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自分用に関するlylycoのブックマーク (363)

  • note は人気者のためのお布施サービスに落ち着くのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    どこでだかは知らないけれど、いま話題の note 。 とにかく簡単に有料ページが作れる。これが、note のほぼ唯一にして、最大の強みだ。登録からものの数分で「続きを読む(有料)」なコンテンツが公開できる。手軽すぎて怖い。そこでは投稿されたコンテンツのことをノートと呼ぶのだけれど、ノートは無料で公開することもできる。が、課金がなければ、140字縛りのない Twitter みたいなものでしかない。 もちろん、縛りのない Twitter に意味なんてない。note を使うなら「売る」か「買う」かその両方か、だ。売るもののないぼくは、ウインドウショッピングのつもりでアカウントを作った。黎明期特有のぬるい空気の中、ぴょろぴょろと小銭が舞っている。note の外で見たことのあるアカウントを適当にフォローして、適当にノートを買ってみる。 最初に買ったのは岡田育というひとのノートだった。これはマイナビニ

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    lylyco 2014/04/13
    note の話になると岡田育岡田育言い過ぎな気がしてきた。ともあれ、いまのところ note は新しい発見や出会いには向かないなあ、と。
  • 障害キャラの作曲家に怒り、清純キャラの少女に失恋する|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    佐村何某の騒動、なんだかんだ面白い。これに気で怒るというのも野暮な話だ。 彼氏なんていません、エッチなんてしたことありません…そんな処女性をウリに商売をしてきたアイドルに、ある日、下世話な意味でとても親しい男がいたことがわかる。清純な美少女という物語を嬉々として買い、あるいはそうしたニーズを利用して商売をしていた人たちが、詐欺だ、裏切りだといって発狂する。構造的にはそんなアイドルの失態劇となんら変わらない。 どんなコンテンツもプロダクトも、物語込みで消費される云々…とは、とうに語り尽くされた話だろう。創作物やある種の表現を、創作者やその周辺の物語込みで楽しむのはごく自然なことだ。それはエンターテイメントだろうと芸術作品だろうと変わらない。岡太郎や草間彌生のファンが、人物像や背景や世評と切り離された作品のみを愛しているとは考えにくい。 より多くの、より自分好みの物語を幻視するとき、その消

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    lylyco 2014/02/07
    ろくに推敲もせず勢いであげたはいいけど、たいそう不謹慎がられそうな表現がちらほら。しかし件のドタバタ劇、ゴーストが新垣摂津守とかだったらより虚構性が増して楽しめたろうに。
  • ネットはオタクの遊び場で終わってしまうのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ・ 「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠 いまどき「ネットが面白い」なんて人はまったくどうかしている。 まあ、半分くらいは好い意味で、だ。なぜなら彼らは、インターネットという社会インフラを「趣味」にしてしまった人たちだからだ。いってみれば、鉄オタにとっての鉄道みたいなものだろうか。一般人にとってのネットや鉄道は、もはや面白いとか面白くないとかいう興味の対象ではない。環境に近いものになってしまった。 もちろん、「ネットがつまらないのは自己責任!」というのも正論だと思う。そして、「ネット」の部分はあらゆるものに置き換え可能だ。ぼくが鉄道を愉しめないのは、ぼくのせいに違いない。たしかにぼくは、鉄道を愉しむための努力をしてこなかった。ネットも同じなんだとすれば、それはネットが高度に訓練されたネットオタクでなければ愉しめない、ただのありふれた風景になってしまったということ

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    lylyco 2013/07/26
    ネットの世界は多様だけど、多様な世界に触れるにはかなりのスキルなり時間なりが必要で、結局はネット好きじゃなきゃ耐えられない世界なのかもしれない。
  • ジブリ『風立ちぬ』を観て甘美な罪悪感に身悶える|ボクノタメニ泣イテクレ > 映画レビュー

