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  • 菊池寛と詩 - 柳田威生blog

    小谷野さんに示唆されて、菊池寛についての丸谷才一の文章を読んだのだが、これがあまり良くない。まさに通俗な文章というものの見のようなもので、菊池寛とHGウェルズを並べるという発想の、見かけの奇妙さによりかかったものでしかない。 さて、この文章で、菊池寛が詩をわからないとしたことを菊池の欠点として丸谷は紹介しているのだが、これは果たしてそうであろうか。私は、かえって、詩を許せなかった菊池寛の感性がよくわかる気がする。私自身は、けっして詩を許せなかったりバカにしたりはしないが、しかしみずからすすんで親しもうともしない。要するに敬遠しているのである。 「不可能と可能との限界のわからない人」の頭の中にだけ詩が残っている、という菊池寛の述懐は、いまの私には、ものすごく説得的に感じられるのである。外部に対象のある、あるいはかつてあった言葉だけを、組み合わせて創作していこうという考えがあったのではないか

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  • 『黄泉の犬』 - 柳田威生blog

    1960年代にインド体験を得ていた著者が、後続世代のインド体験に疑問をもつくだりが面白い。インドには1970年あたりから先進国の裕福な子弟を顧客とした宗教産業が登場してそれが発達していたのだ。 藤原新也は1963年と1968年に富士山を車窓から眺め、後者の景色がコンビナートの存在によってだいなしにされたことを強く印象に刻む。1968年の藤原新也はそのまま高度経済成長の日を離れインドに赴く。管理社会化への道をひたはしる日社会に疑問を抱いた藤原に、インドの社会は思いもよらない相貌を示すのだった。不潔と飢えと宗教。死体を荼毘に付すカーストの人々。オウム事件が発生した後、麻原彰晃と水俣病の関係について調査をすすめた藤原だったが、関係者の反対にあい、ルポ連載は、過去の藤原のインド体験を追想するものへと方針転換を余儀なくされる。1995年のある青年が藤原にコンタクトを図る。藤原は青年の求めに応じて

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  • 丸谷才一が近づきたいのは「民衆」か? - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110502 とてもそうは思われないのである。丸谷が近づきたいのは、「西洋モダニズム文学」とか「日の王朝時代」とか、そういったものではないかと思うのだが。 最近の若い読書好きは、丸谷のことを、「スティーグ・ラーソン『ミレニアム』シリーズに帯文を書いた人」として認知しただろうし。 小谷野説では、語彙の高尚・難解なのを無視して、作品の構造が通俗小説しているものならば、「通俗小説」カテゴリに含めるから、石川淳と高橋和巳と井上光晴が通俗作家である、という発言になる。これはやはり特殊な説であって、ある種の人びとが憧れるのは(柳田國男がそうであったような)「良心的官僚」なのではないか。丸谷は、そういう気味なら、なくもない。 しかしまあ、こういうことをいう時の小谷野さんは、フロイトも驚くほどの普遍主義者に変身してしまうのだ。

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    muimimuimi
    muimimuimi 2011/05/01
    ところで丸谷作品の「作り物めいている」という性格のほうがおもしろいような気がする。
  • 名辞と実質 - 柳田威生blog

    「大正生命主義」という名称に顕著だが、鈴木貞美はわりと用語法がざっくりとしていて、たとえば過去に存在した「大正生命」という保険会社のことを知ってか知らずか、こういう名付け方をするのである(鈴木の文献を参照していないので、このことはすでに鈴木人が言及しているかもしれない)。私が、何だこれは、と思ったというのは、そういう意味からでもある。うまいたとえが浮かばないが、柔軟な経営方針をとる銀行のことを「ソフトバンク主義」と呼ぶようなものである。 「大正期の生命力思想」とでも名付ければ、そんなに奇異な感じはしないのだが。あるいは「大正期の思想における生命力モチーフ」とか。 小谷野さんは、たぶん実質としての純文学と通俗文学の区分を話題にしようとして、しかし実例を挙げていくといろいろと例外がでてきてしまうので、自分の実感に確信をもちつつも行論がすっきりまとまらないでいる。そのように見えるのだが。 概念

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    muimimuimi
    muimimuimi 2011/04/30
    「ソフトバンク主義」に笑った
  • 生物と生命 - 柳田威生blog

    鈴木貞美の著作歴を調べているときから、「大正生命主義」という語に異様さを感じて、何だこれは、などと思っていたのだが、『日文ナ』の、いよいよ当該項目にさしかかってきた。 少し前に、鈴木とまったく関係のない文脈で、私は「私は生物には関心があるが、生命には興味がない」と書いていて、すこし、にやにやしながら読み進むのである。 ちなみに、私は西田幾多郎を、身近に「きたろう」という名の知人がいないせいもあって(しかもややこしいことに、きたろうという俳優がいる)、「ゲゲゲの鬼太郎に似た名前の人だな」としか思ったことがない。社会科の教科書か資料集にあった肖像写真も、なんだか水木マンガ的な面構えに感じたものだ。

