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ブックマーク / arabic.kharuuf.net (10)

  • 無作法な書き言葉

    こんな文章がありました。 ビッチは殺されて当然という人たち、と会わずに済んできた人たち ネトウヨと言われるような、今だとYahooニュースのコメント欄とかにたくさん書かれてるような意見を読んでショックを受ける人って多いですが、ネットとは無縁の生活を送っている僕の両親も普通にそういうことを言うんですよね。子供のころ毎年お盆と正月に帰省していた母の実家は、当然サマーウォーズのような伝統も財力もない家でしたが、それなりにたくさんの親戚が集まっていました。 そういう集まりの中で声が大きい人や人望を集めてる人ってたいていネトウヨにも負けないぐらい差別的なことも平気で言うような人じゃないですか。 サマーウォーズのおばあちゃんが実在したら「そんなはしたない娘は殺されて当然じゃ」ぐらいのことは普通に言いますよ。 ただ、僕の両親や親戚の人たちが特殊なのかって言ったら全然そんなことなくて、世の中にはそんな悪意

    無作法な書き言葉
  • 「言行一致させる」倫理と「言うべきことを言う」倫理を区別しなければならない

    「言行一致させる」倫理と「言うべきことを言う」倫理を区別しなければならない。 「言うべきことを言い、なおかつ言を裏切らない」のが一番称揚されるのは当然だ。重要なのは、「実行できない、あるいはしないとしても、言うべきことを言う」倫理だ。 「言うべきこと」の中には、ほぼ実行不可能なものもある。できないことがはじめからわかっている。そうした「言うべきこと」を前にした時、「言うべきこと」を言うのか、あるいは「言行一致させる」ことを優先し言わないのか、それが問われるのだ。 「言うべきことを言う」とここで言っているのは、要するに大文字の他者への配慮を示す、ということだ。格好付けること自体が意味を持つことが、沢山ある。 「人を殺したらなぜいけないのか」は、「人を殺す」ことがいけないかいけなくないか以前に、「人を殺したらなぜいけないのか」と問うことがいけないのだ。問いは猥褻なものだ。 腐敗した世俗社会とは

    「言行一致させる」倫理と「言うべきことを言う」倫理を区別しなければならない
    lotus3000
    lotus3000 2014/05/02
    理想の使い方について。日本的寛容にかけているもの、
  • 一つの多神教という日本的ファンタジー

    『原理主義から世界の動きが見える』の中で、手島勲矢氏が、「一神教」と「多神教」についてハッとさせられることを書かれています。「一神教」「多神教」という構図をこれほど多用し社会現象に援用するのは特殊日的であり、その背景には「一つの(日的)多神教」という暗黙的な了解があるのではないか、という指摘です。 ちょっと長くなりますが引用しておきます。 (・・・)高度な抽象概念「一神教」「多神教」を、堂々と形而下の生々しい国際紛争と結びつけてしまう――こういう発想は、欧米の学者からは出てこない。彼らにとって、「一神教」「多神教」の区別は、あまりにも学術的な区別であって、それらを具象的な現象に援用するのは宜しくないのだ。しかし日では、識者だけでなく一般人も、この区別を違和感なくすんなり受け入れている印象がある。 この理解のギャップから私が思うのは、日人の論じる「一神教」「多神教」という区別は、欧米

  • 無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける

    こんなエントリが話題になっていました。 日人は自らの宗教性にいいかげん気付くべき – 狐の王国 良識あるものは自らの倫理観を問いなおせ。それが信仰でないことなどほぼ無いことに気付くべきだ。一つの宗教にきちんと向かい合うことも必要かもしれない。仏教でも神道でも基督教でもいい。 そうして自らの信仰に自覚的になることも、きっと必要なことだと思う。 細部については異論もありますし、またここで言う「宗教」とわたしたちの言うところのالدينは同一ではないと考えていますが、自称「無宗教」の日人の多くが、自分で思っているよりはずっと「宗教的」、という点は、その通りでしょう。 このブログで書いていることの多くもそうした前提から出発しており、「小っさなムスリムに話しかける」、「音楽と信仰」といったことも、この系譜に属するものです。 件のエントリは、「宗教性」そのものより、それに対して「無自覚」であること

    無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける
  • 「科学的イスラーム」の問題と理神論

    イスラーム関係の、特に一般向けのリーフレットなどに、「イスラームはこんなに科学的」といった論調のものが時々見られます。以前カイロで見たフィルムでも「クルアーンのこのアーヤは最近の物理学の発見したこんな現象を予見している」といった下りがありました。 前々から、こういう語らいが不愉快でなりません。 イスラーム界隈?内部では、あんまり露骨に文句を言うのもどうかな、と思っていたのですが、最近友人のムスリマが「わたしもあれは嫌い」と言ってくれて、非常に勇気づけられました。 ああいった言説を紡いでいる方々は、おそらくイスラーム外部に向けて「イスラームは科学的で立派な宗教ですよ」と主張したくて善意でやっているのでしょうが、ハッキリ言ってインチキ臭く安っぽい印象を与える効果しかないように思います。少なくとも、わたしが友人だと思えるムスリム・ムスリマなら、必ずあれに拒否反応を示してくれると信じています。 単