    『風立ちぬ』を観終えてから、感想がなかなか言葉にならなかった。 感動のあまり、というのではない。いや、感動はした。が、言葉にならないもやもやとした違和感がいつまでも消えなかった。映画館で涙を流しながら、自分はなぜ泣いているのか、と自問してしまう。そんな映画だった。 美しい映画だった、とは思う。美しいものへの欲望が、ただただまっすぐに表現されていた。醜いものへの視点をまったく欠いていたわけではない。その存在は認めながら、意識的に美しさだけを切り離し、それを欲望することを全面的に肯定してみせる。ただ一片の躊躇も衒いもなく、だ。もちろん、当に美しいもののみ追求できるような才能は、誰にでも与えられるものではない。主人公の二郎はもちろん選ばれた人間である。美を求める彼の心に、葛藤や逡巡はほとんどみられない。 それは、宮崎駿の才能やこの作品に対する態度とも重なって見えた。 ゼロの美しさも、菜穂子との

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    lylyco 2013/07/24
    漠然としたもやもやを言葉にしたら、えらく恥ずかしい感じの感想文になってしまった…。
  • 「気付いた人がやる」ルールを提案してはいけない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    あなたがもし、ある仕事について「気付いた人がやればいい」といったする。 その瞬間から、それはあなたの仕事だ。職場の備品整理でも、代表電話の応対でも、ゴミ捨てでも、水回りの掃除でも、宅配の受け取りでもなんでもいい。どんなに些末な、仕事ともいえないような仕事でも、それを自分の仕事にする覚悟がないなら、そんなルールを提案すべきではない。自分以外の誰かにやらせたいなら尚更だ。 なぜか。「気付いた人がやる」が成立する集団では、そもそもそんなルールを作る必要はない。放っておいてもそういう運用になる。個々人の負荷状態や仕事の重要性に応じてオートバランサーが働く。逆に、「気付かない人」や「気付いてもやらない人」がいるから、ルールを作りたくなる。が、「気付かない人」はルールを作っても気付くようになるわけではない。「気付いてもやらない人」はそもそもやりたくないわけで、ルールを作っても気付かないふりをするだけだ

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    lylyco 2013/07/17
    ふと思いつきを tweet しようとしたら、どうしても140字におさまらなかったので開き直ってブログに書いた。
  • “祇園祭”の京都を無理せず愉しむ、宵々々山お散歩写真|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    山鉾巡行を明日に控えて、今夜は宵山。 普段は馬鹿に人混みを嫌うくせに、祇園祭の京都には2年連続で出かけている。ミーハーで人嫌い。ええい、面倒な。いずれ、メインストリートで群衆にまみれるのは致し方ない。というか、祭りが閑古鳥では話にならない。華やいだ雰囲気は楽しみつつ、無理せず脇道に逸れながら、宵々々山の京都をそぞろ歩いてきた。 まだ明るい午後六時すぎ、山鉾はおいて先斗町へ。狭い通りに浴衣が似合う。 三嶋亭より後発だけど、すきやき「いろは」もギリギリ明治創業の老舗。 直前の夕立のおかげで、この日の夜は涼しくて過ごしやすかった。 四条側からくると見逃しがちな、お茶の専門店「茶香房 長竹」の提灯。 先斗町のお上品な料理屋を横目に、「新福菜館 河原町店」にて腹拵え。 また降りだした小雨を避けて新京極へ。錦天満宮のお牛様とまみえる。 新京極を四条通に出る手前、安産祈願の染殿院。 午後七時、ついに歩行

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    lylyco 2013/07/16
    14日の夕方から、宵々々山の“祇園祭”をさらりと流してきた。
  • 一度は見ておきたい千本鳥居と稲荷山 ~ 伏見稲荷お参り写真|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    同じものがびっしり大量にあるというのは異様だ。 家からそう遠くもないのに、伏見稲荷大社の千鳥居を見たことがなかった。写真やなんかで見慣れていたせいもある。どうせ見栄えのいいところだけ見せてるんだろう、と穿って見ていたところもなかったとはいえない。が、これは完全にぼくの僻見だった。世に云う3大ガッカリみたいなソレとは一線を画する自然と人工の異界。圧倒的な物量はそれだけで異様な説得力を持つ。山中に建てられた鳥居の数、およそ一万基。これまた夥しい数の稲荷塚群。江戸の流行神はいまだ健在らしい。 京阪伏見稲荷駅からスタート。駅舎の柱が朱に塗られている。 京阪からまっすぐ山手に向かうと神幸道(裏参道)に行き当たる。 楼門のお稲荷さんは、五穀豊穣のイメージ通り稲束をくわえている。 殿前の外拝殿と内拝殿。やはり人気の神社らしく手入れが行き届いている。 絵馬の代わりに願掛け鳥居。別の場所には狐の顔型のも

