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ブックマーク / call-of-history.com (393)

  • エセルフレド(マーシア女王)

    大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図 credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons ブリテン島中部・南部に割拠したアングロ・サクソン人の諸王国は八世紀後半、ミドランズ地域に栄えたマーシア王国のオファ王が支配的な地位を確立して統一への道を歩み始めた。オファ王死後、ブリテン島南部のウェセックス王国がエグバート王の治世下で勢力を盛り返し、825年、エレンダンの戦いでエグバート王率いるウェセックス王国軍がマーシア王国軍を撃破、以後アングロ・サクソン諸王国はウェセックス王国の下で統一されていく。 九世紀半ばから格化したヴァイキングと呼ばれるスカンディナヴィア半島出身者(ノース人)たちの活動は武力による征服戦争へと発展、865年、ヴァイキングは「

    エセルフレド(マーシア女王)
  • スコットランド王マクベスの虚像と実像 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀頃からアイルランド北部のスコット人がカレドニア地方(現在のスコットランド)へと移住を開始し、九世紀頃までにスコット人と原住民のケルト諸語を話すピクト人やブリトン人、ノース人、デーン人などが混住するようになった(注1)。九世紀半ば頃、スコット人の王ケニス・マカルピン(Kenneth MacAlpin,810-858)の下に統合されたと伝わるが史料が少なくこの頃の経緯は定かではない(注1) (注2)。以後ケニス・マカルピンに始まる王朝はアルバ王国と呼ばれ、後にスコットランド王国へと発展した。 アルバ王国の領土は当初、現在の首都エディンバラやスターリングなどがあるフォース湾沿岸地域を中心にその北部に広がるスペイ川の南にかけての一帯に限られていたが、十世紀から十一世紀初めにかけて徐々に南下して拡大し、マルカム2世(Malcolm II,在位1005-34)

    スコットランド王マクベスの虚像と実像 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 北海諸島の覇者オークニー伯トルフィン・シグルドソン | Call of History ー歴史の呼び声ー

    トルフィンの一族は祖父の代にノルウェーからオークニー諸島に渡って同地で一族支配を確立、父シグルド(Sigurd Hlodvirsson,960頃-1014)はスコットランド王マルカム2世(Malcolm II of Scotland,在位1005-34)の娘をに迎えオークニー伯に叙された。1014年、クロンターフの戦い(注2)で父が戦死すると、幼かったトルフィンはスコットランド宮廷に逃れて庇護下に置かれた。 成人するとマルカム2世の後見を受けてオークニー伯位を継ぎ、現地を実効支配していた二人の異母兄と争って、1020年、オークニーの有力者トルケル・アムンダソン(Thorkel Amundason)と結び長兄エイナル(Einar Sigurdsson)を滅ぼした。1030年、宗主として君臨していたノルウェー王オーラヴ2世(Olaf II Haraldsson,995頃-1030,在位101

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  • 「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1823年2月15日、オックスフォード大学地質学講義室でパヴィランドの赤い貴婦人等について講義をするウィリアム・バックランド(ナサニール・ウィトック画、メトロポリタン美術館収蔵、パブリックドメイン画像) 「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」は1823年1月、オックスフォード大学地質学教授ウィリアム・バックランド(William Buckland,1784-1856)によって発見された。現地で「山羊の穴(Goat’s Hole)」と呼ばれるこの洞窟からは「ウマ、ウシ、シカ、サイ、さらに、象牙や骨で作られた装飾品をともなう人骨の一部が発見」(注2)され、人骨と象牙製の杖とリング、貝殻などの装飾品は埋葬地の赤土の地層により赤く染まっていた。 ウィリアム・バックランドは最初期に発見された恐竜メガロサウルスの化石の発見・命名者としても知られる考古学・古生物

    「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。
  • アーサー王の宮廷キャメロット――語源、伝承、想定の候補地まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    このようなローマ時代への憧憬からクレティアン・ド・トロワがカムルス神あるいはカムロドゥヌムをもじってキャメロットと名付けたといわれる。ただし、コルチェスターとカムロドゥヌムとが結びつけて理解されるようになるのは十八世紀のことで(注1)、キャメロットの名が登場する十二~十三世紀にカムルス神/カムロドゥヌムがどれだけ知名度があったかは大いに疑問があり、カムルス/カムロドゥヌム語源説はあくまで説の一つに留まる。 また、キャメロットの名の初出である「ランスロまたは荷車の騎士」の著者クレティアン・ド・トロワがアーサー王最後の戦いである「カムランの戦い」の地名を改作して名付けたとする説の他、ウェールズ語の「カンボランダ(cambolanda:円形の囲い地の意)」や「カンボグランナ(camboglanna:湾曲した岸、または囲い地)」などに関連付ける説や、「カムランの戦い」の舞台となったとみられるコーン

    アーサー王の宮廷キャメロット――語源、伝承、想定の候補地まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」

    「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」 テュービンゲン大学プレスリリースより/© University of Tübingen

