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  • 明徳の和約 - Wikipedia

    内容は次の4つである。 南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。 皇位は両統迭立とする(後亀山天皇の弟泰成親王(後亀山の皇太弟)・小倉宮恒敦(後亀山の皇子)など南朝系皇族の立太子)。 国衙領を大覚寺統の領地とする。 長講堂領を持明院統の領地とする。 50年以上にわたる南北朝の争いは、途中南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだこと(正平一統)もあったものの、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握するにつれて北朝側優位の流れが次第に固まりつつあった。ことに第3代将軍・足利義満の時代の明徳3年(1392年)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。 義満は明徳2年/元中8年(1391年)の明徳の乱で有力守護大名の山名氏を弱体化させて武

  • 元弘の乱 - Wikipedia

    元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。ただし、元弘3年/正慶2年(1333年)5–6月中のどの出来事をもって終期とするかは諸説ある(→始期・終期)。 後醍醐天皇が倒幕を目指した理由や時期については諸説あって一定しないが、どの説を採用するにしても、元徳2年(1330年)末には具体的な倒幕計画を練っていたとされる。ところが、翌3年4月29日(1331年6月5日)に、後醍醐側近「後の三房」の一人吉田定房が六波羅探題へ計画を密告して、鎌倉幕府もこれを知るところになり、長崎高貞ら追討使が派遣された。関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は8月9日(西暦9月11日)に「元弘」への改元を詔し(幕

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  • 建武の新政 - Wikipedia

    建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。 後醍醐天皇は天皇による親政を理想とし、建武の新政を行い、鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、親政は2年半で崩壊し、足利氏が支配する武家政権に

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  • 武田信義 - Wikipedia

    武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長とは異母兄弟。甲斐源氏4代当主。武田氏初代当主。新羅三郎義光の曾孫である。 生涯[編集] 大治3年(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。 保延6年(1140年)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。 治承4年(1180年)4月頃、以仁王の令旨を戴いたとみられる。『山槐記』9月7日条には「義朝子伊豆を領

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  • 守護 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "守護" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2018年9月) 守護(しゅご)は、日の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。 鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれ

  • 政所 - Wikipedia

    この項目では、日の古代の家政機関、中世の職制について説明しています。日各地の地名、人名や日茶のブランドについては「政所 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 政所(まんどころ)は、 親王、三位以上の公卿に設置を許された家政機関のこと。平安時代に設けられた。 1に由来する鎌倉幕府の職制の一つ。 1、2に由来する室町幕府の職制の一つ。 皇族・公卿の政所[編集] 親王および従三位以上の公家の家政を担当する機関。事務官を家司という。 摂政・関白の夫人を北政所と称するのも、夫人が家庭内の家政を統括していた事に由来している(その住まいは邸宅の北側に設置される事が多かった。また平安時代の貴族は婿取婚が普通のため、その邸宅は夫人の実家から夫人へと相続されたものであった)。 荘園制が確立すると、政所が所の荘務を担当する機関として機能することになるが、荘園が衰退して公家家政が不振となった中世後期には実質は

  • 侍所 - Wikipedia

    侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。 鎌倉幕府は将軍源頼朝の下に、侍所・公文所(のち、政所)・問注所の三つの機構を置き、侍所は侍(御家人)を統率する機構で、今で言う、警察の役割・戦時における軍令司令部の役割で、軍事や警備、罪人の収監などを行った。 所司(しょし)または侍所司(さむらいどころのつかさ)と呼ばれる役職についた有力御家人が統制し、所司の中で最高位の者は別当(べっとう)と呼ばれた。鎌倉幕府の侍所は源頼朝によって治承4年(1180年)に設置され、別当は初め和田義盛らが務めたが、和田合戦により義盛が討たれると、

  • 鎌倉幕府 - Wikipedia

    ※ 幕府創設年について、治承4年(1180年)、治承7年(1183年)、元暦2年(1185年)、建久元年(1190年)、建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築い

