ラカンというのはフランスのおっさんで、自称フロイトの一番弟子である。もう死んでしまった。死んでからも、いろんな人に悪口をいわれて、親切なジャック・デリダが、「あの人はかわいそうな人だったんだから、そんなこと言ったらだめですよ」とたしなめた。すごい天才だったという。天才というのはおおよそのところ、かわいそうな人生を送るものではないかとわたしはおもう。 たしかにラカンはすごい。まず本の値段がすごいとおもう。「セミネール」(十三巻)は、それぞれ五千円、「エクリ」(三巻)は一冊が七千円ていどする。まったくもってふざけた道楽である。買えませんよ、そんなに値の張る本を。しかも超難解ときているのだから始末がわるい。そんなお金を払って買った本の感想が、「なにが書いてあるのかわからなかった」では、あまりにもむくわれない。「昭和むくわれない音頭」をうたってさしあげようかしら。ラカンに。 それでも、ふだん、いろ
他人にはあまり話していないことだが、僕は医者に通っている。性欲がつよすぎるのだ。性的な欲求が、自分自身で抑制できる範囲をすっかりこえてしまったため、専門医のところへ通って治療している。治療の効果については、よくわからない。性欲はまったく減退していないが、治療そのものは続けている。治療とはたいてい、そのようなものだと僕はおもう。にきびができたとき、僕はクレアラシルを塗ったけれど、それが効いているのかどうかについてはよくわからなかった。治療とはある種、呪術的な要素を含んでいるのだと僕は想像する。人は僕のことをわらうが、性は誰にとってもいささかむずかしい問題である。僕はただ、その取り扱いに多少の困難があるだけだ。それを恥じてはいない。 「先生、もうがまんできません。だってほら、あの女性、服の下は全裸です」と、僕はいった。先生は、蝶の羽化をながめる子どものような目で僕をみてから、手元のノートにいく
いぜん、村上春樹が「ライ麦畑」を新訳したあたりから、彼自身、つぎは(いつかは)「グレート・ギャツビー」を手がけたいという話をあちこちで書いていた。帯に書かれた「満を持して」という常套句が、クリシェとしての陳腐な響きを持たないのは、村上がついにこのマスターピースを新訳するタイミングがきたのだ、という、ある種の感慨すらあるためだ。さっそくテキストを手にとり、読みはじめると、あまりの心地よさに、半ばおどろきつつも、ひと息で読み通してしまった。うつくしい。あらためて、すばらしい小説だった。フィッツジェラルドがいかにすぐれた小説家であったか、ひとつひとつの文章に込められた意匠のみごとさに、ただ圧倒されてしまった。 この小説は、九つのチャプターにわかれているのだが、中でもわたしは三章がとてもすきで、読むたびにぐっときてしまう。二章の後半、混乱したシークエンスからおもいきって場面転換するように、三章のあ
映画「ファイト・クラブ」において描かれるのは、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)率いる地下拳闘組織だが、わたしがとても印象に残っているのは、そのメンバーになるためには、薬品で手の甲を火傷させなければいけないという、奇妙なルールが設定されていることだった。失神するほどの苦痛をともない、その傷跡は決して消えない。そうした傷を負ったものだけが、ファイト・クラブのメンバーになれるわけだ。 わたしは、この設定にとても納得したことを覚えている。理由はうまくいえなかったが、このルールは魅力的だったし、ストーリーにおいても欠かせないものだとかんじた。映画ぜんたいを通して、傷、苦痛、敗北といったものが、肯定的にとらえられているのもおもしろい。では、この映画を見た者がかんじる、ふるい立つような高揚感、おもわず叫びたくなるような生そのものの肯定、それらの理由はどこにあって、どのように説明すればいいのかという
歌舞伎町にて。初日。M.ナイト・シャマラン新作。とてもたのしく見ました。すごいなあ、これは。あっはっは。わたしは、彼の監督する映画を、毎回おもしろがって見ていますが、これもいいねえ。しびれますよ、この映画は。彼の、今までのフィルモグラフィーに愛着を持っている人であれば、まちがいなくたのしめるであろう。それ以外の人はわからない。怒りだすかも知れないね。 スラヴォイ・ジジェクの簡潔な批評、「シャマランは、子どもじみたばかばかしさで、観客を撃つことに成功している」に、彼の魅力は集約されているだろう。まさに、彼の特徴はそこにある。そしてわたしは、今回も、しっかりと彼に撃たれている。この作品からもそれが感じられる。シャマランは、子どもじみたばかばかしさで、観客をびしっと撃つのだ。脚本は、ほとんど破綻しているように見え、それぞれのシークエンスは、それがどうして連続しているのかすら、よくわからない。でも
なにが書かれてあるのか、いまひとつよくわからない本を読みつづけるというのは、けっこう忍耐のいることである。むずかしいだろうとは予想していたが、「資本論」はおもった以上に難解であった。読みがすすまない。わからない部分がでてくると、前のページにもどって確認したりもするので、さらに読みは遅々としてすすまない。するとしだいに、かんたんな本を読みたい、すぐに理解できる本を読みたい、というだらしない欲求がわいてくるが、そこをぐっとおさえて「資本論」を読む。おもえばわたしは、「すぐにわかったような気にさせてくれる本」ばかり選んで読んできたのだ。そして、やすっぽい受け売りで、いかにもわかったようなことを口にするのがだいすきなのだった。それはまちがいであった。ごめんなさい。わからないことに耐える。わからないことを慈しむ。それでこその「資本論」通読である。 しかし、「資本論」を読むことにはふしぎなよろこびもあ
歌舞伎町にて。興味ぶかく見ました。 作品において、選択されている主題は、消費文明の批判、命の価値とはなにか、というふたつだった。どちらも、テーマがおおきすぎて、かんたんには答えがでない問題である。人間の欲には限界がない。その欲は、自然や環境のバランスを崩してしまう。それはもう、じゅうぶんわかっている。しかし、暑い日にはクーラーをかけたいし、よく冷えたビールをぐっと飲みたいとねがうのが人間である。そうした生活の快適さだけを求め、後はどうでもいいや、誰が飢えても、どこかの国の人が貧困にあえいでいても、このアメニティは手放せない、というような、きわめて利己的な暮らしを、この国に住むわたしたちは営んでいる。それに対して答えをだせといわれても、もちろんだせない。この前者の主題について、映画は、無自覚であるよりは、せめて煩悶ぐらいするべきであろう、と訴えているように感じた。 後者の主題、命にはなぜ価値
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