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  • 和田はつ子の小説 - 柳田威生blog

    よく調べてないのだが、角川ホラー文庫のほうで活躍してから、時代小説の方に進まれているのだろうか。先だって匿名子がくさした文言を小谷野さんが面白がって言及した作家の小説を、どれどれと買ってみたのである。とはいえ、百均コーナーで旧作の『マインド・コントロール 心理分析官加山知子の事件簿』(角川ホラー文庫)を選んだのだが。 小説作法として「説明するな描写せよ」というのがあるらしいことをむかし筒井康隆のエッセイで読んだが、この作家は、地の文でも登場人物のセリフでも、ばんばん説明口調で話を進めていっていて、私はけっこうこういうのは好きな方である。主人公が同僚刑事たちに快楽殺人犯と強姦魔の違いについて講釈するのだが、そのセリフが笑ってしまう。「相手の首を絞めながらインサートすると、たまらない絶頂感があった、だからやらずにはいられなかったと告白したのは、戦後すぐの焦土に出現し、十人以上の若い女性を殺した

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    muimimuimi
    muimimuimi 2011/04/30
    饒舌に説明する。おもしろい。
  • なぜ宗教文書は大量に遺されるのか - 柳田威生blog

    それはひとえに、人の心に関わるものだから、ではないかと思うのだ。歴史にしろ地理にしろ、あるいは叙情詩にしろ叙景文にしろ、ものにするには種がいるが、宗教のテーマは、人の心そのものだから、種は他のジャンルにくらべて広大である。他ジャンルのものは、見聞を広めるなり、研鑽を積むなりしなければならないが、宗教に関しては、自分が心をもってさえいればそれで十分なのである。 新約聖書の、福音書には正直いってどうという感想も浮かばず、ただイエスの折々の機智に感心するだけなのだが、「ローマ信徒への手紙」にはうなってしまうのである。原初の心理学がここにある。

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  • 言文一致の顕教と密教 - 柳田威生blog

    『日文化ナショナリズム』を読んでいる。言文一致のところが面白い。坪内逍遥は、じつは「ことばと文章は一致して、かつ、あらゆる文章が一様なものに統一されなければならない」と考えていたのではなかろうか。 すべての人が、見聞きしたこと、考えたことを、同じように表現することが、もしできるのならば、これはものすごいことになる。文化の力によって、テレパシーと同等のことを実現するようなものだ。 そう思うと、人文学がにわかに素晴らしいことのように思えてくる。思ってもいいのだろう。 すべての人が同じ表記をする夢を、たとえば、わりと最近では(それでも数十年前だが)梅棹忠夫がローマ字表記を例にとって、語ったのだった。 鈴木貞美は上田万年(かずとし)が自らの主張する表記法を自分自身がなしえなかったことをもって、上田を非難するのだが、ごく幼稚な論理だと思う。「私も出来てないけれど、これから頑張りましょうね」なんて

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  • ディメンションの混乱 - 柳田威生blog

    小谷野さんが『キルプの軍団』に触れていたので、しばし考えたのだけれども、後期の大江調のような映像作品ってあるのかなということである。なにしろ写像理論の提唱者としては、例外はあまり作りたくないのである。 すぐに思い浮かぶのは相田洋の電子立国シリーズである。映像の編集も相田が手がけているし(そうとう入り組んでいる)、さらには「エイリアンのラジオ体操」も相田の企画であろう。モーションキャプチャーのスタッフとのやりとりをそのまま流して、「こんなの聞いてないなあ」と相田がぼやきながらストリップを演じるところまでが、相田の狙いなのである。このあたりのユーモアは大江に通じるものがある。 私は大江小説の魅力というのは「次元の意図的な撹乱」にあるのだと思っている。そういう意味では、大江の作品はけっこう前からワンパターンであるともいえる。ワンパターンで、かつ魅力的なのである。

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  • 大出版社と出版社 - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20110417/p1#c 昨夜の議論の続き。 「純文学と文学」という区分にならうと、「大出版社と出版社」がいいのではないかと思う。小出版社というのは、企業の規模を示しはするが、いわゆる「大出版社」の生産物とは傾向が異なる。専門書をほそぼそと出しているというのが通常の「小出版社」のイメージだが、過度に大衆的なものを出すところ(鹿砦社)もある。 私はビジュアル全盛時代に思春期を送ったので、価値観が狂っているというかずれているのだが、普通は一般人というのは、ビジュアルはにとってはオマケであると思うらしいのだ。ほら、マンガをと認めるか認めないかで意見が別れることがあるでしょう? 大出版社というのは、ここでは文春と新潮社と中公(婦人公論)、NHK出版などを念頭においているのだが、こういうところの新聞広告はビジュアルなものだから

