芝野耕司の『電子翻刻における「読み」と「見たまま」』(青空文庫オフ会、2009年7月4日)の中に、唐突に私(安岡孝一)の名が出てきたので、とりあえず全部聞いてみた。聞いていて、JIS X 0213に小書きの「ヒ」を追加した時のことを思い出したので、ここに記しておこうと思う。 JIS X 0213に小書きの「ヒ」を追加した理由の一つに、夏目漱石の作品がある。『吾輩は猫である』にも出てくるのだが、その時、私が注目した作品の一つが『野分』だった。春陽堂版(1908年9月)だと、p.463に「フヒヂアス式」という単語が出てくるのだが、この「ヒ」が明らかに小さい。「コスメチツク」(p.410)の「ツ」とか、「雜子ケ谷」(p.389)の「ケ」とかは全然小さくないのに、「フヒヂアス式」の「ヒ」だけが圧倒的に小さかった。 ところが、新潮文庫CD-ROM版『明治の文豪』(1997年1月)だと、「フヒジアス式
「ながれ-」は一見、和風の要素に溢れてるように見える……のだけれど、その中には 天に身をゆだねる精神 神が地を見下ろす精神 の両方が介在できてしまい、どうにも「なんかちがう」気がする。 流れ生産方式では「渇水」と「洪水」の説明は可能だけれど、「清らかな流れ」とか「汚水」とか「そもそも水じゃないものの流れ」あたりの分別はしづらいんだよね……そういう難しさが「ながれ-」には残ってしまう、と。 しかも、ただ流れてればいいわけじゃないし、「流れ」てるのと「流し」てるものの区別をするのも難しかったりするという厄介さまで残っていたりするわけで。 鳥の視点と虫の視点、両方の解釈ができてしまう「曖昧」な言葉は、コンセプトを伝えようとする目的に沿って考える限りでは「インターフェースとして正しくない」から、私はあえて「ことえり」のやり直しを提案したいと思う。 そこで使おうとしてるのが、「絆生産方式(きずな-)
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く