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  • 比企能員 - Wikipedia

    比企 能員(ひき よしかず)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の妾[注釈 1]となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は皆殺しにされた。 『愚管抄』によると阿波国の出身[注釈 2]。源頼朝の乳母を務めた比企尼は、頼朝が流人となったのちも20年間支援を続けた忠節の報いとして甥である能員を猶子として推挙し、比企氏の惣領を継承した[2][注釈 3]。 寿永元年(1182年)8月12日、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて、北条政子が頼朝の嫡男・万寿(のちの源頼家)を出産。比企尼の縁によって能員は頼家の乳母父に選ばれている。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室)

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  • 鷲尾義久 - Wikipedia

    鷲尾 義久(わしお よしひさ、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年5月17日)?)は、平安時代末期の武士。源義経の郎党。通称は三郎。諱は経春とも伝わる。 『平家物語』の「老馬」の段に登場する(覚一)。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地鑑のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。 以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館にて主君と命運をともにしたという。 なお、義久の存在が書かれているのは『平家物語』のみであり、同時代の史料や鎌倉幕府編纂の史書『吾鏡』

  • 一ノ谷の戦い - Wikipedia

    一ノ谷の戦い関係図拡大 寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉軍は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平家は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。 同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。 2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平家一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平家一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある(後述)。 迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛

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  • 源範頼 - Wikipedia

    源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現・埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。 生涯[編集] 蒲冠者[編集] 『尊卑分脈』によれば、生母は遠江国池田宿の遊女とされている。池田宿は現在の静岡県磐田市(平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田に比定され、範頼の生地

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  • 宇治川の戦い - Wikipedia

    寿永2年(1183年)7月、信濃で平家打倒の挙兵をした源義仲が数万騎を率いて入洛した。義仲軍は京で乱暴狼藉を働き、やがて皇位継承を巡って後白河法皇とも対立した。9月、義仲軍は備中水島の戦いで平家軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放した。10月、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に東海道・東山道の支配を認める院宣を密かに下し[1]、頼朝に接近した(寿永二年十月宣旨)。 11月、起死回生をはかった義仲は院御所の法住寺殿を攻撃、後白河法皇を幽閉して政権を掌握した[1](法住寺合戦)。孤立を深める義仲は平家との和平を打診するが、拒絶された。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。そして翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命された。1月20日、頼朝は近江にまで進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じた。 入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いでの敗北と状況の悪化により脱

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  • 梶原景時 - Wikipedia

    梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景正がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。 治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵

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  • ケトン体 - Wikipedia

    ケトン体(ケトンたい、独: Ketokörper、仏: Corps cétoniques、英: Ketone bodies)とは、脂肪酸の代謝の内、その酸化によって生じたアセチルCoAからアセトアセチルCoA、3-ヒドロキシ-3-メチルグルタリルCoAを経て生じたアセト酢酸が可逆的に還元されて3-ヒドロキシ酪酸となり、それが非酵素的に脱炭酸されてアセトンとなる経路および途中で生産される化合物の総称。 ケトン体はアルツハイマー型認知症(3型糖尿病)、糖尿病やパーキンソン病などに高い抑制効果が期待できる[1][2]。 ケトン体の物質群[編集] ケトン体の合成経路で生産される物質群は一般にアセトン、3-ヒドロキシ酪酸及びアセト酢酸である。3-ヒドロキシ酪酸は肝臓において脱水素酵素によってアセト酢酸に変化する。血中に循環しているものの大部分(70%以上)は3-ヒドロキシ酪酸であり、多くの場合特に断

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  • 田中眞紀子 - Wikipedia

    田中 眞紀子(たなか まきこ、1944年〈昭和19年〉1月14日[1] - )は、日政治家、実業家。越後交通代表取締役相談役[2]、長鐵工業代表取締役会長[3]。 文部科学大臣(第17代)、外務大臣(第126代)、科学技術庁長官(第52代)、衆議院議員(6期)、衆議院外務委員長・文部科学委員長、新潟放送取締役などを歴任した[4][5]。 日で初めて女性で外務大臣を務めた。父は第64・65代内閣総理大臣の田中角栄。夫は防衛大臣などを務めた田中直紀[1]。 東京都文京区に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。籍地は新潟県柏崎市。千代田区立富士見小学校、日女子大学附属中学校・高等学校を経て、早稲田大学商学部へ進学。早大在学中は演劇サークル劇団木霊に所属し、同期には久米宏や長塚京三がいた。大学卒業後は1968年から1969年まで劇団雲研究所に所属し、女優として舞台に出演するが、結婚

