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シカゴ大学法学部ブログではじまったグレン・レイノルズ(テネシー大学法学教授、保守系ブロガーInstapunditとして有名)との対論において、キャス・サンスティーンが政治学者ダイアナ・マッツの『Hearing the Other Side: Deliberative Versus Participatory Democracy』を引いて集団分極化について面白い指摘をしている。 サンスティーンの『Republic.com』(『インターネットは民主主義の敵か?』)では、集団分極化のメカニズムが人々を分断し、先鋭化を起こすことが懸念されている。しかしそうした先鋭化は、同時に人々の政治参加の動機を著しく強めることにもなる。もし自分たちに何が正しいか分かっており、敵対者はとんでもない悪人かバカのどちらかであるなら、自分たちの主張を通すためにより深く政治活動に関わろうと思うようになる。 逆に、閉鎖的な
mojimojiさんから再応答をいただいた。 おっしゃることはよく分かるのだけど、私にはまだ少し違和感があります。 他方で、自己欺瞞をうまく扱えない人がいる。そういう人がたくさんいる。 こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。 前回の文脈でいうならば、世の中には「倫理的な責任」を 「感じない人」 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」 「どうしても感じてしまう人」 がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。 しかし、それは同時に、「本当はできるでしょう?」などという必要もないことになります。言おうが言うまいが「感じてしまう人」なのですから。 結局、「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」といえるでしょう。 となれば、「多少は感じる、あるいは感
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