニアは四つの司教区に分かれていたという。(原聖,183頁) コンスタンティヌス1世によるキリスト教公認直後の314年に開かれたアルル教会会議にはロンドン、ヨーク、ロチェスター各都市の司教が出席、325年の第1ニカイア公会

    ブリテン諸島へのキリスト教布教の歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ノルマン人の北フランス襲来は840年頃から始まり、北海にそそぐ主要河川の河口から内陸へと侵攻、856年から、パリ、シャルトル、エヴルーその他有力諸都市が次々と襲撃・略奪され、多くの修道院や施設が破壊された。 ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、ノルマン人の首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始まる(サン=クレール=シュール=エプト条約)。セーヌ川河口ルーアン地方を領土としてルーアン伯と呼ばれたが、後に西方へ拡大していった。以後ルーアンはノルマンディー公国の首邑であり続ける。 ギヨーム1世長剣公(在位927~942)、リシャール1世無畏公(在位942~996)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立され、リシャール2世(在位996~1026)の時代にノルマンディー公を名乗り、フランス諸侯の中でも屈指の

    ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー