シベリアのロシア人と北海道移民の根本的な違いは、前者が徒刑囚や流刑囚であったのに対し、後者が徳川幕府時代末期の段階でまともな庶民だった人々であるということだ。嫌な言い方なのは承知している。ただ、こうでも言わなければ私の腹が収まらない。いや失言した。なぜ「まともな庶民」が北海道に入植したかの理由の一端を私は語りたいのだ。 1799年。帝政ロシアは、「東インド会社」にならって「露米会社」という国策会社に勅許状を与えた。その目的は、千島列島、樺太、アリューシャン列島、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ北太平洋地域でのオットセイやラッコの毛皮である。当然関係地域の植民地化もその事業に含まれるので、社員の多くは海軍の軍人が兼務していた。総支配人は、日本史の教科書でもおなじみのニコライ・レザノフである。レザノフは、1792年(寛政4年)にシベリア総督使節アダム・ラクスマンが連れてきた日本人漂流民と引き換え