ラカン的な大文字の「他者」が存在不可能であるのと同様に、社会は全体性が不可能であることとしてのみ存立可能である*1。 にんずうを かぞえるという こうい(行為)には、その かぞえる ひと じしんを ふあんに させる なにかが あるように おもいます。 「ひとり、ふたり、さんにん……」と その ばに いる ひとの にんずうを かぞえるとき、わたしは ひとり ひとりの かおなどを みながら、もじどおり 「あたまかず」を かぞえてゆく わけですが、そうやって かぞえている わたし じしんの 「あたま」を わたしは みることが できません。つまり、わたしは、わたし じしんが ぞくしている その ばの しゅうだんを、「ぜんたいせい(全体性)」として ちょくせつ しや(視野)に おさめることは できないという ことです。その いみで、じぶん じしんを ふくむ しゅうだんの 「ぜんたいせい」とは、そうぞ