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貧しかった学生時代の名残だろうかと思いながら生活してきたが、30代になっても全然変わらない。それどころか使い古されたものの方が好きになってしまった。中古品には誰かの影が残っていて、耳を傾けるとものを言う。昔の何気ない日常を熱心に語る。そういうのを聞くのがすごく好きだ。 車も中古車だし、服も靴も半分は中古だ。椅子は中古のコンテッサ。パナの加湿器もモンベルのテントもクリステルの大鍋も中古。これは蓋が別売りなのだが、それも中古。鏡面仕上げの隅に磨き傷がある。その他に目立った傷はない。気軽にクリームクレンザーか何かでひと拭きしたところで、粒度が粗すぎたことに気づいたのだろう。 フェールセーフは機能したが、蓋を閉めるたびに自分のミスを突きつけられているようで我慢ならなかったのだ。ところが私は他人である。他人の些細なミスを引き受けるのは容易い。その蓋は「本来そういうもの」なのだ。少し奮発してぴかぴかの
父親がパソコンオタクだったため、我が家にはニフティサーブのサービスインと同時にネットが導入された。俺はまだ中学生だった。 最初はジオシティーズに個人ホームページを作るなどして遊んでいただけだったが、メル友募集掲示板というものに出会ってしまい、もともと文章を書くのが好きだったこともあってハマってしまった。 当時のメル友というのはPCを使って長文のやり取りをするもので。後にくるケータイ時代の常に短文をやり取りするスタイルとは根本的に異なる。いわば文通に近い。 どこに住んでいるかもわからない相手と近況を報告し合ったり、本や映画について踏み込んだ感想を交換したり、そのメールの返事がいつ届くのかじりじりして待ったり。現代からするとだいぶレトロな世界観だが、ネット自体が普及しておらず、調べ物は図書館、待ち合わせには念入りな調整が必要で、大都市の情報は雑誌や新聞が頼り……そういう時代だったから、メル友と
20歳の若さでヒットを飛ばし独立するも、社長業に追われゲーム作りから離れてしまい、「一緒にゲームを作ろう」と志を共にした親友とも決別。ゲーム会社の社長なのに10年近くゲーム制作から逃げていたが、海外ファンからの熱いラブコールに押され、齢57にしてUnityもバリバリ使いこなし現場の第一線に復帰した開発者の話 本稿では『ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド』の開発者、西澤龍一氏のインタビューをお届けする。 西澤龍一氏 ……といっても、『ワンダーボーイ』『モンスターワールド』といったタイトルと、その開発者である西澤氏の名前は、レトロゲームやセガハードのファンの間では広く知られているものの、年齢の若いゲーマーをはじめとする幅広い層には、少々解説が必要だろう。 まずは、以下に西澤氏がこれまで手がけたゲームのリストを掲載したので、ぜひ見てほしい。 1981年 スイマー(AC) 1983
32年間を経て、今村孝矢さんは任天堂を退社した。「スターフォックス」、「F-ZERO」、『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』など、今となってはゲームの古典と言える傑作の数々に携わっていた今村さんの退社は、自身のツイートをきっかけに世界中のゲーマーの間で話題となった。今後は大阪国際工科専門職大学でCGアニメーションを含むデジタルコンテンツを教えつつ、フリーランスでも活動を続けると言う。 今村さんの今後の活躍について別のインタビュー記事で詳しく聞いているのでぜひチェックしてほしいが、本インタビューでは任天堂時代を振り返ってもらった。 今村孝矢さん。 32年間という、筆者にはおよそ想像もできないほど長い間をどのように振り返るのかを尋ねた。今村さんはしばらく考えてから、このように答えた。 「思えば、ずっと宮本さんの下で働いた32年間でしたね」と。 マリオやゼルダの生みの親として知られる宮本茂さんが20
1997年生まれ。大学院で教育学を勉強しつつ、チェーン店やテーマパーク、街の噂について書いてます。教育関係の記事についても書きたいと思っているが今まで書いてきた記事との接点が見つからなくて途方に暮れている。 前の記事:パスポート写真のNG例が面白いので、調べてみる > 個人サイト Note これがきぬた歯科の看板 そのきぬた歯科に来た。外観がもう面白い。そして、 院長のきぬたさん。看板の人だ! バリエーションは無限大 ーー今日はよろしくお願いします。看板を見るたびに写真を撮ってるんですが、なかなか撮りきれません。そもそも看板って全部でいくつぐらいあるんですか? きぬた院長:340ヵ所位ですね。(2020年2月現在)。 ーーそんなに!定期的に増やしてそれぐらいの数に到達したと。 きぬた:いや、そんな戦略的にではなくて、気分で増やす。3ヶ月なにもしないときもあれば、続けて出すときもあるんです。