    「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」
  • ルイ9世の下顎

    「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日の社会史に興味があります。

    ルイ9世の下顎
  • 「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見

    イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。

    「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見
  • カーナーヴォン城(Caernarfon Castle)の特徴と歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    カーナーヴォン城はアングルシー島を対岸に臨むメナイ海峡に面したサイオント川河口に建てられているが、この地に最初に城が建てられたのは西暦77年または78年、北ウェールズを征服したローマの将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラによって築かれたセゴンティウム(Segontium)要塞にさかのぼる。セゴンティウム要塞を経由してカーリオンとチェスターを繋ぐ街道(ウェールズでは「ヘレンの道」と呼ばれた、注2)も整備され、交通の要衝として発展する。 後にウェールズ語でカエル・サイオント(Cair Seiont)と呼ばれ、ラテン語” Cair Segeint”の名で830年頃成立の「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」にブリタニアの主要都市の一つとして挙げられている(注3)。 1066年、イングランドを征服したウィリアム1世は北ウェールズにも進出し、ウィリアム1世死後ウィリアム2世時代

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  • エディンバラ城――スコットランド王家歴代の居城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    エディンバラ城(Edinburgh Castle)はスコットランドの首都エディンバラ市にある中世の城。スコットランド王歴代の居城であり天然の要害に立つ堅固な要塞である。「翼の生えた岩の城」「乙女の城」(注1)とも呼ばれ、「英国史上最も包囲を受けた城」と評される(注2)。ユネスコ世界文化遺産「エディンバラの旧市街と新市街(Old and New Towns of Edinburgh)」を構成する建造物の一つ。 城が建つ岩山「キャッスル・ロック」は古くから砦として利用されていたが、エディンバラ城の築城は十一世紀頃とみられている。1130年頃に建てられた城内の「聖マーガレット教会堂」を除くと、現存する城の古い部分は1430年頃から1588年頃にかけて築かれたものが中心である。 エディンバラ城(Edinburgh Castle) © Ronnie Macdonald from Chelmsford

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  • キャリクファーガス城――北アイルランドの要衝の攻防の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十二世紀のアイルランドは諸王国がアイルランドの支配権をかけて争う戦国時代となっていた。アイルランド北西部(北イー・ネール)を支配するマク・ロフリンが宗主権を持つアイルランド上王(High King)として、アイルランド東部を支配するレンスター王ダーモット・マクマロー(英語”Dermod MacMurrough”, アイルランド語” Diarmaid mac Murchadha”)と同盟して最大勢力となっていたが、1166年、アイルランド西部を支配するコナハト王が新たにアイルランド上王に就くと諸勢力を束ねて仇敵レンスター王国へ侵攻する。1167年、王位を追われたダーモット・マクマローはイングランド王ヘンリ2世(在位1154-1189)に助力を請うた。 時のイングランド王ヘンリ2世は元々フランス中西部の有力諸侯アンジュー伯家出身で、婚姻関係や戦争を通じてノルマンディー、アンジュー、ブルターニュ

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  • ニュートン著「プリンシピア」初版本、世界的調査で新たに約200部が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    10年がかりの大規模調査で初版が倍増今回の調査は約10年前、論文の共同執筆者でマンハイム大学(ドイツ経済学部の博士研究員(postdoctoral researcher)であるアンドレイ・スヴォレンチーク( Andrej Svorenčík)博士がカリフォルニア工科大学でフェインゴールド博士の科学史の学生だったときの学期論文(term paper)から始まった。 スロバキア出身のスヴォレンチーク氏は当時の学期論文で、中央ヨーロッパ、特にハプスブルク帝国における『プリンシピア』の分布について書いたが、その主題は初版が自分の出身国まで辿ることができるかどうかということだった。「1950年代の調査では、スロバキア、チェコ共和国、ポーランド、ハンガリーからの出版物は見当たらなかった」が多くの初版を発見することになった。1950年代は冷戦期であり中東欧での調査に限界があったためだ。 そこで指

    ニュートン著「プリンシピア」初版本、世界的調査で新たに約200部が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • スコットランド南部で川底から中世の戦略的要衝となった橋の遺構が見つかる | Call of History ー歴史の呼び声ー

    スコットランド、テヴィオット川のアンクラム古橋の遺構 © Historic Environment Scotland / Ancrum and District Heritage Society スコットランド南部スコティッシュ・ボーダーズを流れるツイード川(River Tweed)の支流テヴィオット川(River Teviot)で、歴史上戦略的・経済的要衝として知られた中世の橋「アンクラム古橋(Ancrum Old Bridge)」の遺構が初めて発見された。 スコットランド政府公共部門「スコットランド歴史環境協会(Historic Environment Scotland, HES)」からの資金提供を受けた「アンクラムおよび地区遺産協会(Ancrum and District Heritage Society, ADHS)」が、年輪年代調査コンサルティング会社「デンドロクロニクル社(De