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  • 写像理論 - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110417 ただ、大衆もまた「テレビ映画でお腹いっぱい」だったかどうか。小学校で字の読み書きを教わっているのだから、を眺めるくらいはするでしょう。 私は「読了率」ということを考えるのです。大衆は著しく読了率が低いけれども、「ベストセラー関心率」というのはそこそこあるのではないか。 だいたい宣伝というものをする、それも新聞にする、その新聞が何百万部とかなのだから、「関心率」は高いだろうし、その宣伝の惹句での内容はなんとなく、リベラルではなく、なんとなくわかる。 『世界の中心で、愛をさけぶ』の宣伝で、電車に広告が打たれていたことがあって(吊り広告か、ドアグラスにシール添付だったか失念)、文芸単行で電車に広告出すのって珍しいなあと思った記憶がある。 だからここ数十年の文芸はおおかれすくなかれ、テレビやその他メディア

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  • 謎の男 - 柳田威生blog

    今日の午後1時の5分過ぎ。外苑西通りを北にむかって四谷四丁目の交差点についた私は、ぼんやりと信号が青になるのをまっていた。さわやかな晴天。少し前までサンミュージックが入っていたビルの前で、区議会選挙の候補者の宣伝車が演説している。ふと気づくと、私が立っている御苑側の歩道の、横断歩道からはなれた日陰のあたりのところに、男が自転車に乗って、向かい側の車道に滞留する軽ワゴンの宣伝車の様子をじっとうかがっている。 男はネイビーブルーのパーカージャケットを羽織り、ズボンは薄い青のジーンズ。自転車は赤い車体のスポーツ用で、泥はねよけは銀色だ。髪型は分けない天然パーマを襟まわりだけ刈り上げている。身長は170センチくらい。 おやっと思ったのは、イヤホンとマイクのセットをして、どこかと通信しているのだ。イヤホンから伸びたマイクのアームの白い色が、やけに目立つ。以上の特徴をくりかえし心のなかでとなえて、しっ

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  • 労働者は考えなくていい - 柳田威生blog

    これはふと思いついてからすごく興奮したのだが、労働者は「考えなくていい」のである。 知っていることを繰り返すのが労働なのだ。考えるのは、有閑階級のすることなのだ。 皮肉な意味でいっているのではなく、当にそうなのだ。考えるというのは、はたからみれば休むことに似ている、というのはそれこそ皮肉だが、迷っている状態にかなり近い。 すでに知っていることを淡々と実現するのが、労働なのだ。

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  • 有閑階級と著述 - 柳田威生blog

    小谷野・鈴木論争を眺めていて、思ったのだが、要するに純文学を書くのは有閑階級と(貧しくても純文学に特化した一部の)文学青年で、娯楽文学を書きかつ親しむのは亜有閑階級と言えるのではないか。 この場合の有閑階級という言葉はかなりおおざっぱなもので、私の枠組の中では、人間は有閑階級と亜有閑階級とそれ以外のどれかに所属する。 究極的には純文学は読まれなくてもいいわけだ。書かれることに意味がある。 武士とか町人という階級名を用いると、純文学とか大衆文学という概念と輻輳をおこして混乱するような気がするのだ。日近世以前の文学に含まれることもある難解さは、ある程度以上に仏教に親しまなければわかりづらいという意味での難解さだろうし。 明治以降を現代としても、哲学にしろ社会学にしろ、なにかしらの学問的バックボーンを用意しなければ、長い読み物は構成しづらい。私小説は、そのバックボーンに記述者の経験をもってくる

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  • 神棚としての本棚 - 柳田威生blog

    いわゆるオタクではない人々、あまりネットで情報を漁ることもなく、乱読もしない人で、しかしを買って、大切に棚にしまっておく人たちがいる。 同じを、たまに取り出して読み返すわけだ。そういう人の棚は宗教系の書物が多いような気がする。家の中にわりとちゃんとした棚が一棹だけあったりするのだ。上の段が文庫で、下が大型や雑誌類。