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    lylyco 2013/07/10
    伏見稲荷大社に行って写真を撮ってきた。ベタな観光地だからってバカにできないもんだなあ。お山を制覇できなかったのは残念だけど、愉しみを残したともいえる。
  • 適当に働いて、適当に遊んで、適当に生きて死ぬ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ぼくは当に厭なことからは逃げることにしている。 たとえば、学生時代の就活は精神的にヤバそうだったから、逃げた。ただ、大学までやってくれた親の目もあったから就活のフリくらいはした。まあ、実際に訪問したのは 2社だけで、あとは梅田で適当に時間を潰したり、ネットで求職サイトを眺めたりしながら、そのままフリーターになった。が、バイトも同じところに3年もいれば、なにかと負担が増えてくる。週休2日、フルタイム。就職するのとなにが違うんだ。しかも、福利厚生なし。 適当にサラリーマンやってる方が快適なんじゃないのか。 バイトで貯めた金をウェブ制作系のスクールに突っ込んで、勢いで就職した。このときの就活は、切羽詰まった学生の一斉就活と違って気楽なものだった。「社会人」としてはすでにドロップアウト済みの身だ。脇の甘そうなウェブ系中小企業をネットで探して訪問1社目、あっけなく決まった。が、2年でやめた。バイト

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    lylyco 2013/07/03
    世界も自分もかなりいい加減にできている。自分に向かないものはどんどん捨てて、できるだけ向いたものだけを積み上げることで、なんとか生きてる凡人の繰り言。
  • この宇宙には結婚して“自由”が減る世界と増える世界がある|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    そもそも、結婚に左右される“自由”とは何だろう? ありていにいえば、「金」と「時間」の使い方、ということになるだろうか。もう少し包括的に「人生のリソース」と言い直してもいい。曰く「憧れのバイクを買いたいのに嫁の許可が下りない」。曰く「いまみたいに好きな服を買ったり、美味しいものをべ歩いたりできなくなる」。なるほど、そういうことはあるかもしれない。ぼく自身、結婚して間もない頃は不自由に感じることがないでもなかった。ひとつはを読む時間が減ったこと、もうひとつはインターネットに漂う時間が減ったこと。けれどもすぐに、それらを不自由だとは感じなくなってしまった。 なぜなら、ぼくは代わりに新しい自由を手に入れたからだ。 独身の頃、有意義な「金」と「時間」の使い道は限られていた。、インターネット、映画音楽、カメラ…そういった趣味に費やすことが、ぼくにはほとんど唯一の選択肢だった。だから、限りある

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    lylyco 2013/06/27
    オッサンになってふと周りを見渡すと不自由そうな顔をして生きている知人が増えた。仕事や家庭の愚痴ばかりいう人が必ずしも本心を語っているとは思わないけれど。
  • “奈良”初心者による市内まったり散策写真|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    それほど遠くもないのに、奈良のことをほとんど知らない。 京都や神戸には折を見て足をのばすのに、奈良にはなぜかほとんど行ったことがない。たまには行ってみるか、ということになった。梅雨の止み間でシーズンをはずしていたせいか、それほど観光客も多くなく、実に快適な散策になった。シーズンオフの散策地としてはかなりの穴場なんじゃないかと、いまさら見直すことしきり。奈良公園やならまち界隈だけでも、みどころは多い。京都ほど土地勘もないので、観光ルートから大きくははずれなかったけれど、国宝や重要文化財といった観光資源を中心には据えず、あくまでも散策の体である。 例によってカメラをぶらさげて、半日、気ままに歩き回ってきた。 近鉄奈良駅からスタート。鹿の飛び出し注意…うん、奈良に来たって感じがする。 昼時に着いたため、まずは釜めしが美味いと噂の「志津香」へ。行列必至。 待ちに待った大和肉鶏釜めし。うん、待った甲

