内容は次の4つである。 南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。 皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)。 国衙領を大覚寺統の領地とする。 長講堂領を持明院統の領地とする。 50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の明徳3年(1392年)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。 義満は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武