大日本武徳会剣術形を基として草案形の制作が始められたが、各流の意見を統一することは難航を極め、委員たちは自流の形を少しでも取り入れようとして、激しい議論となった。主査の一人高野佐三郎は懐に短刀を蔵し、自分の意見が容れられないときは、刺し違えて死ぬ覚悟で会議に臨んだという。 約1年間の討議を経て、大正元年(1912年)10月に太刀の形7本、小太刀の形3本の計10本で構成される「大日本帝国剣道形」が発表された。同時に、「他日もし改正を要する点を発見して、多数の輿論たるを認むるにいたらば、本会は再び調査会を開催するに吝かならざるべし」と表明された。 普及が進むにつれて、解釈に異同が生じたため、大正6年(1917年)に註が加えられた。さらに昭和8年(1933年)に増補加註された。 日本剣道形[編集] 昭和27年(1952年)、全日本剣道連盟が発足すると、名称を「日本剣道形」に改めた。昭和56年(1