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    lylyco 2013/06/24
    これまで不思議なくらい散策候補にあがらなかった奈良で、梅雨の止み間にぶらぶらと写真を撮ってきた。うん、また行きたい。
  • ぼくたちはいつまでワタミを生かし続けるのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    結局、彼の「成功」を担保しているのはぼくたち自身だ。 ・ ワタミ(渡辺美樹さん)問題は結構厳しい 元隊長の記事にぼくなんかが付け足すべきことは何もない。‘搾取がなければ経営が成り立たないのだ、とすると、それは経営に失敗している’…とはまったくもって正論だろう。そして、経営に失敗しているなら、その企業は事業的にも失敗すべきである。経営に失敗して事業的に成功するというのは原理的にあり得ない。というより、あってはならない。失脚せずに成功しているということは、その経営手法が事実上「認められている」ということだ。正論に反して、彼は「経営に成功している」のである。 もちろん、認めているのはこの国であり、つまり、ぼくたち自身だ。 たとえば、サービス残業が定常化している職場がある。これはいけないことだといって、社員全員が反対するかといえば、たぶんそんなことはない。「仕事嫌いじゃないし、別に辛くもないから全

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    lylyco 2013/06/21
    ワタミ的なるものを殺すとき、小さなワタミであり小さな自民党でもあるぼくたちに自ら浄化の炎に焼かれる覚悟はあるのか…とかそういう話。
  • 『あまちゃん』と、暴力と、浄化された世界|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    今朝の『あまちゃん』には、正直、うるっときた。 わかりやすくズレた相似形で描かれてきた「夏と春子」、「春子とアキ」、それぞれの親子関係を過去の呪縛から解き放つ「故郷編」のクライマックスである。25年間かけ違え続けたボタンを、ケンシロウのごとく革ジャンごと破り捨てた“夏ばっぱ”の男気に惚れないわけにはいかない。ほとんど母子家庭に近い環境で春子を育てた夏だからこその格好よさである。父親不在の家庭の母親がいわゆる「父親」のような振る舞いをするというのは、とてもわかりやすいしリアリティもある。ドラマ的なイメージでいうなら、25年前の夏の振る舞いは「父親」そのものだ。当は応援してやりたいけれど、立場上そういうわけにもいかない。世間の利害と我が子を思う気持ちの板挟みになって、結局、何もいえずに黙って春子を行かせてしまう。典型的な昭和の父親像だろう。一方、春子が求めたのは「母親」としての夏である。出て

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    lylyco 2013/06/20
    毎朝『あまちゃん』が楽しみでしかたない。ついに「故郷編」が終わっちゃうなあ。「東京編」どうなるのかなあ。ま、『あまちゃん』の話をしたかっただけだよね、これ。
  • ライフハック系男子は占いを信じてビジネス書を書くか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ライフハック系男子が世に蔓延して久しい。 ライフハック系男子はIT系周辺に多く生息している。が、決してIT系男子ではない。そういう人も少しくらいはいるかもしれないけれど、たいていはIT系男子が生み出したプロダクトやサービスにいち早く飛びついて見せるただの消費者である。常にアーリーアダプターであり続けるため、情報収集と情報処理の効率化にかけては人後に落ちない自負を持っている。「効率化」はライフハックの一翼を担う重要なキーワードである。ライフハック系男子はブロガー系男子の亜流として存在している。ライフハックはブログで発表してPVを稼ぐところまで込みでライフハックだからである。ライフハック記事を書くためにライフハックを実践し、それがまたライフハック記事のネタになるというウロボロス構造は、たいへんに効率的だけれどライフハックのためのライフハック手法しか生みだせないという残念な欠陥がある。が、ライフ

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    lylyco 2013/06/19
    ぼくは何かライフハックに恨みでもあるのだろうか、と少し考えたが特に思い当たる節はなかった。つまり、ただ面白がっているだけである。
  • 地味な“京都”の散歩写真・観光客(限りなく)ゼロ!|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    週末の京都市内は阿鼻叫喚の観光地獄である。 デジタル一眼レフカメラをぶらさげて、お京阪で祇園四条に乗り込んだはいいけれど、地上に出た途端、歩道を埋め尽くさんばかりの観光客に心が折れた。いきなり、折れた。四条通を八坂神社まで流されて行く気力すら湧いてこない。八坂神社から円山公園を舐めて高台寺を横目に清水寺まで巡るという東山定番コースを放棄して、全力で逃げることにした。といっても、洛中で人混みを避けるのは割と簡単だ。碁盤の筋を一逸れるだけでいい。まあ、どうしても観光名所を巡りたいなら仕方ない。けれども、のんびり京都の雰囲気を楽しむなら、あえて道を逸れるのも悪くない。 そんなわけで、人のいない地味な京都を撮ってきた。 四条通にあって観光客とは無縁の「仲源寺」。尊の地蔵菩薩に、重文の観音様も。 四条通から花見小路に入ってもまだ人は多い。早く路地に逃げ込まねば。 舞妓さんのセットなどする「キヌ美

