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2015年2月22日のブックマーク (8件)

  • ところで、飛天御剣流は本当に古流剣術なのだろうか…

    奇水@新企画頑張ってます&お仕事募集中。 @kisuiHAIGOU 電撃文庫で主に書いてます。百合と古武術と宮武蔵を愛している。第8回歴史・時代小説大賞の奨励賞をいただきました。ご依頼はDMで。ほしいものリスト公開しましたhttps://t.co/R4wW9rcW8N… kakuyomu.jp/works/11773540…

    ところで、飛天御剣流は本当に古流剣術なのだろうか…
    lotus3000
    lotus3000 2015/02/22
    いろいろおもしろい考察。まじめに遊ぶとはこういうことか。
  • 日蓮

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    lotus3000 2015/02/22
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    1 三島三島三島三島・・・・天皇天皇天皇天皇・・・・超越超越超越超越 ポストモダン状況下のわが国において、三島由紀夫を再読する試み 志紀島啓 浅田彰は彼の最初の、そしてほとんど唯一のまとまった著作である『構造と力』1) のな かで、いわゆる「禁止と侵犯の弁証法」について以下のように述べている。 「監視が厳しいほどイタズラのスリルが増す、日常の規律が厳格であるほど祝祭の興奮が 高まる、禁止されているからこそ侵犯の快楽が身を灼く、といった愚にもつかぬ「弁証法 的関係」、いやむしろおぞましい共犯関係は、そのような秩序のもとでのみ成り立つものだ った」(『構造と力』p225、以下の引用では構造と略す) そして、さらにこれに関する注で「これがたとえば三島由紀夫がバタイユから読みとっ たもののすべてであり、その結果があの面白くもない兵隊ごっこだった」(構造p226) と書き添えている。 果たして、こ

    lotus3000
    lotus3000 2015/02/22
    三島の天皇制に対するスタンス。あと浅田彰の三島に対する沈黙について。
  • 教育勅語はどこがダメか - 読む・考える・書く

    というか、こんな簡単な問題すら理解できない者たちが政治家をやり、しかも政権中枢で政策決定に関与しているのだから、まったくお話にならない。 たとえば下村博文文科相はこんなことを言っている。[1] 「(教育勅語には)至極まっとうなことが書かれており、当時、英語などに翻訳されて他国が参考にした事例もある。ただしその後、軍国主義教育の推進の象徴のように使われたことが問題だ」 下村博文文科相は8日、教育勅語の原が確認されたことと絡めてこう述べ、内容そのものには問題がないとの認識を示した。 教育行政のトップからしてこの体たらくである。 この下村の認識は二重三重に間違っているのだが、どこがどうおかしいのか、具体的に見ていくことにしよう。 まず教育勅語の全文を見てみる。リンク先の画像が示すように、各学校に「下賜」され、行事のたびに「奉読」が義務付けられたこの勅語には句読点も何もなく、べったりとした文語体

    教育勅語はどこがダメか - 読む・考える・書く
  • ララビアータ:戸田山氏『哲学入門』(4)自由 - livedoor Blog(ブログ)

    戸田山氏は決定論の独自ヴァージョンとして、メカニズム決定論という考えを最も妥当らしいものとして提案している。それによれば、宇宙のすべてを決定する決定論は必要ない。むしろ、我々の行動を、環境と我々自身の内部状態とから計算する、一種の計算機と見ることができるのであり、それが言える以上、決定論は十分もっともらしいと考えざるを得ないのである。その上で、「我々が持つに値する自由」をかかる決定論と整合し得るものとして理解することが、戸田山氏の課題となる。 だが、「メカニズム決定論」はそれほどもっともらしい仮説だろうか? 私自身は、あることをなし得る自由があるか否かということを、事前に決定的に証明することができるとは考えていない。だが、それをなし得ない(それをなすことができる自由がない)ことも、事前に証明され得ない場合がある。たとえば、ある問題を解決できるか否か、いずれもそれを実際に解決するに先んじて、

  • ララビアータ:クオリア再論 - livedoor Blog(ブログ)

    感覚質(クオリア)について何度か書いてきた(『読む哲学事典』p−78『古代ギリシアの精神』p−208)。学生の論文でクオリアについて書いたものがあったので、それについてもう一度考えてみた。 クオリアは独立した存在として取り扱えるものか? またその存在は一人称的にのみ規定されるものか? どちらも怪しい。もちろん、クオリアを他の実在(物理的存在)に還元することは難しい。しかし、だからといってそれだけで自立した存在ということにはならない。むしろ、それは意味理解との関係で存在するものではないか? そうであれば、意味解釈との関連で、クオリアが姿を変えてもおかしくはない。 クオリアは、対象を意味によって弁別する時に利用される感覚的情報である。つまり、ある意味理解に基づいて輪郭づけられている対象の弁別のために利用されることによって意識化される情報。たとえば、ある対象は背景や隣の事物から際立てられるために

  • ララビアータ:稲葉振一郎氏への応答 - livedoor Blog(ブログ)

    稲葉さま 貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかはらず、いけしゃあしゃあといっぱしの

  • ララビアータ:松浦寿輝氏の『明治の表象空間』(1)近代日本語と漢学 - livedoor Blog(ブログ)

    手に取りて巻置く能わざる経験――しかるに、また同時に、すんなりと読み飛ばすことを禁じ、そのつど思考を強制するが如き、また誘発するが如き、観念の聳立蟠踞に目のすくむ思いをしながら、しばし書物から目をそらし嘆息・黙考する――そんな不思議な経験を久しぶりにした。 ある個所に差し掛かるや、疑念百出して、反論勃と立ち上がるのだが、次のページを繰ると、まさにその疑問を著者自身堂々と提起し、応えようとしている。我々はさながら、著者の掌中におちこちと迷い、自ら道を切り開かんとするに、実はすでにそれが先取りされていて、孫悟空がお釈迦様の掌の内を動くが如し、というわけだ。 文学、歴史、思想史など確かな教養に裏付けられた論述は骨太であり、横断的に走る洞察には思いがけない発見が満ちていて読者をひきつける。しかもそれが、今どき珍しいおよそお子様向きでない堅固な石材のような文体で、過不足なく積み上げられてゆくのであ