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  • 大英図書館、歴史的地図資料18000点をデジタル化しパブリックドメイン公開 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    大英図書館(British Library)は、十六世紀から1824年の間に作成された4万点におよぶ地図・図像資料コレクションのうち第一弾として18,000点をパブリックドメインとして公開したことを発表した。 “Hemisphaerium Coeli Australe (Boreale), in quo loca Stellarum fixarum secundum Æquatorem, per ascenciones ad annum 1730 completum, sistuntur, a J.G. Doppelmaiėro; operâ J.B. Homanni.” / Maps K.Top.1.62. 今回公開された資料は英国王ジョージ3世(1738-1820)治世下でまとめられた「王の地形学コレクション” The King’s Topographical Collection

    大英図書館、歴史的地図資料18000点をデジタル化しパブリックドメイン公開 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • オーディンら北欧神話の神々を祀ったノルウェー最古となる八世紀頃の神殿が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    「オーディンのイラスト」(ラディック・ピーチ画、”Murray, Alexander (1874). Manual of Mythology “、パブリックドメイン画像) ノルウェーで八世紀頃の北欧神話の神々を祀った神殿「神の家(ノルウェー語” gudehov ” , 英語godhouse”)」が発見された。調査にあたったベルゲン大学博物館(ノルウェー語”Universitetsmuseet i Bergen” , 英語”University Museum of Bergen”)によると、ノルウェーで発見された同様の神殿としては最古の例となるという。 ノルウェー西部の主要都市オシュタ(Ørsta)に近いオーサ(Ose)村で宅地開発の準備のための発掘調査を行ったところ、約2000~2500年前の農村の跡と八世紀頃の神殿の遺構が発見された。遺構は、長さ約45フィート(14メートル)、幅26フ

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  • 英国シャフツベリー修道院遺跡で石像の頭部が発見。エドワード2世王か? | Call of History ー歴史の呼び声ー

    イングランド南部ドーセット州にあるシャフツベリー修道院(Shaftesbury Abbey)跡を調査していた考古学者のチームが十四世紀頃の石像の頭部を発見した。イングランド王エドワード2世(在位1307-1327年)のものではないかと見られている。 シャフツベリー修道院は888年、アルフレッド大王の名で知られるウェセックス王アルフレッドによって女性のための修道院として創建され、王女の一人エゼルイヴが初代修道院長となった。以後、ウェストミンスター寺院と並ぶイングランド屈指のキリスト教施設として繁栄したが、1539年、宗教改革を進めるイングランド王ヘンリ8世の命で解散・破壊された。 考古学者ジュリアン・リチャーズ氏が率いる発掘チームは2019年夏からシャフツベリー修道院跡の発掘調査を行い、同修道院の構造を明らかにした他、中世の床タイルやコイン、修道女のロザリオの一部だったとみられる黒色ビーズな

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  • 「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。 調査にあたったレディング大学のガボール・トーマス博士は「この男は、当時の他の男性に比べて背が高くがっしりして

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  • 歴史的に貴重な中世アイルランド語写本「リズモアの書」、英国からアイルランドへ帰還 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中世アイルランド文学の重要な写の一つである「リズモアの書」が、現在の持ち主である英国の貴族デヴォンシャー公爵からアイルランドの国立大学ユニバーシティ・カレッジ・コーク(University College Cork, UCC)へ寄贈された。1640年代に戦争で持ち去られて以来、約380年ぶりの返還となる。 「リズモアの書(英語” Book of Lismore “, アイルランド語” Leabhar Leasa Móir “)」は中世のアイルランド南部マンスター地方で最大の領主であったカーベリー領主(Lord of Carbery)の第十代当主フィンギン・マッカーシー・リーク(” Finghin MacCarthy Reagh” , 1478-1505)のために編纂されたゲール(アイルランド)語写である。 リズモアの書に収録されている物語はアイルランドの聖人たちと関連する黙示録の物語、

    歴史的に貴重な中世アイルランド語写本「リズモアの書」、英国からアイルランドへ帰還 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 鉄道建設予定地の中世イングランドの教会跡で悪霊を祓う「魔女の印」が見つかる | Call of History ー歴史の呼び声ー

    イングランド南東部、ロンドンとオックスフォードの間にあるバッキンガムシャー州の村ストーク・マンデヴィルの中世の教会跡で石材に刻まれた悪霊を祓うためのものとみられる「魔女の印(‘witches’ marks)」と呼ばれる文様が見つかった。 イングランドを縦断してヨーロッパ大陸と直結させる高速鉄道”High Speed 2(HS2)” 敷設計画のルートに予定されているストーク・マンデヴィル村にある中世の教会「聖メアリ教会」の跡地で考古学者らによる工事準備のための発掘調査が行われた。 ストーク・マンデヴィル村の聖メアリ教会はノルマン・コンクエスト直後の1070年頃に作られた礼拝堂に始まり、その後増築され、1340年代には回廊も追加された。初期は現地の荘園領主家のための礼拝堂だったが、後に村人のための教会として解放された。1866年、近くに新たな教会が建てられたことで、それまでの教会は取り壊された

    鉄道建設予定地の中世イングランドの教会跡で悪霊を祓う「魔女の印」が見つかる | Call of History ー歴史の呼び声ー