タグ

イエスと聖書に関するmshkhのブックマーク (5)

  • イエスは地面に何を書いていたか

    しばらく間があいてしまったが、ブログのエントリ「ChatGPT とヨハネによる福音書」の続きを書いてみたい。 先のエントリに書いたように、ヨハネによる福音書に、イエスが地面に何かを書いていたという場面がある。しかし今となっては、イエスが書いたその内容は知られていない。現在、その内容についてはいくつかの説があるのだが、私は、それらの説にしっくりこない気持ちを抱いていた。一方で、私なりに思うところもあるので、改めて自分の思いをエントリにまとめてみたい。それは、識者にとって失笑される内容かもしれないが、恥をかくのを気にしていたらブログなどとても書けない。ので、気にしないことにする。 前置きが長くなったが、最初に、イエスが地面に書いていた場面を簡単に説明しよう。以下では手抜きだが、ChatGPT による説明を再掲することにする: この場面は、ファリサイ人たちが罪を犯した女性を持ってイエスの前に連

  • Jesus and the woman taken in adultery - Wikipedia

    "Christ and the Woman Taken in Adultery" redirects here. For other uses, see Christ and the Woman Taken in Adultery (disambiguation). Christ with the Woman Taken in Adultery, by Guercino, 1621 (Dulwich Picture Gallery) Christ and Sinner, 1873 by Henryk Siemiradzki Christ and the Woman Taken in Adultery, 1565 by Pieter Bruegel, oil on panel, 24 cm × 34 cm (9.4 in × 13.4 in) Christ and the woman tak

    Jesus and the woman taken in adultery - Wikipedia
  • [書評]英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(シンシア・ブジョー): 極東ブログ

    センタリングの祈りについて書かれたシンシア・ブジョーのを読んだあと、彼女自身の思想を追ってみたい思いがして、もう一冊何か読んでみた。「英知のイエス 心の変容、キリストとそのメッセージについての新しい見方(The Wisdom Jesus: Transforming Heart and Mind--A New Perspective on Christ and His Message)」(参照)である。 私自身、似たテーマを考えてきたこともあり、内容の少なからぬ部分については既知ではあったが、著者ブジョーが整理した視点(パースペクティブ)は類書では得がたいものだった。 タイトルになっている「英知のイエス(The Wisdom Jesus)」は、ともすれば、「イエスの英知(The Wisdom of Jesus)」として理解されやすい。ジェファーソン聖書のように、理性的に受け止めやすく、正し

  • 41 : Lesson - finalventの日記

    God goes with me wherever I go. 先日ツイッターで、イエスは律法の完成者であり聖書の示す律法を理解するには膨大な知識が必要だみたいなのがあって、まあ、自分もそう思うこともあるのだけど、ご苦労なことだなとも思った。 イエスの律法はごく単純なのである。主を愛すること、他者を自分のように愛すること(許すこと)。なにもacimを持ち出さなくても、普通に福音書を読むだけでもくっきりとわかるし、そしてそのことは、イエスが安息日の主として諸規定をやすやすと破ったことや、ライ病者や売春者に接していたことでもわかる。それは言葉だけでなく、行いとしても示されている。 聖書の総体が示すこと(イエスが律法の完成者であること)はその意味ではごく単純なことであり、その単純さを避けるための複雑さというのは、自分で作る苦悩ようなものにすぎない。 今日のacimのworkは単純と言えば単純だし

    41 : Lesson - finalventの日記
  • イエスの孤独 - finalventの日記

    北森嘉蔵牧師をネットで検索して、もう10年近くも前に亡くなられたことを知った。失礼な言い方だが、なんとなくそう思っていたが、いつお亡くなりになったかは知らないでいた。 ⇒北森神学とは何か 北森牧師にお会いしたことはなかった。少しばかりお会いしたい気持ちはあった。書籍からはいろいろ学んだ。牧師は神は痛んでおられたと語った。痛みとはまさに痛みだった。遠藤周作のイエス像にもそれに近く、痛むものの同伴――永遠の同伴者――が描かれているが、牧師の神学の根幹にはただ痛みがあった。そして絶対的な孤独があった。(カトリックの信者にとってイエスの痛みはごく当たり前のことかもしれない。あるいはそれ以外のキリスト教徒にとっても。) 北森牧師は私の理解を是とされないかもしれないが、いや、是とされるのではないか、あの十字架上の「エリエリレマサバクタニ」を牧師は、イエスが神に見放されたと見ていた。牧師にっとて、痛みの

    イエスの孤独 - finalventの日記
    mshkh
    mshkh 2007/06/25
    「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。」
  • 1