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  • ビッグ・テック - Wikipedia

    ビッグ・テック(Big Tech)[1]は、テック・ジャイアンツ(Tech Giants)[2]、または口語ではフォー・ホースメン(The Four Horsemen) [3] [4]、ビッグ・ファイブ(Big Five)[5]、などとも呼ばれ、アメリカ合衆国の情報技術産業において現在最も規模が大きく、支配的で、最も名声のある4~5社のことを指す名称である。ビッグ4は、Alphabet(Google)、AmazonApple、Meta(Facebook)の4社で、Microsoftがビッグ5を構成している[6][7][8][9][10][11]。 GoogleAmazonApple、Meta、マイクロソフトのロゴマーク ビッグ4は、Eコマース、オンライン広告、家電、クラウドコンピューティング、コンピュータソフトウェア、メディアストリーミング、人工知能、スマートホーム、自動運転車、ソー

  • オオムラサキ - Wikipedia

    オオムラサキ(大紫、Sasakia charonda)は、チョウ目(鱗翅目)タテハチョウ科に分類されるチョウの1種。日の国蝶。 種は最初に日で発見され(種の基産地は神奈川県)、属名の Sasakia は佐々木忠次郎に献名された。 生息域[編集] 日・朝鮮半島・中国台湾北部・ベトナム北部に分布している。 日では北海道から九州まで各地に分布し、南限は宮崎県小林市。日では生息環境が限られ、適度に管理された、やや規模の大きな雑木林を好んで生息する傾向が強い。かつては東京都区内の雑木林でも見られた。都市近郊では地域絶滅の危機に瀕する産地もある一方、山梨県のように今でも広域に多産する地域がある。 形態[編集] 日に分布する広義のタテハチョウ科の中では最大級の種類。生態や幼虫、蛹の形態は同じコムラサキ亜科のゴマダラチョウによく似る。 成虫は前翅長50-55 mmほどで、オスの翅の表面は光

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  • ディエゴ・ミリート - Wikipedia

    ディエゴ・アルベルト・ミリート(Diego Alberto Milito, 1979年6月12日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ベルナル(英語版)出身の元サッカー選手。元アルゼンチン代表。現役時代のポジションはフォワード。 愛称の「エル・プリンシペ(王子)」は、80年代から90年代に活躍した元ウルグアイ代表で、CAリーベル・プレートに在籍したスター、エンソ・フランチェスコリに容姿がそっくりであることに因んでいる[1]。アルゼンチンのビッグ・クラブのラシン・クラブの歴史において、最大のアイドルの1人とされている[2]。 同じく元サッカー選手のガブリエル・ミリートは弟。なお、祖父母がカラブリア州コゼンツァ県テッラノーヴァ・ダ・シーバリ出身であるため、イタリアのパスポートも有するイタリア系アルゼンチン人である。 1979年に彼が生を受けた時、父親はディエゴ・アルマンド・マラドーナにあ

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  • エゴマ - Wikipedia

    油脂[編集] エゴマ油(荏胡麻油、Perilla oil ペリラオイル)は種子から絞った油で荏の油(えのあぶら、えのゆ、荏油〈じんゆ〉)ともいわれ、用に、また乾性油なので防水性を持たせる塗料として油紙、番傘、油団などに用いられてきた[12]。 中世末期に不乾性油の菜種油が普及するまで日の植物油はエゴマ油で、灯火にもおもに用いられ、安定して確保供給するために油座という組織が作られた。菜種油の普及とともにエゴマ油の利用は衰退し、乾性油としての特質が不可欠な用途に限定され、知名度は低下した。朝鮮などは(トゥルギルム)と称して日よりも一般的に使用されつづけている。 1990年代後半以降、エゴマ油が人体に不可欠な必須脂肪酸であるα-リノレン酸を、他の用油に比べ類を見ないほど豊富に含んでいることから、健康によい成分を持つことが注目され、再び日品市場に現れるようになった。しかし、エゴマ油の

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