柔道見ながら 私「あ、もうすぐ日本人出てくるよ」 息子「うんちー?」 私「違う、日本人」 息子「うんち出るー?」 私「日本人!」 息子「うんちー?」「うんち出るー?」 私「日本人が出てくるの」 息子「うんちー?」 妻「ひょっとして、うんち出たんじゃないの?」 私「あ、そっか。うんち出たの?」 息子「うんち出てない!うんち出てない!」 うんち出てた。おむつ取り替える間に柔道終わってた。
ダチョウって食べたことなかったんです。でも売ってるのは知ってました。 丸焼き用の子豚や、仔羊一頭、豚の頭1コとかでお世話になってるミートガイにもダチョウ肉あるし。 ダチョウ肉(オーストリッチ)ランプステーキ用 ブロック 約1kg【YDKG-tk】 価格:3,990円(税込、送料別) でも、結構高いんです。それにブロック肉だと何の肉かよくわからない。 食べてみたいけどなぁ。。と。 というわけで1頭売ってくれる業者をネットで探して、思い切って一羽分の肉を買っちゃいました。 楽しかったので皆さまも買うといいですよ。 参加してくれた方々のブログ だちょうをバラバラにしてきた―webの片隅でこそこそと ダチョウを捌く会に行って来ました。―猪かあさんの頭ん中 ダチョウの会―ムスシャモ日記 ダチョウをさばく会に行ってきた―ティッシュペーパーの向こう側 解体 我先にとストイックに解体していく人々。 料理
ソースはあの森毅なので真偽のほどに自信はないが、たとえばラ・フォンテーヌの寓話詩がたとえ事実と一致しなくとも(狂ったデモクリトスを診察したヒポクラテス、二人が親友になったというのは史実だろうか)人を真実に導く何事かを語っているように、この逸話も聞き留むべきものを備えているように思うので、いつのもましてうろ覚えのままに書き出してみる。 森毅は、晩年の湯川秀樹の人柄をしのばせるエピソードをいくつか紹介している。 最初のは森敦が森毅に教えてた話。 おそらく少人数を前にしての講義だったのだろう。 よくできる学生が、湯川が黒板で展開する数式に誤りを見つけた。 それを指摘すると、湯川はうーんとうなり、しばらく考えたが何ともすることができず、立ち往生してしまった。 それから「ちょっと待っとき」と言って、ぷいと教室を出た湯川は、しばらくすると岡潔(数学者)を連れて教室に戻ってきた。 「これなんやけど」 と
人生を滅ぼした女から、何を学ぶか。 「女とは愛すべき存在であって、理解するためにあるものではない」といったのはオスカー・ワイルド。これは、夫婦喧嘩という名のサンドバック状態になってるとき、かならず頭をよぎる。 結論から言う。論理的に分かろうとした時点で負け、相手の感情に寄り添えるならば、まだソフトランディングの余地はある。 しかし、夫と不倫相手は、そこが分かっていなかった。体裁を繕うことに全力を費やしたり、売り言葉に買い言葉で応じたり。優越感ゲームや記憶の改変、詭弁術の駆け引きは目を覆いたくなるが、それはわたしの結婚でもくり返されてきたことの醜い拡大図なのだ。 投げつけあう「あなたの言っていることが分からない」の応酬は、「どうせ分かってるくせになぜそういう態度をとるの?」の裏返しだ。大いに身に覚えがあるわたしには、ヴロンスキー(不倫相手)の利己的な愛の吐露が身に染みる。 「じゃあ言ってくれ
しばらく前にこういう格言を聞いて、ずっとひっかかっていた。 「もしあなたが無料でそのサービスで使っているなら、あなたは客ではなく商品なのだ。」 無料でサービスを使うというのはいったいどういうことなのだろうか。たとえば自分が何か「無料のサービス」を開発する場合、ユーザーのことをどう考えればいいのだろうか。 ときおり、無料サービスのユーザーサポートがひどいとかなんとか、話題になったりする。無料で提供しているのだから文句を言うなという意見もあるし、実ユーザーとして損害を被っているという視点もあるし、どう考えるのがいいのか。上の格言によれば商品なんだから、商品そのものに向かってサポートは必要ないということだろうか。 たぶん、無料ユーザーというのは客ではない。ただし、格言にあるような商品でもない。実際は従業員だと捉えるのが、もっとも合理的ではないか。その時、ユーザーがどのような労働をしているのか、と
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