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    lylyco 2013/06/11
    こないだの週末行った京都の写真をべたべたと。せっかくデジタル一眼レフカメラもってるんだし写真だらけのブログとか書いてみたかったんだよね。まあ、勢いで。
  • 乙武氏の愚痴と周囲で紛糾する議論・個人的まとめ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    正直、事件そのものはただの喧嘩にしかみえない。 店主の態度が気に入らず客が憤慨する。全国津々浦々で日々起こっている、極めて普遍的な事件である。ぼくだって、なんだよあの店!と思ったことはなくもない。店主の方だって、なんだよあの客!と思うことはあるだろう。そんなとき客がネット好きだと少々面倒だ。きっとべログに酷評レビューを書いて、TwitterやFacebookで愚痴るだろう。彼に好意的なフォロワーや友だちは件の店に悪い印象を持つだろうし、場合によっては一緒になって店の悪評を喧伝するかもしれない。ここまで含めてよくある話である。 今回の事件が「よくある話」ですまなかったのは、次の3つが絡んだせいだろう。 ・ 乙武氏は著名人でそれなりの影響力を持っている ・ 乙武氏は身体障碍者である ・ 現代社会はいまだ非常にバリアフルである これらを踏まえて、錯綜する論点を適当に概観してみる。 【 乙武氏に

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    lylyco 2013/05/23
    昨日書いてながら特に新しい視点もないし公開するのやめようかと思ったんだけど、もともと愚考を晒すためのブログなのでいいかと開き直って公開することに。言及したら負け的案件かな。
  • 糞を拾って人に投げつけるのは、もうやめようと思う|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ネットは広大で、そして、ゴミだらけだ。 ぼくもこうして、多くの人にとってのゴミを生産している。ネットは広大で、そして、寛容だ。そんな夢の島から、宝物を見つけ出すのは難しい。ぼくはズボラな人間だから、自分で探し歩くのは苦手だ。だから、はてなブックマークなんかを眺めている。もちろん、はてブの人たちはぼくではない。当然、人気エントリーも宝物ばかりというわけにはいかない。やっぱりほとんどはゴミで、たまに面白い玩具が混じっていたりする程度だ。拾ってみたらゴミだった、ということも少なくない。それでも、ほどよく楽しんできた。どうせ、宝物ばかりたくさんあっても、すべてを味わっている暇はないのだから、ちょうどいいともいえた。それが最近、宝物かな、と思って伸ばした手にべったりとうんこがついている、そういうことが増えた。まあ、ぼくが好みに煩くなっただけ、ということはあるかもしれない。それにしても、こんな一等地に

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    lylyco 2013/05/16
    ようやく少しずつ「くだらないインターネッツ」に対するスルー力が身についてきたような気がする。ツッコミ機能としての「はてブ」は魅力的だけれど、迷惑なバカに塩を送るばかりのツッコミは控えていきたい。
  • 切込少年、レッドカーペットを行く|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    古い文庫の黄ばんだページから目をあげると、窓の外は一面の白に覆われていた。いつの間に降りだしたんだろう。「誰でも読めるが、誰にも読めない書物」と必死で格闘していたせいか、まるで気が付かなかった。漠とした「超人」の姿が脳裏にちらつく。現実に戻ってきたはずなのに、まるで現実感がない。そういえば、車両内から人の気配が消えている。盛岡で乗り換えた時には、確かに何人か同乗の客があった。お父さんかお母さんは一緒じゃないの、とひどく聴き取りにくい声で話しかけてきた老婆も、知らないうちに隣のボックス席から姿を消している。思わずほっとした。どこかの駅に停まった記憶も、人が降りていった記憶もない。いまはどの辺りを走っているのだろう。列車が枕木を踏む音だけが、辛うじて現実の肌触りを伝えている。景色はただ後ろに流れるばかりで、ふらふらと迷いながら落ちてくる雪片の他に動くものもない。自分はひとりなのだと思った。父