母の葬儀の後、弟と一緒に遺品整理をしていた。2015年の冬の事だ。その時出てきたのがこれらの写真だった。子供時代のオレが、着ぐるみの怪獣たちと一緒に映っている写真だ。中央の、熊の絵の鉢巻きをして、不安そうな顔で明後日の方角を観ているのが子供の頃のオレだ。子供の頃、とは言っても、幾つぐらいで撮った写真なのか正確な所は憶えていない。4歳なのか、5歳なのか、6歳なのか、はたまた7歳なのか。まあ、その位の年の写真という事だ。 場所は、当時地元で一番大きなデパート、その名も「高林デパート」の屋上だ。ちなみに「地元」というのはオレの生まれ育った北海道の、稚内という街だ。知ってる方も多いと思うが、稚内というのは日本の一番北の街だ。海の向こうにはロシア領のサハリンが見える。要するに限りなくロシアに近い土地なのだ。サハリンは第2次世界大戦前まではその半分が日本の領土で、樺太と呼ばれていた。それが終戦間際に当
高校生の夏休みに遠出してニコ生の踊ってみたのイベントに参加 高速バスで帰宅してすぐにパソコン立ち上げるとうpされてた それを見てたら「緑の服の人(俺)かっこいい」ってコメントに興奮 始めたばかりのツイッターアカウントに動画のこと書いたらフォロワーが増えて もしかしたら彼女できるかもwなんて思って その日は興奮して一日中寝れなかった お母さんから「晩御飯食べないの」って聞かれたけど無視 ずっとニコ生のランキング見たり配信観たりゲームして過ごして 夜中2時お腹が空いてこっそり台所へ 晩御飯は残ってなかったので、インスタントラーメン作って そのまま朝までネットして気がつくと朝になってた 朝5時くらいかな、夏だからもう明るくて だけど人はいない、静かで特別な空気の中をふらっと歩いた ipod聞きながら散歩してたらアジカンが流れてきてさ 大学入ったらバンドやりたいなーなんて思って 近くの自販機でカフ
以下はただの与太話だ。 伝説のRPG『moon』20年目の同窓会──ラブデリックメンバーが語る、ディレクター3人という奇跡のような開発スタイル…そして「あのころ」の始まりと終わり【座談会】 この座談会を読んでいて、職場だってのにひとりボロボロと泣いてしまった。 自分の今の人生と、自分自身を形成する大きな要素となった人たちが、当時どんな熱量でゲームを作っていたのかを改めて読んだら、もうダメだった。 自分は、かつて縁あって上記の座談会に参加されている中の、(欠席していた西さんも含めて)木村さんを除いた全ての人と一緒に仕事をしたことがある。 特に工藤さんや倉島さん、安達さん達に混じってゲームを作っていた、23歳の誕生日を迎えた日から25歳の夏までの日々は、今でも忘れられない。 当時、ちょうどそれまで働いていた会社を辞めてぼーっとしていた自分は、ふと思い立って『MOON』『UFO』(自分がゲームを
裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書) 作者: 上間陽子,岡本尚文出版社/メーカー: 太田出版発売日: 2017/02/01メディア: 単行本この商品を含むブログ (4件) を見る 本を閉じた時、思い出したのはやはり同級生たちのことだった。かつて、僕はヤンキーがマジョリティを占める学校に通っていた。ひとくちにヤンキーと言っても、いろいろな層がある。単に快活だからヤンキーになった、いわゆる「健康優良不良少年」としての、ヤンキー。彼らはスポーツもできるし、明るく、何をやらせてもよく目立つ。クラスの花形のような存在だ。ただヤンキーでいるのが楽しいからヤンキーをしているだけで、その気になれば、どんな道を歩むこともできるだろう。実際、彼らの多くは「更生」する。というよりも、ただ元気が有り余っていただけで、もともとそれほど悪くもなかったのだ。 そして、「健康優良」ではない、ただの「不良」と
ちょっと思う所があって、久方ぶりに雑記してみる。 今日、たまたま夜道を歩いていて――まあ平たく言うと『Ingress』をしていたのだけれど、見ず知らずの男性から急に声をかけられた。相手は自分より10歳以上は年上だろうか。40代後半か、50代半ばという印象だった。小柄で、痩せていた。その人は俯き加減で、本当に申し訳なさそうに、こう切り出した。 「電車賃が無くて家に帰れなくなってしまいました。電車賃を恵んで頂けないでしょうか?」 ぼそぼそと喋っていたのでよく聞き取れなかったのだけれど、概ねこんな内容だった。自分は咄嗟に「いくらあったら足りますか?」と聞き返していた。何かを考えて発した言葉ではなかった。男性は絞り出す様に「200円あれば足ります。10円玉は持っているので」と答えた。その人の告げた目的地は最寄り駅から2駅の場所にあり、確かにあと200円あれば片道の切符を買える計算だった。 自分は財
これがなすびあんとして書く最後のブログになります。 今年の1月から放置し続けてきましたが、そろそろ更新したいと思います。 申し訳ありませんが、なすびあんは活動を停止しました。 応援して頂いた皆様、ご協力いただいていた皆様には本当に申し訳ありません。 私としてもこんな終わり方だけはしないようにしようと考えておりましたが、不本意ながらそうなってしまいました。 逆説的ですがそれを認めたくないためになすびあんから遠ざかっていました。 ここに来ればなすびあんが終わった事を認めざるを得ないからです。 ですが、もはや活動を再開できる兆しもないためにケジメをつけなければいけないように思います。 曲がりなりにも一生懸命やってきたつもりの活動をフェードアウトして終わらすのはこの活動のすべてを台無しにしてしまう気がしたので。 なのでつらつらと活動を停止する言い訳を並べていこうと思います。 1.金銭的事情 まず活
