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ピピン3世~カロリング朝の創始と「ピピンの寄進」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
権力を集中させフランク王国に君臨したカール・マルテルは、その死に際してカールマン、ピピン3世、グ... 権力を集中させフランク王国に君臨したカール・マルテルは、その死に際してカールマン、ピピン3世、グリフォの三人の子に王国を分割して相続したが、741年、父の死の直後カールマンが異母兄弟グリフォを襲って幽閉すると、グリフォの相続分を弟ピピン3世と分割し、西側ネウストリアをカールマンが、東側アウストラシアをピピン3世がそれぞれ宮宰として治め、743年、二人は737年から空位となっていたフランク王にメロヴィング王家からキルデリク3世(在位737~751年)をつけて自身の統治を正当化し、フランク王国は二分された。(注2) 先代カール・マルテルの保護を受けてゲルマン人への布教を勧めていた司教ボニファティウスはカールマンの保護下でヴェルツブルク、ビューラブルク、エルフルト、アイヒシュテットの各司教座を設立するなどフランク王国の司教たちを統制下におき教会会議を繰り返し主催したが、ピピンはボニファティウスが
2019/05/20 リンク