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    lylyco 2013/02/15
    うまく書けないもんだな。しかし小説の文章に対するイメージもかなり変わってきてる気がする。ウェブの影響も大きそう。新人賞なら下読みでハネられるような書き方でも面白がる人が多ければ十分に流通するわけだし。
  • 文章力を鍛えるのための勝手に添削スパーリング|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    岡目八目、という言葉がある。 ・ 国語には、文章を「直す」訓練がいいのでは なるほど、これはいいアイデアかもしれない。書く訓練のために内容まで要求するのは酷だ、というだけではない。人間、自分のことは見えにくくても他人のことはよく見えたりするものだ。これは何も国語教育に限った話ではない。たとえば、山田悠介のを読んで文章にケチをつける。よく目にする光景だ。けれども、ケチをつけるだけじゃもったいない。文章力の鍛錬に興味があるなら、ここはひとつ書き直してみればいいのである。これはダメだと思う他人の文章の欠点を分析し、改善策を提示する。なんとなく鍛えられそうな気がするではないか。さっそく試してみたいところだけど、ぼくは山田悠介のを持っていない。 仕方がないので、最近ちょっと読みかけた『赤い絨毯』という小説をまな板にのせてみる。いわずと知れた人気ブロガー、元切込隊長こと、山一郎氏の手になる青春小

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    lylyco 2013/02/15
    一介のさらりまん風情が書いても説得力はないね。頭の体操にはなったけど。
  • 偽物のポジティブを、殲滅せよ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ポジティブを装ったタチの悪い欺瞞が、ウイルスのごとく蔓延している。 ぼく自身、生来あまりポジティブな人間とはいえない。だから、なおさら目に余るのかもしれない。それにしても、だ。たとえば、ライフハックだのフリーランサーだのスタートアップだのといった界隈の胡散臭さ!これはもう、格別だ。ちょっと鼻をつまんだくらいじゃ防ぎきれないレベルの腐臭を発して、止まるところを知らない。しかもそれは、一見、ポジティブを装っている。包装紙も、熨斗も、風呂敷も何もかもがポジティブだ。もはやパソコンの前にいるだけで満願成就して生涯幸せになれるんじゃないかと思うほどである。が、そんなうまい話はない。せいぜい奇人だけが使える劇薬が少々、残りはただの欺瞞である。 ○ 欠点を誤魔化すためのポジティブ たとえば、自尊心が強すぎて他人とうまくやっていけないことを、自立心が強くて馴れ合うことが苦手などと言い換える。あるいは、どん

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    lylyco 2013/02/04
    ところで「ネガポ辞典」面白いよね。内容知らないけど。あと、女子高生ブランドみたいだし。…みんな、よっぽどネガティブが嫌いなんだな。臭いネガティブに蓋するだけじゃダメだと思うけど。
  • 夫婦が「分かり合えない」のはなぜか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    よく見聞きする夫婦間の行き違いは、たいていこのパターンで表面化する。 ● 分かり合えないなと思った そもそも、これは「分かり合えない」という話ではない。互いに「歩み寄る気がない」だけのことだ。いや、この夫婦の仲が悪いとかそういうことをいいたいわけではない。少なくとも、このとき、この話題においては、という話だ。「分かり合えない」という表現は、おそらくは無意識に選んだレトリックだろう。客観的には「わたしの気持ちが分かってもらえない」が正しい。けれども、それでは彼女の思いとはズレる。だから、そこに書かれた内容を逸脱して、「分かり合えない」という修辞が使われたんだろうと思う。状況としては事実でなくとも、心象としてはより「真実」に近い。だから選ばれた、と考えるべきである。 段階を踏もう。このとき彼女が「分かって欲しかった」ことは何か。「ああこの人全然わかってないんだと思った。」の後ろに続く文章が、一

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    lylyco 2013/01/29
    幸せになるために一緒にいるんなら、分かり合えずとも希望はあると思いたいけどね。ダメになる夫婦ってのは身近にも結構いるし、分かり合えない以上、むしろそっちの方が自然なのかもしれないとも思う。