【岩田 聡氏 追悼企画】岩田さんは最後の最後まで“問題解決”に取り組んだエンジニアだった。「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」特別編 編集部:TAITAI カメラマン:増田雄介 123→ 4Gamerが任天堂取締役社長(当時)岩田 聡氏と,カドカワ(当時はKADOKAWA・DWANGO)川上量生氏の対談を掲載したのは,ちょうど一年前の12月末のことだった。 任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」 連載の最後を飾るにふさわしいラスボス的なゲーマーは,岩田氏以外ないというお願いを快諾していただき実現した対談では,岩田氏自身の経営哲学からプログラマー時代の豪腕ぶりがうかがえるエピソードまでが本人の言葉で語られ,大きな反響を呼んだ。 岩田 聡(いわた・さとる):1959年北海道生まれ。1982年に
小学生の頃。 学校からの帰り道、仲の良い友達数人で駄菓子屋に寄って食料を調達、その後公園に集まりドッヂボールなどで遊んでいた時の事。 休憩がてらお菓子を食べつつベンチで休んでいたら、一番の親友であるN君がトイレからの帰り道、走って帰ってくる勢いそのままに立ててあったコーラの缶を思いっきり蹴りあげた。 N君は空き缶だと思っていたそうだが、中身がまだ大量に入っており、コーラの液体をまき散らしながら宙を舞う缶が着地した先は、みんなが置いていたランドセルの山だった。 N君以外が怒気を込めて抗議をしつつも、ビショビショに返りコーラを浴びたN君と、ランドセルの山に流れ続けるコーラ。 目の前に起きたあまりの惨劇に全員が涙が出るほどに爆笑するしかなかった。 そんな笑いながら涙で潤んだ視界の端に、おそらく学校の用事で遅くまで残っていた同じクラスの女子数人のグループが居た。 公園沿いの道から今起きた一部始終を
支援コースラインナップ サポート金額 1,000円 第二期本編データ配信 【お返し内容】 ・毎月一回 第二期本編データ配信 ・毎月御礼コラムメール(本編と同時) お届け:2015年 01月予定 11人がサポート サポート金額 3,000円 『8bit年代記』漫画オンデマンドコミック本 1000円コースに加えて、オンデマンドコミックを特典に追加。 【お返し内容】 ・オンデマンドコミック本 ・毎月一回 第二期本編データ配信 ・毎月御礼コラムメール(本編と同時) ※コミック本はご指定の住所に配送します。 お届け:2015年 05月予定 39人がサポート サポート金額 5,000円 秘蔵資料+ネーム資料+オリジナル壁紙 3000円コースに加え、本編設定資料、幻の続編企画「ゲームヒメ」ネーム全編(合計3話)資料、オリジナル壁紙を特典に追加。 【お返し内容】 ・設定資料、「ゲームヒメ」ネーム データ配
■RPGツクール わが高校時代。 パソコン研究部の活動場所たる情報処理室の隅っこには、俺をはじめとするこの学校きってのぼんくらたちが日々つどい、暗愚きわまる時間を過ごしていた。 ぼんくらたちは当時、いったいどこから入手してきたのか、怪しげなゲームが入ったフロッピーディスクを無数に持ち寄った。 その中のひとつに「RPGツクール」なるものが混じっていた。 言わずと知れたRPG制作ソフトである。 これを使えばドラゴンクエストのような名作をつくれる……とまで安易なことを思ったわけでもないだろうが、当時の俺は軽い気持ちでRPGツクールを起動した。 RPGツクールに触れてみてわかったのは、とにかくゲーム作りがたいへんなのだな、ということである。 戦闘で使う呪文ひとつひとつに名前を与え、威力や画面エフェクトを設定する。出来あいのものをただ設定するだけでも相当に面倒なのである。これがもし、それぞれを自分で
人は中年になるとしきりに昔のことを思い出すようになる。少なくとも俺はよく思い出す。ああ、そういえば俺にも高校時代ってやつがあったよなあ、と高校を舞台にしたアニメなんかを観ながら思い返す。 共学ではあったけれど女っ気は皆無だったし、部活とかで熱いバトルを繰り広げたりもしない凡愚きわまるハイスクールライフを送っていたが、そういえばナイフで刺されたことが一度だけあった。今も腹部に傷痕が残っている。 高校三年生の、たしか秋ごろだったと思う。文化祭の準備に追われていた記憶がある。 俺を刺したのは同じクラスのSくんという男子だ。よく言えば素朴でおとなしい、悪く言えば暗い感じの少年で、クラス内のヒエラルキーは低かった。暑苦しくて根暗なデブであるところの俺とSくんは自然に仲良くなり、よく本やゲームの貸し借りをしていたものだ。 富野作品を愛していた彼から、俺は「ガイア・ギア」のラジオドラマCDだとか「逆襲の
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