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  • 斜め読み、流し読み、読んだふり - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110413 眺めていてふとおもったのは、写というのはもちろん西洋にもあっただろうけれども、気軽な読み物の写というのは、西洋中世においてどのくらいに流布していたのだろうということ。 宗教組織のなかで活発に行われていたであろうことは、映画の『薔薇の名前』なんかで観たとおりの感じだったのではないかと思ったりもする。 日は、万葉集で当時の自衛官までが書き物を遺している。そういうようなことは、西洋にもあったのだろうか。(追記。防人の歌というのは実は貴族が書いていたのだそうだ) 話のうまいやつがいて、芸人として都市を渡り歩いていたんじゃないかと思うのである。日の中世にも、いただろう。 そういえば、ベストセラー作家の講演だって、ありゃ、もしかしたら「有名作家のを読むかわり」なのかもしれないではないか。サインなんかもらって

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    muimimuimi
    muimimuimi 2011/04/13
    <防人歌ってのは貴族が防人のふりして詠んだ歌だよ>知らなかった……
  • 理性にはかならず盲点があり、恐怖には焦点がない - 柳田威生blog

    『分裂病の精神病理2』(東大出版会)をぱらぱらと眺める。そういえば、恐怖というのは、喜怒哀楽のどれにも含まれていない。分裂病(旧称)の病像は、しばしば恐怖についての肖像画となるようだ。 恐怖が言葉の下にとどまっている状態が、通常人の恐怖状態とでもいうべきもので、恐怖が先に立って、あれやこれやの理屈が、てんでばらばらに、病者の周囲を混乱しつつ浮遊して、きまぐれに病者に襲いかかる状態を分裂病(旧称)と呼ぶべきなのだろう。 小谷野さんの「東海道五十一駅」など読むと、将来への懸念や家庭で落ち着けないことへの不安といった、治療者によって原因とみなされがちな事象がベースに居座っていて、閉所入場や乗車体験などがきっかけとなって、発作がはじまるらしい。ベース事象にたいして無理矢理な解決を焦って行為すると、たとえば「悲望」のようになる。対応することにおける意味上の病というのが精神病なのかもしれない。病者が「

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  • 副島隆彦が、福島原発の門前で、防護服を着た係員と出会った(ウルルン滞在記のナレーションで) - 柳田威生blog

    吹いた。立派である。文章から察するに、ドーパミン出まくりであろう。宗教人のパトスを感じたのである。タクシーで行くとかいうのが、また……。 http://www.snsi.jp/tops/kouhouprint/1487 http://www.snsi.jp/tops/kouhouprint/1492

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    muimimuimi
    muimimuimi 2011/04/03
    タイトルが秀逸。ウルルンの末期に足りなかったのはソエジーみたいな冒険心である。しかし、街宣車にソエジーが乗っていたのかと思ったのにタクシーだったのか……。
  • 急性と、慢性と - 柳田威生blog

    妄想と幻覚の違いということに興味があって、図書館にあるわりと専門的なを借り出して眺めている。妄想するということがどういうことかは、経験的にわかるような気がするけれど、私には幻覚体験がないし、を書いている専門家たちもそうである様子である。 もちろん入眠時幻覚なら身に覚えがあるが、幽霊的なものがすこし離れたところにじっとしていてこちらを窺っている類の幻覚というのは、ない。ここまで行けば、精神分裂病(旧称)の領域であるようだ。 こういう患者は、幻覚と恐怖感がセットになっているものだが、薬によって恐怖感だけは解消できるものなのらしい(小木貞孝「他律幻覚と無律幻覚 薬物療法を通じてみた分裂病性幻覚」『幻覚の基礎と臨床』(医学書院))。あるいは精神病院の入院が長くなって、病気が慢性化した患者からも恐怖感が消失したように観察されることもあるらしい。 私は視覚的な人間なので、幽霊をどうやって表象化する

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    muimimuimi 2011/03/30
    「入眠時幻覚」。
  • 不思議なひとびとと思想的な「しっぽ」 - 柳田威生blog

    『真実主義 明解サイキック讀II』というを買ったのだが、1996年5刷なのにけっこう美である。付録が虚構のスポーツ新聞で、「北野誠、芸能界から追放か?」という見出しで、なんだか感慨深い。もちろん「放」と「か」のあいだで折られているのである。 「真実主義」というのは、「まことしゅぎ」と読むらしい。 なぜこのを買ったのかというと、安かったからというのが大きいが、竹内義和に興味があったからでもある。このには『パーフェクト・ブルー』の原型とおぼしき小説「涙、あふれて……」が収録されている。 私にとって不思議な人々というのは、竹内や堀井憲一郎などの各氏である。いとうせいこうとか、宮台真司とか、岡田斗司夫、坪内祐三などの人々は、おおざっぱにいえばみんな同じようなところにいて、しかしあまり重ならないジャンルからそれぞれ選んでみたが、そんなに「不思議」な感じはしない。たしか堀井氏は私が子供のころ

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