    「科学的イスラーム」の問題と理神論
  • 人間は紐には勝てない

    昨日、被災地の商店街再活性化を扱っていたテレビ番組があり、たまたまそれを横目で見ながらぼんやりと考えていました。 今回は被災地の話なのでちょっと別ですが、地元商店街とイオン、みたいな話は延々と繰り返されています。実際は地元商店街が先に衰退してその後イオンが来てくれたんだ、という話もありますし、別段大規模資反対とかいうことを言いたいのではありません。 これについて考えたというのは、 ①労働者すなわち消費者という閉じたローカルな関係を破壊するのは非常に危険 ②しかしウェットな関係はウザい ③でもウェットな呪いからは自由になれない の三点です。 ①は割りと普通の話で、高度資主義社会が進展するに伴い、わたしたちは各々の場面でのロールに分断され、消費者は消費者の立場を、生産者は生産者の立場だけで考えるように統治されていきます。その最たるものがグローバリゼーションですが、こうした方向性は比較優位を

    人間は紐には勝てない
  • 社会への憎悪の仲裁

    これは非常に誤解を受けそうな内容で、かつ丁寧に語る気力もないので、極めて限られた方たち以外にはスルーして頂きたいことなのですが、とても鋭く気に入った一言があったのでメモしておきます。 「5分で分からない!主権返上を目指す会 – 法華狼の日記」という記事に対するCrowClaw氏のブックマークコメントです。 ファッショの根底が「自身の主権(主体)を絶対者に明け渡すマゾヒズム」だとすると別に間違ってない。彼らは気で「(自分も含めて)人権なんか無くなればいい」と考えてる。これは(国家ではなく)社会への憎しみ 元となっている記事は、ある種の右派勢力の主張を荒唐無稽と批判するもので、(おそらくCrowClaw氏もそうであるように)この内容自体は尤もで、確かにこの手の「漫画的」右派言論には相当馬鹿げたところがあります。また、こうした主張に対して一応釘を差しておこう、というのも理解できます。 ただ、こ

    社会への憎悪の仲裁
  • 『イスラームのロジック』イスラームと世俗国家

    中田考先生の『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』について続けます。 第二章「イスラームと現代社会」から、イスラームと世俗国家について。 存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し、無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意思」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。 アメリカの宗教社会学者ユルゲンスマイヤーが指摘する通り、世俗的ナショナリズムは「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種である。 地上における不死の神「リヴァイアサン」たる西欧国民国家概念ほど、イスラームの世界観から遠いものはないが、それは範疇をまったく異にする、という意味ではなく、むしろ範疇を同じくして対極にあるものなのである。 西欧近代主権国家概念における主権は、そもそも国内的に最高権力を、対外的に独

  • サヨクはイスラームの味方なのか

    ガラにもなくイスラエルのガザ支援船攻撃に対する抗議行動に顔を出してきたのですが、イスラーム関係の呼びかけだったせいか、ほとんどは非日人ムスリム、少し日人の市民運動系の人がいて、日人ムスリムはほとんどいませんでした。わたし一人だったかもしれません。 といっても、この活動自体について何か言いたいわけでもなく、ただそこに居合わせた「反戦平和」系の人々を眺めていて、ふと思い出したことがあっただけです。 それは「ムスリムはサヨクを味方だと思っているのだろうか?」ということです。 パレスチナやイラク、アフガニスタン繋がりだと、反戦平和系の市民運動家と多くのムスリムではある程度方向性に一致が見られるので、「共闘」するのは大いに結構だとは思います。また日や欧米ではムスリムは少数派であり、多くが外国人で、ここから外国人労働者や南北経済格差などの問題に連なっていくため、「サヨク」がイスラーム寄りに見え

    サヨクはイスラームの味方なのか
    lotus3000
    lotus3000 2010/06/10
  • エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融

    ミヒャエル・エンデのラストインタビューを契機に、現行の貨幣システムがさまざまな現代的問題の根底にあること、現実に存在し、今も存在する「老化する貨幣」について、非常に分かりやすく展開してくれています。 有難いことにNHK BS1の番組『エンデの遺言』の動画がアップされています。 著作権的な状態がどうなのか知りませんが、一人でも多くの人が見るべき映像であり、是が非でもwebにあげるべきです。映像で興味を持たれた方は、こちらの書籍で詳細を知ることができます。 非常に乱暴にまとめてしまうなら、お金の最も基的な機能とは、交換の仲介です。ですから、お金は流通することで始めて意味を成します。 ところが、今日の世界では、お金が独り歩きし、お金の流通量のほとんどが実質的な意味を持たない投機的性質に占拠されてしまっています。「格差」や環境破壊の根底にあるのは、この「意味を持たないお金」です。 なぜこんなこと

    エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融
    lotus3000
    lotus3000 2010/05/15
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